第一話

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「今日は、霙だ。」 その言葉で空気が揺れた時、黒狐の青年の肩から力が抜けた。 選択をした男性の体は地面に吸い込まれるようにして傾いていく。 瞬時、重力に反してその体を受け止める手は、霧の中から現れた。 「わたくしが彼を送り届けてきます。二人は休んでください。」 うっすらと見えていた手から徐々に霧が晴れていく。 黒の長着に黒の羽織。そこに生える白い髪は少しくせっけがあると触り心地がよさそうにゆらゆらと揺れている。 肌も白く、どこからどこまでが霧か、彼か。その境界は驚くほど曖昧だった。 いつの間にか、暗い室内に立ち込めた霧と共に、白い彼は男性を抱き上げると消えていった。 後方も残らず、そこにはただ、黒狐の青年と、栗鼠の少女が残された。 深いため息とともに、黒狐の青年は顔を上げる。視界に入ったのは不服を隠しせず仁王立ちする栗鼠の少女の姿だった。 少女は足音を立てて黒狐の青年の元へ歩いてくる。 この先の展開を察した様子で青年はため息を一つ溢すが、「よかった。ちゃんとわかってたな。」などと、少女に話しかけた。 「もう、ヒントあげちゃうのなんで?」 「帰れなくなったら困るだろ。」 「むー、面白くない!」 そう言う頃には、栗鼠の少女はぐっと背伸びをして黒狐の青年の顔を覗き込んでいた。 変わらず暗い室内。互いの顔をしっかりと認識できるほどの距離になって初めて、栗鼠の少女はにやりと笑って黒狐の青年の手をぎゅっと握った。 生ぬるく滑る肌が触れる。ぐちゅりと音をつけることができるその皮膚に少女は爪を立てたのだ。 「いっ!!」 青年は咄嗟に強い痛みを感じて自分の手を見下ろす。その手のひらは半分以上が爛れていて、原形は保っているが、それでも神経組織がマヒしていそうな程悲惨な状態だった。 少女の握った手はぎりぎりと爪を立て続けているが、決してそれを振り払うことはしない。 ただ耐えて痛みに歪んでいく表情を見て、栗鼠の少女はくすくすと笑う。 「ミゾレ知―らない!」 そう言って少女が満面の笑みを見せた時には、青年の手からは血がにじんでいた。 “ミゾレ” そう自身のことを呼称した少女は、栗鼠(りす)。 青いチャイナ服と薄水色の髪を揺らして踵を返す。 その行動は雪の冷たさを、その笑顔は雨の静けさを纏って。 誰に怒られることも、止められることもなかった。 暗い室内に唯一光の差し込むドアにまっすぐと進んでいくと、一度だけ振り返って「アマハなんてだいっきらい」と清々しいほどの笑顔で言い放ち、荒々しくドアを閉めた。 一気に暗さを取り戻した室内で、一人青年は立ち尽くした。もう一度溢したため息とともに、痛みはじわじわと手のひらから脊椎へと昇ってくる。痛みとして脳が処理にする頃には彼は床に座り込んでいた。 “アマハ” そう呼称された彼は、狐。 白いチャイナを汚さないように爛れた手のひらを床に下した。 少しずつ流れていく血を見ながらどうしたものかと思案するが、それよりもやんわりと来る眠気が勝り今度はあくびがこぼれた。 呆然と過ぎていく時間をただ消費しながらも、彼は聞こえてきた足音にそっと立ち上がった。 座り込んでいては心配をかけるだろうと、ミゾレの出ていったドアに沿っと足を進める。 しかし、そのドアノブは彼が開くよりも先に音を立てて開かれた。 「アマハ!大丈夫!?」 「お?おう。」 「ボケっとしてるぅ!」 走りこんできたのは玄関で丁寧に頭を下げていた兎の少女だった。 長い着物を踏みつけそうになりながら走ってきたのだろう、息も少し上がっている。 「ボケっとしてねぇよ。客人は帰ったから、次の客を取れるぞ?」 「もう!それどころじゃないでしょう!怪我は?」 「ない。」 「ダウトー!」 大声が暗い室内に響き渡る。「そういう言葉どこで覚えてくるんだよ」とあきれた様子のアマハのことなど気にせず、彼女は先程ミゾレにえぐられた手をそっと包むように持った。 彼女が視線を下ろせば、明らかに焼け爛れただけではない傷からじんわりと血が溢れている。 