【一章】夏休みの平日

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 雪也さんが戻ってきたのは、それから数分後のことだった。  ――コンコンッ コンコンッ  いつもの音が玄関のドアを鳴らし、ドアを開けると普段通りに笑う雪也さんの姿がそこにはある。  私は出かけていた雪也さんを再び家に招くと、彼の手からスーパーの袋に入ったパックご飯を受け取り、準備を始めた。 「いやー、堪忍な。(うち)の中のどっかにはあると思ったんやけど、いざ探したら全然見当たらんくて……寂しい思いさせたんちゃうか?」 「いいえ、大丈夫ですよ。私、もう子供じゃないんですから」  三十分にも満たない時間なら一人で留守番くらいできるし、その間の時間を寂しいと思うことはない。子供の頃は寂しいと感じたけど、高校生にもなった今は別だ。  言いながら温め終えた白米をお茶碗に移し終えると、振り返った先のリビングで雪也さんは拗ねたように唇を尖らせていた。それこそ、まるで子供の様に。  どうしてそんな顔をしているのか分からないまま、私はひとまずお茶碗と共に食卓について、テーブルの向かい側でお好み焼きを焼いてくれる雪也さんを眺める。  お好み焼きが焦げないように注意しながら、けれどふてくされて生地を裏返す。  絶妙な焼き加減で完成した具沢山お好み焼きを前に、彼はお好み焼きのソースを手にしながら、ポツリと呟いた。 「……不公平や」 「え?」  不公平。雪也さんは確かにそう言って、何が不公平なのか聞き返すと、彼はお好み焼きの表面にソースを塗りながら不満を露わにした。 「俺だけ寂しいって思ったんは、不公平や。あやめちゃんも『一人で寂しかった~。雪也さんに早く帰ってきてほしかった~』って思って」 「えっと。でも、雪也さんはもう帰ってきましたし……」 「今からでもエエから、思って。せやないと、不公平や」  自分だけが寂しい思いをして、早く会いたいと戻ってきた。  雪也さんはそれを不公平だと言って、私にも同じ気持ちを抱いてほしいとお願いしてきたけど、この場合はどうすればいいんだろう?  今こうして二人で一緒にいて、相手は目の前にいるのに、一人が寂しいと思うのは難しい。  それに、今の雪也さんは珍しく甘えん坊――というより、まるでを代弁するような態度を見せている。  彼の態度に、私はどう応えるべきか。  拗ねる雪也さんを前に、私は少しだけ考えて、気持ちが纏まると笑ってみせた。 「雪也さん」 「ん?」 「――おかえりなさい、雪也さん」  どこに行っても、どれだけ離れても、私の元に帰ってきてくれてありがとう。  本音を言えば、雪也さんと離れていた時間は寂しかった。ううん、正確には怖かった。  耳に残ったドアを強く叩く音は、当分離れることはないと思う。思い出す度に何度も恐怖に襲われ、眠れない夜を誤魔化す様に受験勉強にのめり込むかもしれない。  だからあの時、雪也さんがすぐに戻ってきてくれて嬉しかった。今こうして、同じ食卓でご飯を食べてくれるのが嬉しかった。  それだけで怖かった心は落ち着いて、いつもの私に戻れる。  だから私は、今日もこの家に戻ってきてくれた雪也さんに感謝して、彼を迎え入れる。ここは雪也さんの家じゃないけど、我が家のように何度も入ってきてほしい。  昔渡した合鍵を手に、いつでも来てほしい。  素直に言えない気持ちを『おかえりなさい』という一言に込めて、私は雪也さんに伝えた。 「お好み焼き、そろそろ食べ頃ですよね?」 「……せやな」  言葉を必要としない沈黙を終えて、私たちは同じ食卓で同じ時間を共有する。 「せや。マヨネーズ、どうする? せっかくやから、なんか描こうか?」 「なら、猫なんてどうですか?」 