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第三十話 前を向いて
その日は良く晴れた暖かい日だった。桜は早くも散りはじめている。
三月のうちに何度か大学に行ったけれど、改めて今日がスタートだと思うと妙な緊張感がある。俺は鞄を肩から掛けて階段を降りると、すぐにリビングからお袋が顔を出した。
「今から行って来るの?」
俺が「ああ」と答えると、お袋は感慨深そうな表情になった。
「去年の今頃はどうなる事かと心配したけど……部屋から出られるようになって良かったわね」
そう言って、慌てて滲んだ目元を拭う。俺のせいだから自業自得なんだけど、お袋に泣かれるのはやっぱり苦手だ。
「もう行くよ」
決まりが悪い顔を見られたくなくて玄関に向かおうとすると、お袋の足の間からするっとノブナガが姿を現した。
「ノブナガ」
俺が声をかけると、ノブナガは「なんだ、何か用か」と言わんばかりにふてぶてしく「にゃあご」と鳴いた。
俺が大学に行くと宣言した次の日、ノブナガはめでたく退院し、家に戻ってきた。それから数ヶ月はぎこちなく片足を引きずっていたけれど、最近ようやく元通り歩けるようになったのだ。もう二度と歩けないかもしれないと宣告されていたのが嘘みたいだ。
「ノブちゃんも見送り?」
お袋はそう言って俺と顔を見合わせると、おかしそうに笑った。俺はしゃがんでノブナガの頭を撫でてやる。もともとおっさんみたいな顔つきなのに、ここ数か月は動けないせいで、さらに太って貫禄が増したような気がする。
「もう車に轢かれんなよ」
ノブナガは機嫌良さそうに目を細めて俺を見た。今の俺の姿を見て、ノブナガも満足しているのかもしれない。そうだといいなと思う。
「……それじゃ、行ってきます」
俺は立ち上がると、今度こそ玄関の外へと歩き出す。その後ろ姿をお袋とノブナガがいつまでも見守っていた。
今日は四月に入って最初の講義日。受講の受け付けやオリエンテーションを終えた大学生たちは早くもバイトやサークル活動へと散ってゆき、先ほどまで学生で溢れ返っていた大学の構内は閑散としつつあった。
俺が大学の裏手にある桜の並木道を歩いていると、見覚えのある緑のフェンスの向こうに懐かしいテニスコートが見えた。すでにサークル活動が始まっているらしく、大勢の学生が楽しそうにテニスに興じている。
そのフェンス越しに、テニスコートをじっと見つめる若い女性が一人。ライトグレーのスカートにピンクのジャケットとクリーム色のブラウス、下は黒のタイツにローファー。
とても春らしい格好なのに、彼女の表情はまるで冬の寒さに耐え忍んでいるかのように硬い。彼女の周りだけ、まだ春が来ていないのだろう。
俺はゆっくり彼女に近づいていくと、なるべく平静を装って声をかけた。
「もしかして高階……だよな?」
高階香織はこちらを振り向いたものの、俺が誰だか分からないらしく、不思議そうな顔をしている。俺は続けて言った。
「君、高階だろ? 俺、野村蒼太。高校一年の時に同じクラスだった……覚えてない?」
しばらくして高階は何かを思い出したように「ああ」と声を上げる。そしてぎこちなく微笑んだ。
「覚えてる、野村くんだよね。あれ……ひょっとして同じ大学? ぜんぜん知らなかった」
「俺、留年してたから……大学にも一年以上来てなかったし」
「そう、なんだ……何かあったの?」
「大学に行けなくなってたんだ。それでちょっと……引きこもってた」
自分でも不思議になるほど自然に答えていた。高階は少し驚いたような顔をすると、視線を逸らして「ごめん……聞かない方が良かった?」と申し訳なさそうに謝った。
「いや、気にしないで。別に隠してるわけじゃないし」
俺が気にしてないという風に肩を竦めて笑ってみせると、高階はほっとした気配を見せる。
(相変わらずだな、高階。優しいところはちっとも変わってない……)
俺がまじまじと見つめていると気まずいと感じたのか、高階は黙り込んでしまった。俺は慌てて話題を探す。
「そういえば……さっきから何見てるの?」
「……テニスコート、見てたの」
大勢の学生がテニスを楽しんでいる光景を見つめる、高階の寂しそうな横顔に気づかない振りをして、俺は話を続ける。
「テニスか……楽しそうだよな。俺もちょっと興味あるんだ。高階もテニスサークルに入ってるんだっけ?」
「え……どうして知ってるの?」
わずかに身を固くする高階に「見たことがあるんだ」と俺は答える。
「君がテニスしているところを見たことがあるんだ」
そう、俺はずっと君を見ていた。俺を助けてくれたあの日から。君に出会えたから、外に出られるようになった。君に出会えたから、どんなに苦しくても明日を待ってみようという気持ちになれた。
俺は君からたくさんのものを貰った。だから今度は、俺が君のために何かしたい。
俺は高階に会ったらずっと言おうと思っていたことを口にした。
