【一章】夏休みの平日

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【第二話:同じ食卓で】  雪也さんが声を上げたのは、夕飯が完成する少し前。  リビングのテーブルにホットプレートを用意して、後は仕込んだ生地を焼き上げるだけという状態まで準備は整った。  けれど彼は我が家の食卓を目にすると、膝から崩れ落ちてしまった。 「アカン! これじゃ、アカンわ……」 「何か足りないものでもありましたか?」  お好み焼きソースも、マヨネーズも、鰹節も、青のりも。特売日に買った豚バラ肉と解凍済みのシーフードミックスも用意できた。これ以上のトッピングは贅沢だと思ったのは、私だけだろうか?  仕事に出ているお母さんにも食べてほしいと思うほど、具沢山のお好み焼きの完成を前に、私は落ち込んでいる雪也さんに目線を合わせる。 「アカンねん……こらアカンよ、あやめちゃん……」 「……えっと?」  そのいけない何かが、一体なんなのか。見当もつかない私が首を傾げると、雪也さんは悲しそうに眉を顰めて、訴えるようにこう言った。 「白米が、あらへん‼」  声を大きくして、関西人としての常識だと、彼は心から叫んだ。  けれど――、 「……は、はぁ」  お好み焼きに白米を食い合わせない私との間に生まれたのは、決して埋まらない温度差。  死活問題のように懇願されても、私には白米がないことがどれほど重要なのか理解できない。バラエティ番組ではよく『お好み焼きに白米は当然!』という大阪の人の主張は見たことがあるけど、食文化が違う東日本の地で言われてもどうしたらいいか分からない。  これからお米を炊こうにも小一時間はかかるし、電子レンジで温めるタイプの白米は在庫切れ。  泣くほど落ち込んでしまった雪也さんを、どう慰めたらいいのか。私は困り果ててキッチンを見渡した。 「ちゅーわけで。ちょっとご飯とってくるわ!」  先程まで落ち込んでいた雪也さんが起き上がったのは、丁度その時。  流れていた涙をピタリと止めて、彼は元気よく立ち上がる。流石に今からお米を炊くのは時間的に厳しいから、レンジで加熱するパックご飯を用意するみたいだ。 「確か(うち)にまだあったはずやし、持ってくるわ! あやめちゃんもどうや? これを機に食べてみるんわ」 「いえ。私は……」 「そうか? まぁ、気ぃが向いたら俺の分わけたるさかいな」  そうと決まれば善は急げ。  すぐに戻ると言い残して部屋を出て行った雪也さんを見送り、私はバタンと音を立てて閉まった玄関をしばらくの間見つめた。 「……お好み焼きに白米、か」  何度も話に聞いたことのある食い合わせ。大阪の人はそれが当たり前だし、美味しそうに食べている姿はテレビで見たことがある。  食わず嫌いもどうかと思うし、一度くらいは挑戦してみるのもいいのかもしれない。  だけど、エセ関西弁を喋りながら、お好み焼きには白米が必須だと言う雪也さんの姿を見ると、どうしてもチャレンジする一歩が踏み出せない。  美味しい・美味しくないといった食の好みの問題じゃなくて、の問題の話。  この問題を考え始めると、無意識に眉間に皺が寄っちゃうのは良くない癖だ。私はおでこにできていた皺を指先で撫で、考えを切り替えようとした。  ――コンコンコンッ  玄関のドアが鳴らされたのは、そんな時だった。  木製のドアを、誰かが叩いた。間隔を開けずに、三回。  ドアを挟んだ向こう側から声は聞こえず、またドアが三回鳴らされた。 「…………」  緩めていた空気が一気に張り詰めて、息を呑む。  ドアが鳴らされても、反応してはいけない。一人きりの静かな部屋に音が響いても、動いちゃダメだ。  廊下で息を殺し、音が鳴りやむのを私はジッと待ち続けた。  ――コンコンコンッ  ――ドンッ ドンッ  ――ドンドンドンッ!  息を殺している間に、聞こえる音がどんどん変わっていく。  初めは軽く聞こえた音も、力が増すごとに重たい音へと変わっていった。苛立った相手の気持ちを反映さえたような、大きな音で部屋の中の人間を責め立てるような、そんな威圧的な音だ。  だけど決して、目の前のドアを開けてはいけない。  知らない人が来たら、ドアを開けてはいけない。雪也さんが閉めた鍵を、雪也さんが戻るまで開けてはいけない。  迫るような音は怖いけど、私は彼を信じて待ち続ける。それが今、私にできる唯一のことだって分かっているから……。  ――ドンッ‼ 「…………⁉」  さっきまでとは比べ物にならない、大きな音が部屋に響いた。  何かが玄関のドアに、勢いよくぶつかったような音。ガラス戸だったら、割れていたんじゃないかと考えるほどに強い音。  迫りくる“何か”が怖くなって、確かめるように足を一歩、玄関に近づけようとして、 「出てきたらアカンよ」  聞き慣れた声が、足をその場に留めた。  小さい頃から何度も聞いた、おかしな訛りのある関西弁。本質を掴ませない胡散臭い口調は、いつも飄々とした雰囲気と一緒に優しさが滲み出ていて、私は好きだった。  けれど今、私の止める為に紡がれたエセ関西弁の声は、とても冷たい。  一枚のドアを隔てた先にいる人は、いつも温かい眼差しで私を見守ってくれている。無茶をする私に呆れながらも声をかけてくれて、気遣ってくれる。  ……だけど、今はどうなのだろう?  このドアを開けた先にいる彼は今、どんな顔をしているのか。さっきまでドアを叩いていた人間を、どんな目で見下しているのか。  それはきっと、(今の私)が知らない(雪也さん)で、(昔の私)が知っている()の姿だ。  知りたいと思う反面、決して見てはいけない“近衛雪也”の姿。 「…………」  私は沈黙で肯定すると、ドアの向こう側で何かを引きずる音が聞こえた。 「まったく。不法投棄なんてヒドイことする人間の気がしれんなぁ」  ズルズル、ズルズル、と。  重たい“それ”を引きずる音は、雪也さんのぼやきと一緒に遠ざかっていく。 「この“ゴミ”。ゴミ捨て場まで捨ててくるさかい、ちょっと待っとってな」  姿の見えない雪也さんは、それだけ言い残すと足跡と共にどこか遠くへ行ってしまった。  結局、ドアを叩いていた人物も、雪也さんが言っていた“ゴミ”の正体も私には分からない。――ううん、分かっちゃいけないものなんだ。  家の前に誰かがいた。家の前に、が捨てられていた。  そのままの現実を、言葉の通りに理解して納得する。決して深入りしてはいけないし、追及もしてはいけない。……小さい頃から変わらず、そうするべきだと私は自分に言い聞かせる。  それが、私を大切に想ってくれるお母さんや、雪也さんの想いに応えることに繋がるのだと知っているから。私はまた静かになった部屋で、一人深呼吸を繰り返し、を取り戻した。 「ふぅ。……さて、お茶碗の用意をしようかな」  温めたパックご飯を、そのままパックから食べるのは味気ない。  洗い物が一つ増えるけど、その程度の些細なことなら気にならない。私は食器棚に片付けておいたお茶碗を取り出し、夕食の準備を再び進め始めた。 →  
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