「猫、かぁ……よっしゃ! 任せとき!」  そう言って雪也さんはマヨネーズで絵を描き始めたけど、数分後、私の前に置かれたお好み焼きに猫はいなかった。  いるのは猫のような、犬のような、ウサギのような。いわば“何か分からない動物の顔”が一つ。  マヨネーズの線を隠す様にかけられた鰹節と青のりの多さに笑いながら、私は有り難く雪也さん特製のお好み焼きに箸を入れ、クーラーの効いた部屋で二人きりの夕食を楽しんだ。   :*――*――*――*:  その日の夜。あやめとの夕食をとり終えた雪也は、部屋に戻ると月夜を見上げた。  二人きりの食卓だが、楽しそうに笑い、美味しそうにお好み焼きを頬張る少女。その数十分前には怖い思いをしたはずなのに、彼女は気丈に振る舞い続けた。  聡い彼女であれば、薄々真実に感づいていることは分かっている。  けれど“近衛雪也”から言えることは何もなく、彼はただ“隣室のお兄さん”として振る舞い続けるだけだ。 「……はぁ。ダメだな」  普段はエセ関西弁を吐き出す口から漏れたのは、情けのない溜息。  ドアを叩いていた男の一件もそうだが、関西人を装った白米の一件もそうだ。  結局あの後、レンジで温めた白米はあやめと半分ずつ分け合うことになった。けれど白米がお好み焼きと一緒に食べられることはなく、『せっかくだから、この余ったお肉で焼肉ご飯にしましょうよ』と言ったあやめの提案で焼いただけの豚バラ肉で完食することになった。  あの発言は、考えるまでもなくこちらを気遣っての発言だった。ではなく、あの時彼女の目の前で食事をとっていたの食の好みを気遣ってのものだ。  雪也はもう一度溜息を吐くと、自分の不甲斐なさを反省しつつ、一本の電話をかける。 「兄貴。悪いんですけど、ゴミ捨て場の“ゴミ”を処分してもらっていいですか?」  繋がった電話の先から、“兄貴”と呼んだ男の声は聞こえてこない。  耳を澄ました先――電話越しに聞こえてきたのは、名も知らない男の呻き声のみ。  数時間前、自分がゴミ捨て場に捨てて、“ゴミ”と称した不審者の弱り切った声に、雪也は兄貴分の男の手際の良さに感心した。 「さすが、仕事が早くて助かります」 「こんな所に転がしておいたら人目につくからな。それに――」 「鹿、ですか?」  雪也の返しに、電話越しの男は何も言い返さなかった。  あやめを執拗に責め立て、恐怖を与えた男。雪也が気を失わせゴミ捨て場に投げ捨てた男は、彼にとって見覚えのある男だった。  名前は知らない。けれど本来では“味方”或いは“仲間”と呼べるその男も、今となっては“馬鹿”であり“裏切り者”だ。  この揉め事の後始末は、兄貴分の男が内々に治めてくれる。  雪也はこれ以上自分が関わる必要はないと判断し、電話を切る前にこう言い残した。 「兄貴。オヤジさんの為に、揉めごとを増やしたくないアンタの気持ちは分かる。けどな――」  薄暗い夜も照らす、淡く白い月明かり。  雪也は手の届かない光に手を伸ばしながら、彼女も同じ空を見上げているのかと想像してみた。  そして、 「――これ以上あやめちゃんを傷つける存在(もの)があるなら、それは俺が潰す。くだらない争いに、あの子を巻き込むな」  なんてくだらないもので、あやめから笑顔が消えることだけは許さない。  雪也は吐き捨てるように告げると、通話を切ってスマホをベッドに投げ捨てた。  必要最低限のものしかない、殺風景な一室。雨風を凌いで、眠るだけの部屋。  彼女が暮らしている場所とは大違いだと自嘲しながら、雪也は暗い部屋で眠りについた。 <続く> 【第三話:やすらぎ商店街】 ⇒
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