「せっかくだし、俺もテニスサークルに入ろうかな。そういうの始める前に休学しちゃったからさ……。高階さえよければ、今からサークルの案内を頼めないか?」
「今から? でも……」と高階は困惑したように言い淀んでしまう。
「やっぱマズいかな? 部外者の俺が急に行ったら……」
「あ、違うの。野村くんは大丈夫。ただ……テニスサークルでトラブル起こしちゃったから、私が案内するのは難しいと思う」
「トラブルって?」
俺が尋ねると、高階の表情にさっと陰が差した。
「ちょっと、いろいろあって……」
そう言ったっきり、うつむいてしまう。高階は、まだあの事を引きずっているんだ。俺は、はっきりと悟った。
「辛いなら無理にとは言わないけど……もし心残りがあるなら一緒に行こう。じゃないと、ずっと後悔したままだ。何を言われても、俺がそばにいるから」
そう口に出してから、ちょっとクサすぎただろうかと後悔した。引かれたらどうしようと心臓をバクバクさせている俺の前で、高階は何かを決心したように顔を上げる。
「そうだね……私のせいでサークルの空気悪くしちゃったこと、みんなに謝りたいし……誤解もちゃんと解きたい。私もこのままは嫌だから」
俺はほっと胸を撫で下ろす。もし断られたらどうしようと思っていたのだ。勇気を出して高階を誘って良かった。俺が緊張していたのだと気付いたらしく、彼女も笑顔を見せた。
「緊張しなくても大丈夫……って言いたいけど、私もサークル行くの、かなり緊張する」
「二人で行けば何とかなるよ」
「うん、そうだね」
その時、歩道の向こうに小さな影が走った。はっとして目で追いかけると、それは薄茶の猫だった。高階はがっかりしたように肩を落とす。
「猫、好きなの?」
そう尋ねると、彼女は「うん」と答える。
「私、サークルとか岡橋でよく会う猫ちゃんがいたんだ。でも、最近会ってないからちょっと心配で……」
ノブナガのことだ。俺の心臓は高鳴った。彼女は「ゴロちゃん」を忘れていない。そのことが俺は嬉しくてならなかった。
「どこかでまた会えるよ」
そう言うと彼女は「そうだね」と付け加えた。
「私ね……少し前に橋から飛び降りようとしたことがあるの」
俺がびっくりして彼女を見つめると、高階は慌てて両手を振る。
「ちょっと魔が差したって言うか……ごめんね、ヘンな話して。びっくりするよね」
「いや……わかるよ。そういう時ってあるよな」
俺が否定をしないと分かると、高階はどこか安心したように続ける。
「その時にね……『馬鹿なことすんなよ!』って言われたんだ。ぜんぜん知らない人だったし、いきなり体を掴まれて怖かったけど……すごく真剣だった。真剣な目で『本当に死んじゃったらどうするんだ』って」
そう語る彼女の瞳は、もう「ここではない何処か」を映してはいなかった。
「その時はびっくりして逃げちゃったけれど、あとから冷静になったら、その人の言う通りだった。私……本当に馬鹿なことしてた。今はね、その人に感謝してるの」
胸に熱いものが広がって言葉にならなかった。無駄じゃなかった、無駄じゃなかったんだ。俺は引きこもりで、誰の役にも立てない、何の価値もない人間だと思ってたけど、違った。俺の言葉は彼女に届いていた。ちゃんと届いていたんだ。
目から涙が溢れそうになって、慌てて歯を食いしばる。突然、泣き出したら何も知らない高階を驚かせてしまうし、そんな格好悪いところを好きな女の子に見せたくない。
高階は俺を見て不思議そうな顔をすると、くすりと笑った。久しぶりに見せてくれた彼女の柔らかい表情に、俺はどきりとする。
「どうしたの?」
そう尋ねると、彼女は俺を見つめてきた。
「野村くんってなんだか不思議な人だなあって。久しぶりに会ったはずなのに全然、そんな感じがしないの。まるでずっと友達だったみたいに」
高階に屈託のない笑顔を向けられて、俺は耳まで真っ赤になる。それはそうだ。俺はずっと彼女のそばにいた。優しくて、不器用で、一生懸命な高階を応援し続けてきたのだから。
大学に行くと決めた日から、不思議と俺はノブナガの中に入らなくなった。ノブナガと一緒に寝ても体が入れ替わることも無いし、もう二度とあんな奇跡は起きない。うまく説明できないけれど、そういう予感があった。
それでもいい。ノブナガとなって過ごしたあの日々は夢や幻ではなく、俺と彼女の記憶の中で生き続けるのだから。
「行こうか」
俺が声をかけると、高階も微笑んで頷く。
ふと高階の手首が目に入ったが、そこには何も無かった。よく見なければ分らないほどうっすらとした傷跡は残っているものの、リストバンドも、ベルトの太い腕時計もつけてない。彼女もまた、必死で前を向こうとしているのかもしれない。
俺と彼女は桜の花びらの舞い散る道をゆっくりと歩き始めた。
~完~
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