恋歌の果て

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 立川駅のカフェの入口で燈子を見つけた時、私はまるでまばゆいものを見つけたような気持ちになった。彼女は店の中には入らず、扉の脇で携帯電話を眺めながら佇んでいた。そして彼女の足元には革張りの黒いギターケースが置かれていた。  彼女の姿を見ていると心臓がどきどきしてきた。  あの子の方から、私に気づいてくれないかな。  そんなことを考えながらゆっくり燈子に近づいて行くと、二メートルほど手前まで来たところで、彼女はぱっと顔を上げた。途端に笑顔が満開になった。 「藤野(ふじの)さんは普段、どんな音楽を聴かれるんですか?」 「今はほとんど聴かないの。強いて云うなら教材内で使われる英語の歌ぐらい」  燈子は黙っていると話しかけにくい雰囲気があるが、私と話している時の表情は、柔らかかった。子供を相手にしている時の笑顔もとても素敵だったが、バーのカウンターでジントニックを呑みながら私の話に相槌を打つ穏やかな微笑みも好きだなと感じていた。 「歌詞カードを見てびっくりしちゃった。作詞作曲もあなたがしてるなんて。いつから歌を歌ってるの?」 「そうですね。私の祖父が趣味で詩吟をやってたんです。だから歌うことや詩を書くことは私にとって身近で自然なことでした。でもそのうち、自分の内側から出てきたメロディーを歌うようになって。ギターは父の青春時代の荷物から出てきたものです」 「ライブハウスにはいつから?」 「割と遅いんですよ。二十歳(はたち)の時だったかなあ」 「充分すごいわ。どうしたらそんなに長く一つのことを続けられるの?」 「それしか愛を伝える方法を知らないから」  ほんの一瞬だけ、燈子の瞳が真剣な色を帯びた。その漆黒の眼が私の胸を衝いた。 「へえ、それじゃああなたは歌手になるべくしてなっているのね」 「実は新曲ができそうなんです。まだサビだけですけど、あなたと電話した夜から作ってる」 「ほんと?聴きたいな」 「ここで演奏するわけには」  口許に笑みを浮かべて、燈子は私を見つめた。その表情が何を求めているのか私にはもう分かっていた。うちも集合住宅だから楽器は苦情が入るとか、部屋に着く頃には夜十時を過ぎているだろうとか、そんなことは考えなかった。 「じゃあ、うちに来る?」  きっと音楽だけでは済まない。私はこの時、そう覚悟して燈子を誘ったのだ。    燈子が似たような手口で他の女の子たちを捕まえて遊んでいるであろうことは、この時にはもう気づいていた。私は彼女の視線をうまく躱せなかったわけでも、その場限りの単純な好奇心に身を任せただけでもない。  正直に云う。私はずっと昔から、どこかに震えるほどの恋が転がっていやしないかと心の底で望んでいた。仕事での評価も、男たちからの求愛も、想像していたほど私の内側を揺さぶってはくれなかった。私は本気で恋をするのと同じぐらい、本気で傷ついてもみたかった。 もしこの子に抱かれて、沼にはまって、捨てられても構わない。  マンションまでの距離が近づくにつれ、私はひどく緊張し始めた。部屋に着いて、荷物を置き、お茶を彼女の前に置いたところで、まるでそれが自然な流れであるかのように、燈子の唇が私のそれに重なった。たちまち私の眼から涙が溢れた。 「ごめん、嫌だった?」  動揺した燈子の問いに対し、私はかぶりを振った。涙を堪えようとするのに必死でしばらく声が出なかった。 「違うの、キスが嬉しかったのは初めてだから」  慣れている風を装いたかったのに、そうできなかった。燈子は私の涙を指で拭うと、 「ごめんなさい。私、先刻(さっき)あなたに嘘を吐いた」  と静かに云った。 「どんな嘘?」 「本当は歌を歌う他にも、もう一つ愛を伝える方法を知ってる。それを、あなたにしてもいい?」  涙が零れた左の眼尻に優しくキスをされると、あれだけうるさかった心臓の鼓動が落ち着きを取り戻していくのが分かった。  私の乳首を這う彼女の熱い舌が、私を貫いた中指が、生きているということを教えてくれた。私は初めてセックスの最中(さなか)に声をあげた。 燈子に出会ってから私は女が女に惚れるということが、何も特別な世界の出来事だとは思わなくなった。  翌日、トーストと目玉焼きの簡単な朝食を済ませた後で、燈子は昨日云っていた新曲の一部を聴かせてくれた。 「まだ全部はできてないんだ。でも一番先にあなたに聴かせたかった」 「ありがとう。すごくいい曲だと思う。感動したわ。サビの部分さえできてしまえば全体が完成するまでは早いの?」 「ううん、私の場合はそうとも限らない」 「よくこういう曲が思いつくわね。才能かしら。いつも頭の中に音楽が流れてるの?」 「いくら考えても出てこない時は出てこない。曲を書くべき時は、神様が教えてくれる」 「神様?」 「うん、女神様。