【一章】夏休みの平日

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「あ~。生き返る~……」  雪也さんが汗を拭い終えて一息ついたのは、それから十数分後のことだった。  出した氷入りの麦茶を、一杯目は一気に飲み干して、二杯目は冷たさと香ばしさを味わうようにゆっくり飲んでいく。  リビングの窓から覗く、真っ青な空と白い雲を見上げる。確かに、外に出なくてもここから見える日差しは眩しくて、さっき玄関を開けた時に入り込んだ外気は蒸し暑かった。  やっぱり今日はこのまま勉強を続けた方がいいなと、リビングにあるテーブル上の問題集に目を向ける。 「アカン」  と、不意に視界に雪也さんの腕が入り込んで、問題集が見えなくなってしまう。  意図的に視界を遮ったのは明白で、私は暑さから持ちこたえた雪也さんを見つめた。 「あの、雪也さん?」 「俺がおるのに、問題集の方が気になるん?」 「いえ、気になるというか――」 「はぁ。他のやつ()に色目使うなんて、あやめちゃんはいつからそんな子になってもうたんや。『お父さん、そんな子に育てた覚えはありません‼』」 「……我が家は母子家庭です」 「じゃあ、『うちがおるのに、このいけず‼』」 「……なんで急に女性役になっちゃうんですか」 「うーん、ドラマの影響かもしれんな。こないだの再放送、こんなんやったし」 「アハハッ。なんですか、それ」  ボケとツッコミを繰り返し、ひとしきりし終えたところで私は呆れてしまい笑う。  きっと、本当の大阪人が聞けば『おもろない』と切り捨てられそうな、ヤマもオチもないやりとり。それでも私にとっては、呆れながらも楽しいやりとりで、つい笑ってしまう。  雪也さんも同じように思ってくれたのか、隣で彼が笑ってくれていて、私は余計に嬉しくなった。 「お母さんに、何か言われたんですか?」 「なーんも。小百合(さゆり)さんはずっと、あやめちゃんのこと見守っとるだけや。……最近、勉強に根詰め過ぎとるのは心配しとったけど」  物心ついた時から、女手一つで私を育ててくれた大切なお母さん。  お母さんは今、この街で小さな店を借りて小料理屋を営んでいる。最初は夜の営業だけだったけど、近年はランチ時間の営業も始めて、近所の奥さんたちにも高評価だって商店街で教えてもらった。  だからお母さんが家を空けることは多く、雪也さんはほぼ毎日私の様子を見に来てくれる。時にはご飯を一緒に食べて、時にはお母さんが帰ってくるまで一緒に留守番をしてくれて。  雪也さんは引っ越して来た時から、今日までずっと優しいお隣さんとして側にいてくれる。  自称・頼れる優しいお兄さん。  ……エセ関西弁がちょっとだけ胡散臭く見える時もあるけど、本人曰く『これは愛嬌の一つや』とのこと。 「勉強。頑張るんはエエけど、無理はしたらアカンよ」 「……心配かけてすみません。けど、、絶対に落ちるわけにはいかないんです」  雪也さんの気遣いも、お母さんの心配も、ちゃんと感じている。感じた上で、私は毎日問題集に噛り付くように向き合う。  限られた時間を無駄にしないように。受験生として最後の夏を、有意義に使うために。一度きりの大学受験を、不合格という結果にはしたくないから、私は今日もテーブルに向かうんだ。 「お母さんがくれたチャンス、無駄にはしたくないんです」  ずっと働かせて、苦労をかけて。  だから私は、高校を卒業したら働く道を選ぶって決めていた。少しでも家にお金を入れて、お母さんの負担を減らせたらって、高校一年のあの時まではそう思っていた。  けれど高校二年の春。進路を相談する時に、お母さんは大学進学を勧めてくれた。  多くのこと学んで、自分が進みたい人生を見つけて。  そう言って、背中を押してくれたお母さんの想いに、私は応えたい。そう願って、今も走り続けている。 「あやめちゃんが倒れたら、小百合さん悲しむんとちゃうか?」 「大丈夫ですよ」  そうならないように気をつけます。そう言葉を続けて、私は笑って見せる。  