歪む表情に気づいたアマハが口を開こうとしたが、それは凛とした彼女の声で掻き消された。 「これは、誰がしたの?」 アマハはなぜかその表情に恐怖を感じた。 綺麗な物にはとげがある。その言葉が似合うように彼女のその発言は見目に合わない威圧を感じさせた。 「っ、、、ミゾレの機嫌が悪かっただけだ。気にしなくていい。いつものことだろう。」 「あの子、本当に。もうここにきて長いっていうのに。いつまで経っても。」 ブツブツと呟く彼女の視線はアマハの手のひらに集中している。 その証拠にアマハの握られた手を冷たさが囲った。途端、続いていた痛みは和らいでいく。 まるでわたあめのような何かが、ふわふわと宙に浮き手を包んでいた。 時折波を作りながら揺れるそれは、まるで空に浮かぶ雲の様で、澄んだ白色に時折灰色が混ざっていた。 包まれた手の感覚は遠く認識から外れていき、痛覚だけでなく触覚すらもなくなった。 それは感覚の問題だけであり、実際に手が無くなったわけではない。 しかし、それを知らなければ酷く動揺する状態だったろう。 アマハは困ったように笑うと、「クモリは心配性だな。」と呟いてみせる。 今度こそ彼の言葉を拾った彼女は、キッと視線を上げた。 “クモリ” そう呼称された少女は、兎。 青い花魁の姿にその緑の瞳が相成って、妖艶さすら感じさせるが、 発言はどこか幼く、どこか人離れしている。 クモリはアマハの手首を握ったまま部屋の外へと足を振り出した。 大きな身振りに合わせて揺れた服からは、黒い螺旋のタトゥーが入った脚が見え隠れする。 引っ張られるままのアマハは、ピアスと帽子、銀縁の丸眼鏡の、それぞれの房の飾りが揺れ、皮膚に当たる感触を感じながら、少しだけ自分より低いクモリの背中を見つめた。 大きく開かれた襟口からは、長い髪が揺れるたび、首から肩にかけての柔らかな皮膚が見えている。 それが劣情を誘うための服装に近いことは、アマハも知っているが、自身にとっては何の感情も湧きはしない。 それは、この見世物小屋において、このクモリという存在があまりに近いからなのだろう。 「自分で歩ける。」 「手を離したら雲が消えちゃう。」 「これくらいどうってことないって。」 クモリはアマハの言葉に耳を傾けながらも、その手を離すことはしなかった。 長い廊下を歩き切るまで、二人の攻防戦は続いたが、玄関のそばまで戻ると一人の少年が二人を出迎えてその手は離れた。 「クモリねぇ、お疲れ様。 アマハにぃ手当するから、こっちきて。」 「いつも悪いな、カゼ。頼んだ。」 「今日は片手だけ?」 「あぁ、客が早くわかってくれたから、傷も軽い。」 “カゼ” そう呼称された少年は、狗(いぬ)。 頭からは垂れた犬耳が並び、ふわりと背中で揺れた大きな尻尾は全体的に肌色だが毛先は白い。 白い髪は少しだけ青み掛かっていて、首ほどの長さで綺麗に切り揃えられている割に、毛先は外にハネていた。 二重の大きな瞳は、境目の曖昧な灰色だった。 白っぽいパーカーの袖を捲り上げ、小箱とタオルを抱えている。 アマハと比べると半分ほどの身長でも、その行動は堂々として幼さは感じない。 「ほら、アマハは今日はお休みね! キリが帰ってきたら変わってもらうから、そのまま手当したら休んで! カゼ。アマハの見張りよろしくね。」 「おっけー!任せてクモリねぇ!」 「見張りって」 アマハは文句の一つでも零そうとしたが、それよりも先にカゼに背中を押されてしまい、 渋々誘導のままに歩を進める。 クモリと手が離れた時から手を覆っていた雲のような何かはなくなっていて、徐々に痛みも戻ってきている。 それを見たカゼも、少年には不釣り合いな渋い顔でアマハを見上げた。 「先に冷やさなきゃだね。まぁ、アマハにぃはいつもそうだけど。」 「そうだな。」 押されるまま進んでいた脚を一度止めて、再度自分の手のひらを見るアマハ。 腰あたりを押していたカゼも、止まったことを察するとアマハの横に並んでその手を見上げている。 二人してアイコンタクトを取ると、自然と脚は目的地を決めて歩き出していた。 木彫りの熊を通り過ぎて玄関から一度外へ出る。 