ミューズって云うでしょ。あなたみたいな女の人のことだよ」  多分、私が燈子と過ごした時間の中で最も幸せだったのはこの時だったと思う。  その日から燈子は私の部屋にずるずるとひと月ほど入り浸っていた。八王子にアパートを借りているとは云っていたが、この一か月間は一切帰宅せず、下着や歯ブラシは近所のドラッグストアで購入して凌いでいた。服は私のものを勝手に着ていたが、別に咎めなかった。燈子は私の部屋からアルバイトへ行き、スタジオで練習して帰って来た。  恐らくそのどこかから尾行されたのだと思う。ある夜、仕事を終えてマンションに帰り着くと、大学生ぐらいの黒髪の女の子が思いつめた表情でドアの前に佇んでいて、私は腰が抜けそうになった。彼女は手ぶらで、泣きはらした眼をしていて、化粧はぼろぼろだった。見た瞬間に、燈子のファンだと分かった。私は即座に踵を返し、マンションの外へ出て携帯電話でスタジオにいた燈子を呼び出した。彼女が到着すると私は非常階段に身を潜め、成り行きを見守っていた。 「帰んなよ。こんなところにいたら迷惑だよ」  燈子は前置きもなしに女の子に対しきつい口調でそう云った。 「何でうちに来てくれないの?」 「あの部屋は東京の大学に通う娘のために親御さんが借りてる部屋だよ。私が入り浸るためじゃない」 「今更。そんなの云い訳でしょ。ここで一緒に住んでる人、誰?」 「あなたには関係ないね」 「急にそんな態度とるなんてひどいよ。どうして」 「ほんとの理由を聞きたいなら云うけど。あなたももう大人なんだから察したら?」  驚くほど冷たい声で燈子はそう云い放った。私の知らない彼女の顔だった。  それを聞くと女の子は遂に耐えかねたように燈子に掴みかかった。頬や肩を叩かれても燈子は逃げるでもなくじっと立っていた。私はしまいには燈子が刺されるのではないかと生きた心地がしなかったが、やがて女の子は諦めがついたのか、涙も拭わずに引きずるような足取りでその場を立ち去った。 「あんな云い方して良かったの?」 「恋愛はいいものだけど、自分の人生を棒に振っちゃいけないから。あの子は大学を卒業して幼稚園の先生になるっていう夢を持ってるんだよ。今、恋に(うつつ)をぬかしてたら、その夢は叶わない」 「そうだけど、でも……そう考えてることを、あの子に云ってあげれば良かったのに」 「中途半端な優しさは、中途半端な期待を呼ぶだけだよ」 「好きだったなら、最後ぐらい、もう少し優しくしてあげてもいいと思う」  燈子は冷蔵庫からビールを取り出して、プルタブを開けた。 「正直云うとね、もう終わった愛情なんだ。あの子には曲をあげた。私の愛は全部そこに入ってる。書き上がっちゃうと、それ以上のものはもう出てこないの」  結局、私はそれ以上云うのをやめた。私が分かることではなかった。  燈子の歌はどの曲にも胸に沁みとおるような切なさが含まれているからだろう、家でも学校でも居場所がなく、拠りどころを求めて彷徨(さまよ)っている女の子たちが、のめり込んでしまうのは必然に思えた。性質(たち)が悪いとは云いたくないのだけれど、確かにそういう子たちの始末には手がかかりそうだった。燈子は幾度となくこういう目に遭ってきて、最善の対処をしているのだ。そう考えることにした。  それに、これはまだましなケースだった。別の日には、見るからに派手な女の子が三人ほどマンションの前でたむろしていて、飲み物の残った缶を蹴られて通勤靴が汚れたこともあったし、ポストの中にごみが詰め込まれていたこともある。  恐らく彼女たちの仕業だろう。どう調べたのか、彼女たちは私のフルネームをつきとめ、燈子のSNSのフォロワーから私の存在をあぶり出した。インターネット上には罵詈雑言と共に私の顔写真がモザイクや目隠し線なしに投稿され、私のSNSは悪意ある書き込みによって荒らされた。私は全てのアカウントを削除しなければならなかった。 「藤野さんてさあ、レズビアンなの?」  という同僚からの好奇の質問に、私は閉口した。  私は燈子以外の女を好きになったことがないのでよく分からない。男が見るような動画で女性の裸を眺めても、何の反応も起こらない。 「さあ、どうだろう」  そう答えるぐらいしかできなかった。  だから燈子がうちにいた一か月間はかなり色々なことがあったのだ。  だがそれよりも怖かったのは、燈子が私への曲をいつ完成させるのだろうということだった。完成させてしまったら、私もかつて見たあの女の子のように扱われるのだろうか。  燈子がうちへ転がり込んで来てそろそろひと月というある日、帰宅すると一通の置手紙がテーブルの上にあった。 『長いこと泊めてくれてありがとう。そろそろ自分のアパートに帰ります』  その日以降、燈子が連絡をしてくることはなかった。
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