無理をしないとは言い切れないけど、倒れないように気をつける。今の私にできる約束はそこまでで、後は誤魔化すように笑うしかない。  ……けど。 「分かった。――せやったら、強制れんこーしかないな」 「へ?」 「はーい。可愛いお姫様、一名様ご案内させてもらいます~」 「ちょ、……キャッ!」  事態を把握する前に、身体が宙に浮きあがる。  雪也さんにお姫様抱っこされたと気づいたのは、それから数秒後のこと。戸惑う私を抱えて、彼はリビング横の襖を足で開ける。  そして、襖奥の和室に入ると、その足癖の悪さを活かして三つ折りの布団を敷いた。もちろん、丁寧な作業じゃないから不格好な配置になったけど、雪也さんは気に留めることなくその上に私を下ろし、 「はい。おやすみー」  自分も布団の上に横になってしまった。  お腹を冷やさないようにとブランケットをかけてくれるのは有り難いけど、今問題はそこじゃない。  私の隣で、少しだけ覆いかぶさる形で寝ようとする雪也さんに制止をかけ、私は布団の上から逃げ出そうとする。 「あ、あの、雪也さん!」 「ほら。子供やないんやから、ぐずったらアカン。一緒にお昼寝しよか」 「なんでそうなるんですか⁉」 「目の下にクマ作っといて、よう言うわ」  抵抗する私の上に覆いかぶさり、身動きを封じた雪也さんは、空いた手で私の目の下をゆっくりとなぞった。  眼の淵を指先が辿る感覚。けれどそれ以上に、雪也さんのまっすぐな瞳が間近にある緊張感に、私は身を固めてしまう。  いつもの人の好さそうな笑みが少しだけ、なりを潜めて、違う表情を見せる彼が私を見下ろす。 「小百合さんが許しても、俺が許さへん。……これ以上、心配かけんといて」  息が詰まるほどに、切ない声が耳元をかすめ、そのまま左肩に雪也さんの頭が落ちてきた。  私の肩に顔を埋めたまま、彼は深い溜息を一度だけついて、そのまま動くことはない。我儘な私の振る舞いに呆れてしまったのか、それとも脱力してしまったのか。  狸寝入りを決め込んで、私の上から動こうとしない雪也さんの姿に、つい笑みが零れてしまった。  心配をかけて、迷惑もかけてしまっているのに、雪也さんはいつもこうして私が無茶をしないように側で見守ってくれている。  家族であるお母さん以上に、私を心配して、私に正面から向き合ってくれる人。  ここまでされては逃げ出せないと、降参の意思を表示しながら彼の背中を軽くタップする。 「雪也さん、重いです」 「…………」 「ちゃんとお昼寝しますから、ね?」 「……ほんまに?」 「女に二言はありません」  この態勢から逃げ出すことは、どう考えても無理な話だ。  それにあんなに心配そうな顔を見せられて、か弱い声でお願いされてしまっては、その上で我を通すなんて真似は出来ない。  私の肩から顔を上げて、ゆっくりと目を合わせる雪也さんに微笑みかけると、彼は安心したように息を吐いて、いつものように笑った。 「ほんなら、今日は晩御飯までゆっくりしよか。子守歌、何がええ? 俺のおすすめは六甲おろしやけど」 「……それ、寝かす気ないですよね?」 「耳馴染の曲としてはええと思てんけどなぁ」  野球の応援歌を聞きながら、どうやって寝付けばいいのか。  本気のような、冗談のような、どっちつかずの雪也さんの提案に吹き出しながら、私は一つの提案をする。 「それより、クーラーの設定変えておきましょうか」  寝ている間に風邪を引いてしまえば、元も子もない。  そう言うと彼は笑って「せやな」とクーラーの風量を緩やかなものに替えた。  外ではまだ日が高く昇っている昼間に、明るい室内でソッと瞼を下ろす。  遠くに聞こえるのは蝉の鳴き声と、少し年期の入ったクーラーの稼働音。  涼しい空気が循環し、快適な空間が眠りを誘う部屋の中。 「……おやすみ。あやめちゃん」  自分を包み込んでくれる人肌の温もりに縋りながら、私はゆっくりと夢の中に落ちていった……――。 <続く> 【第二話:同じ食卓で】  ⇒
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