その先

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   文字通り、女手一つで育ててきた。物語の中で沙羅が言っていたような、何が幸せだとかそんなことは考える余裕もなく日々が過ぎて行った。辛い現実を受け入れる間もなく始まった息子と2人きりの生活は、もちろん大切で可愛くて幸せな瞬間もたくさんあったが、常に悲しみと隣り合わせだった。少しでも気を抜くと、大きな悲しみにずぶずぶと飲み込まれて、もう二度と出てこられないような気がした。記憶が雪のように降り積り、いずれ見えなくなるはずのキラキラした青春は、どんなに目を背けても眩しく輝き続けた。    「つまらない毎日は多分幸せの延長なんだよ。」洋一はあの時そう言った。  洋一との日々は、つまらないなんて思うに至る前に突然、消えてしまった。あの日常が今も続いていたら、私もいつか、ああつまらない、なんでもいいから刺激がほしい、若い頃が懐かしいと思ったのだろうか。  「つまらない」と思いたかった。私には想像もつかない。それが世の中の妻たちには当たり前でも、私にとってはとても贅沢な感情であることはわかる。人は本当にないものねだりだ。学生の私はあんなにも、つまらなくなってしまうであろう毎日を憂いていたのに。 「あと名前。」 「…おお〜。」 「桜子から取って、。洋一のを取って陽介。でしょ?」 「鋭いわ…。なんでもお見通しか〜。」 「ていうか、俺に言わせればひねりがなさすぎてバレバレだよ。」  得意げな晴太。こういう時の表情が洋一とそっくりだ。 「母さん、お父さんに会いたいってよく思う?」  晴太はこちらを見ずにそう聞いてきた。空になった皿をフォークでつつきながら。 「そりゃ毎日のように思うよ。会って晴太を見せたい、こんなイケメンで賢く育ったよって。」 「その親バカ治したほうがいいよ?」 「親バカでいさせてくださいよ〜。」  頼むから外で言うなよ、とまた笑う。  我が子ながら、本当に優しい子に育った。想像していた「クソババア!」と罵られるような反抗期は到来しなかった。持たせたお弁当に手をつけず、そっくりそのまま持って帰ってきたことはあったし、帰るなり部屋にこもって出てこない時期もあったけれど、まあ思春期なんてそんなもんだろうとそこまで重く考えていなかった。そんな晴太との毎日は、幸せの連続だったのにつまらなくはならなかったな。  ふと、ことに骨質している自分の思考に気付いておかしくなる。つまらなくないことに越したことないじゃない。幸せじゃん、私。ふっと笑って前を見ると、晴太が椅子にふんぞり返っていた。そして、 「あーあ、つまんねーなー。代わり映えしない晩ご飯の後に毎日出てくる皮付きリンゴ。飽きたわさすがにー。」 「…ぷっ。なに急に。」 「飯をつまんないと思うのも幸せの延長なんだなって父から学んだもんで。」 「もー。つまんない飯はひどくない?皮付きがそんなに嫌だったなら明日から剥くけど。」 「…そういう話じゃねんだわ。」  晴太が私の作るご飯や、その後の皮付きリンゴに文句を言ったのはこれが初めてで、私を思って言ってくれたのだとすぐに解った。  好きな人へのトキメキも、子どもへの愛情も、くり返すうちにすぐ日常に成り下がる。つまらなくなる。けれどそんなつまらない日常は、幸せの延長線上にある尊い時間なのだ。 「ありがと、晴太。」 「飯に文句言われてありがたがる母親がどこにいんだよ。」  晴太は照れ臭そうに笑った。
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