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燈子は私より二つ年下で、アルバイトをしながら都内のライブハウスで歌を歌っている。バンドのメンバーは全員女の子で、ファンも女の子ばかりだ。バンドの売りは燈子の伸びやかなハスキーボイスで、曲も歌詞も彼女が書いているため、燈子のファンが最も多い。海外の有名デザイナーや画家がそうであるように、燈子もミューズに恋をしながら曲を書く。女たちのおかげで自分は歌えているのだと彼女は云う。
「恋をしないで書いた歌なんて、炭酸の抜けたビールみたいなものだよ」
そう云いながらも、一曲か二曲書いてしまうと燈子はまた別のミューズを求めて去って行く。残された女の子の気持ちが私には痛いほどよく分かる。
彼女たちも初めのうちは燈子が本気でないことぐらい、多分頭では分かっているのだが、恋をしている最中の燈子は本当にまめで情熱的で優しいので二度、三度と応じていくうちにいつの間にかみんな本気になってしまう。
私もそうだった。燈子に出会うまでの私は恋愛にほとんど興味がなかった。過去に声をかけてきた男たちは、決まって従順さと控えめさ、そして料理の腕を私に求めてきた。そんな彼等はセックスも似たり寄ったりで、皆一様に細やかさやデリカシーというものに欠けていた。
そんなある日、燈子と出会った。白木蓮が零れる、三月半ばのことだった。
私は幼児向けの知育教材を販売する会社に勤めていて、大型ショッピングモールの催事スペースなどで行われる、教材のイベントプロモーションの現場監督を任されている。教材内容や料金を説明するのは私のような社員だが、呼び込みやチラシ配りは派遣会社から短期のアルバイトを送ってもらうことが多い。その一人としてやって来たのが燈子だったのだ。
彼女は金・土・日のプロモーションの中で最も子供受けが良く、また最も多くの母親たちを教材の説明コーナーに案内してくれたアルバイトだった。愛想が良いだけでなく、ユーモアがあって子供とにらめっこをしたり、歌ったりすることに全く抵抗がなかったので、彼女のその仕事ぶりに自然と場の空気が明るくなった。そんな彼女の快活さに何となく惹かれて私の方から話しかけたのだ。
「瀬川さんは子供が好きなの?」
「はい、可愛いですよね」
「保育士さんみたい」
仕事中は慌ただしく、交わした会話はその程度だったと思う。ボーイッシュな見た目に反して、笑うと細くなる眼元が可愛らしいなと思った。すごく年下かと思っていたら私と二つしか変わらないと聞いて驚いた。たまたま休憩時間が十分ほど重なり、休憩室でおしゃべりをした際、彼女が普段、音楽活動をしていることを聞かされた。
「もし良かったら自主制作のCDがあるので、聴いてもらえませんか」
「CDを持ち歩いてるの?」
「どこでチャンスに巡り会うか分かりませんから」
その時、私は純粋に歌を売り込むチャンスのことを云っているのだと思っていた。
CDのお金を払うと云ったが、燈子は受け取らず、
「お金は要らないので一言でも感想をもらえたら嬉しいです」
と云って去って行った。
正直云って期待していなかった。素人の自己満足が、曲がりなりにもこんな風に形を成せるのだから、いい時代だなあとぼんやりと思った。それから小さく笑って、パソコンでそのCDを聞いた。
私は耳から彼女の世界に取り込まれていった。切ない歌詞とメロディーに心がさざ波立ち、胸が苦しくなるような、理不尽なほどの圧倒的な力で私はあっという間に恋に落ちた。
歌詞カードの隅に手書きで電話番号が書かれていて、番号の最後に、
『(留守録あり・必ずかけ直します)』
と書かれているのを見て、私は勇気を出して電話をした。まさか出るとは思っていなかったのだ。電話の向こうから燈子の声が聞こえてきた瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
正直にとても良かったということを伝えると燈子は、
「気に入って頂けたなら、もう一枚別のCDを差し上げます」
と云った。
「ほんと?ああ、でも現場は今日までだったから、どうしようか」
「じゃあ今度、呑みにでも行きましょうよ」
その週、ずっと私は燈子との約束のことばかり考えていた。仕事が終わったら、ネイルサロンに行こうとか、服を買いに行こうとか、話のネタに困らないように映画を観ておこうとか、頭の中はそんなことばかりで全く仕事に身が入っていなかった。そして通勤中は彼女の歌を聴いていた。調べてみると燈子の歌はネットの動画投稿サイトで聴くことができたが、そんなことを彼女に云えば、直接会ってCDをもらう理由がなくなってしまうと思い、明かさなかった。
楽しみの度合いはこれまでのどんなデートよりも大きかった。そしてその楽しみには幾許かの緊張も伴っていた。数回仕事を共にしただけの女の子にどうしてこんな気持ちを抱くのか、この時は自分でもよく分かっていなかった。
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