【一章】夏休みの平日

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【一章】夏休みの平日

 【第一話:夏休みの始まり】  あれはまだ、私が小学生だった頃。  夏休みに入ったばかりの、夏日が続くとある平日。  めんつゆを切らしたことに気付いたお母さんが、買い物に出かけた正午。閉められたアパートのドアから、優しい音が聞こえた。  ――コンコン コンコン  短い二度のノックが、二回。  この部屋を訪ねてくるのは、大家さんか知らない人のどちらか。  大家さんの場合は三回ノックして、『大家ですけど』と見知った女性の声が聞こえてくる。  知らない人の場合は、数なんて関係なくドアを叩き続ける。名前も言わないで、ただドアを叩き続けて、ある時は無言でドアの前に立っていることもあった。  あの時耳に届いた音は、私が知っている音は違った。  軽やかで、けれど確かに音を鳴らす。まるで呼びかけるような、優しい音。 「…………」  聞いたことがないドアの鳴らし方。けど私は、この音を鳴らす人を知っている気がした。  知らない人が来ても、ドアは開けちゃダメ。  そうお母さんに教えられていたけど、私はゆっくりとドアに近づいて、ドアノブに手を伸ばす。  低い背丈では、覗き穴から相手の姿を確認できない。声をかけようにも、相手のことをなんて呼べばいいのか分からない。  迷いながらも、木の板一枚隔てた先に立っている人に会ってみたくて、私は施錠された鍵に触れた。 「――開けたらアカンよ」  鍵のつまみを回す前に、ドア越しに声が聞こえる。  訛りのある、関西弁だった。 「お母さんから、知らん人が来ても家にあげたらアカンて言われとるやろ?」 「……うん」 「せやったら、鍵は閉めたままにしとき。お母さん帰ってきたら、また会いにくるさかい」  関西弁を話す人。知らないはずの人。  それなのに、彼の言葉は深く胸に沁み込んでくる。私は言われるままにドアノブから手を離して、玄関から一歩距離をとった。 「エエ子、エエ子。――ほんなら、また後で」  顔の見えない、男の人。けど、聞き覚えのある優しい声。  ――あの人は、誰なんだろう? あの人は、確か……。  ずっと考えて、私は“彼”を思い出す。懸命に考えて、考えて。その日の夕方、私は顔を合わせた……――。    :*――*――*――*:  勉強時間を縛るチャイムの音が鳴ることがなければ、直後に息抜きとなる友人同士の話し声も聞こえてはこない。  耳に入るのは、窓の外で元気に鳴き続ける蝉の声と、少しだけ年期が入ったクーラーの羽が上下に動き続ける音。  今年も例年より熱くなると報じられた、七月下旬。高校生活最後の夏休みに入ってから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。 「今日の数学はここまででいいかな。あ、けどあの文章問題は、もう一回見直した方が……」  一度は閉じた問題集を開いて、ノートも未記入のページを開く。使い慣れたシャーペンの芯を出して、私はもう一度問題を解き始めた。  さっき解いた時に引っ掛かった公式と、文章問題特有の言い回しに気をつけながら、正しく理解して問題を解いていく。  数学は明確な答えがあって分かりやすいけど、その分答えを間違えれば確実に点数として加算されない。国語とは違った意味で厄介な問題を、繰り返し解くことで自分自身に慣れされる。  今度は正しい数式で問題を解くことが出来たけど、やっぱり苦手分野はもう少し慣れて置いた方がよさそうだ。  そう思って、新しい文章問題に手を付けようとした時だった。  ――コンコン コンコン  短い二度のノックが、二回。  まるで『今いいですか?』と尋ねているようなこの音に、私は問題を解こうとした手を止めた。  私が新たな問題を解き始める一歩手前。タイミングを見計らったような訪問者の正体は、考えなくても検討がついてしまう。  外は真夏日、加えて今は太陽が一番高く昇った時間帯。長い間外で待たせるのも申し訳なくて、私はすぐさま立ち上がって玄関へ向かう。  知らない人が来ても、ドアは開けちゃダメ。  小さい頃からの言われ続けた、お母さんの教えを思い出して「大丈夫」と笑う。ドアを開けたこの先にいるのはきっと、私もお母さんもよく知るだから。  もう何度も聞いてきたノックの音を合図に、私はあの人が暑さで溶けてしまうまえに玄関のドアを開けた。 「こんにちは、雪也(ゆきや)さん」 「こんにちは~。あやめちゃん、今日は外に出たらアカンよ」 「え?」 「お陽さん元気過ぎて、焼かれる。お好み焼きになってまうわ」  こんがり焼けた豚玉の豚肉の気持ち、よう分かったわ。  ――なんて冗談を言いながらシャツで汗を拭う雪也さんを、私は笑いながら家の中に招く。  彼が溶けない内に、と思っていたけど、どうやら少しだけ遅かったらしい。  私は溢れ出る汗を拭う雪也さんに手ぬぐいを渡し、二人分の麦茶の用意を始めた。 →
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