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【序章】夏休みの終わり
照りつける太陽の日差し。焼けるようなコンクリートの暑さ。外部の灼熱から一線を引くように、部屋の中にはクーラーから流れる心地よい冷気が漂っていた。
季節は夏。夏休みも、残すところ一週間。けれど未だ、残暑と呼べる時期は訪れない。
――そんなある夏の日。私にとって、高校生活最後の夏休みの、とある一日。
「あやめちゃん、プール行こか!」
今日も雪也さんは、笑顔を向けてくれる。
同じアパートのお隣さん。エセ関西弁を話す、自称・優しくて頼れるお兄さん。
毛先がくるっと曲がった癖毛は猫のように柔らかく、隙間から覗く切れ長の目は凛々しくも優しい。いつものようにシャツとジーパンというラフなスタイルで、いつの間にか我が家に上がり込んでいるご近所さん。
私は向き合っていた参考書から顔を上げると、楽しそうに笑う雪也さんの姿に苦笑した。
「随分と急なお誘いですね」
「堪忍な。せやけどこのままやと、夏休みの思い出一個もあらへんやろ?」
高校生活最後の夏休み。今のうちに、やれることはやっておいた方がいい。
雪也さんの気遣いは素直に嬉しかったけど、私はテーブルに広げた参考書やノートを見つめて考える。
高校生活最後の夏休み。だからこそ、限られた時間は有効的に使いたい。これから訪れる大学受験に備えて、しっかりと勉強を積み重ねておきたい。
もちろん、多少の息抜きが大事だというのは分かっている。けれど今、自分がそんな気分になれるかどうかと聞かれれば、返答に困ってしまう。
「考えとるってことは、行きたい気持ちが少しでもある、って思ってエエんか?」
すぐに返事をしなかった私の考えを、雪也さんは何も言わなくても読み取ってしまう。
そういうところがこの人のずるいところだ。言いたくても言えない本心に、私自身よりも先に気付いて、心の奥底から見つけ出してくれる。
そして、本心が見つかったら最後。意味深に笑う彼の意地の悪さに、私は無駄だと分かりながら相手を睨んだ。
「そんな顔で睨まれても、可愛いって思うだけなんやけど」
「……ずるいです」
「ずるい男でもエエわ。あやめちゃんを甘やかせるんなら、どんな男に思われてもかまへん」
そう言いながら、雪也さんは私の首元にソッと手を伸ばす。
私の首元にあるのは、季節外れの青いストール。濃淡のグラデーションが綺麗なそれに触れると、雪也さんはゆっくりと胸元まで下げて、露わになった私の首筋を見て、安心したように微笑んだ。
「俺がつけた痕、ちゃんと消えとるな」
「消えてなかったらプールには行けませんよ」
「そうなんやけど、それはそれでなんか寂しいなぁ。……もっかい、つけたらダメか?」
「ダメです!」
長い指で鎖骨をなぞられ、私は逃げるように後ずさる。
けれど背後で待ち構えていたテーブルに邪魔をされ、それ以上後ろに下がることは出来ない。知らぬ間に逃げ場を失った私は、不敵に笑う雪也さんに詰め寄られ、身構えるしかできない。
「……つけたら、プールは行きませんから」
「はいはい、分かってます」
さっきのは、半分冗談やから。
雪也さんはそう言って笑うけど、半分が冗談だとしたら、もう半分は何だったのか。途中まで考えたけど、これ以上踏み込むのはよくないと考えることを無理矢理にでもやめる。
「……まぁ、流石にコッチはまだアカンな」
言いながら雪也さんが指でなぞったのは、一つの傷痕。私の左の首筋にできた、一本のケロイド。
刃物によって傷つけられ、数週間経った今でも消えないこの痕は、場合によっては数年経っても残るかもしれないとお医者さんに言われた。
傷を負った私としては、命が助かっただけよかったと言える。傷痕が残ったとしても、それはしょうがないことだと笑って流せる。
けれど目の前にいる雪也さんは、私と違う考えを抱いているんだと思う。
さっきまで気さくに笑っていたのに、今、この首筋の傷を見つめる彼の瞳はとても哀しいものだった。痛々しくて、悔しそうで、微かに瞳の奥が揺らいでいる。
雪也さんが気に病むことじゃない。そう言って彼の不安を拭えたらいいのに、それはきっと無理な話だ。
だから、私は……。
「大丈夫ですよ、雪也さん」
気にしないでください、と言うことは出来ない。
だから私は別の言葉を、私以上に私を大切に思ってくれるこの人に伝えたい。
「こんな私でも、ちゃんとお嫁にもらってくれる人はいるんですよ!」
例え首筋の傷が一生消えなくたって。傷物の私を受け入れて、ずっと側に居てくれる人はいる。
自分で言うのもなんだけど、こんな私を大切にしてくれる変わり者は確かに存在する。
今は名前を言えない相手を思いながら、私は目の前に居てくれる人に優しく微笑みかける。
「それじゃあプール、行きましょうか!」
開きっぱなしも参考書も、ノートも。全て閉じて、片付けてしまう。
お母さんにだけは心配をかけないように、これからプールに行くことはちゃんとメッセージで伝えておく。
『善は急げ』の言葉通り、テキパキと動き出した私の姿に、雪也さんは何かを吹っ切ったように笑ってくれた。
「せやな。そんなら、ちゃっちゃと行きましょか!」
もうすぐ終わってしまう、高校生活最後の夏休み。
今日という日を迎えるまでに、何もなかったわけじゃない。
嬉しいことも、楽しいことも、笑ったことも、たくさんあった。
その一方で、つらいことも、怖いことも、痛いことも、たくさんあった。
だからこそ、私たちは今日からまた新たな一歩を踏み出す。
いつものような穏やかな日常も、夏休みならではの楽しさも、私たちは残された一週間で取り戻すように動き始めた……――。
[続く] ⇒
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