さっきまで建物を囲っていた霧はすっかり晴れていて、さっきまでは見えなかった景色が広がっていた。 見世物小屋”天気雨“の正面には、店を突き当たりにする様に500メートルほどの道が伸びている。 その道を挟むようにして賑やかな喧騒の店々が軒を連ねていた。 大量の何かがその道を歩き、店に寄っては買い物をする。 商店街やら参道やらと言われるに近いその光景の中で、唯一異質なのが、その売り買いを楽しむすべてが人ならざるものである事だった。 ある店は中華。ある店は和。ある店は洋。 はたまたもっと暗く異質さを放つ店から、神々しく光り輝く店まで、その全てが違う要素を売りにしている様子。 どの店も等しく人ならざる者達で繁盛しているが、飛び交う声は統一した言語として正しく処理することが出来た。 雑貨屋、食い物屋、写真屋、土産物屋、八百屋。 どの店も並ぶ物は普通ではなかった。 アマハとカゼは、外に向かって一礼すると、見世物小屋の外塀に沿って移動する。 外塀は煉瓦造りだが、所々、中途半端に漆喰が塗られていた。 道の突き当たりにある見世物小屋は長く広い。 しかし、その敷地の全てが見世物小屋というわけではなく、住まいや離れなど、その敷地内で生活をするための空間も用意されている。 しばらく進んだところで、小さな引き戸にたどり着く。 塀に後付けに作られた様子の簡素な物で、それはアマハが多少屈めば入れる程度の大きさがあり、 通路としては十分に役割を成していた。 中に入れば、外の騒がしさが鳴りを潜め、ただ静かな光景が広がっていた。 塀の中は簡素なもので、平屋の建物はどこか江戸時代を思わせる。引き戸から入ってすぐは、ポツンと井戸が立っているだけの中庭に出た。 カゼはパタパタとそこへ歩いていくと手際よく桶を井戸へ落とす。 バシャンと音がした後引き上げてやれば、そこには透き通る水が汲まれていた。 その様子を視界に入れながらアマハも爛れた手を気にかけながら服の袖を捲り上げる。 カゼが桶を置けば、しゃがみ込んで迷わずそこに手を突っ込む。 冷たさが痛みを助長する感覚もあったが、それも一瞬で、じわじわと和らいでいく痛みに自然と吐息が漏れた。 「薬持ってきてあるから。入れるね。」 「うげっ、それ染みるやつじゃん。あの人のところやつは?」 「アマハにぃがいつも火傷ばっかりするから、もう無いんだよ。我慢して。」 抱えてきた小箱からカゼが取り出したのは瓶に入った液体だった。 文句を言うアマハだが、それを匙1掬い分、手を入れた水に垂らされるとぐっと喉を詰まらせて黙り込んだ。 和らいできていた痛みに強く染みるものを感じる。その成分は不明だが、明らかに痛みを引き起こすものであることは間違いなかった。 しかし、その痛みに似合うだけの効果はあった。 すっと水に溶けるようにして爛れた皮膚が消えていき、素早くそこに新しい皮膚が作られる。 人間であればあり得ない回復スピードであり、しかし、それが彼らにとっては当たり前だった。 「今日の人は、随分早く気付いたんだね。」 「あ?‥‥あぁ、そうな。察しのいい人だった。 火に触れようとして、あれが熱いものだって認識したらすぐだったからな。」 「・・みんなそうだったら、いつもこうで済むんだけどね。」 カゼの声が暗く落ち込んでいく。 しかし、アマハが顔をあげるとそこには笑顔が貼り付けられていた。 「んじゃ傷が治ったらこれでふいてね。」と肩にかけられたタオルは柔らかく、卸したてなのだと察しがつく。 なにも新しいものなど準備しなくてもよかったのにとため息をつきながらも、爛れていない手でそのタオルを握り締めると、薬よりもしっかりと安心することができた。 「ねぇ、アマハにぃ。ずっと聴きたかった事があるんだけど。いい?」 「ん?」 「僕は、ここに来てまだそんなに経ってないし、まだ見世物として芸もしてないけど、 アマハにぃはいつも火傷してあの部屋から出てくるでしょ。」 なんで。 そう聞きたかったのだろうが、それが言葉として空気を揺らすことはなかった。 聞いていいのかどうか、迷いから詰まってしまったらしく、カゼは小箱を抱き抱えてジッとアマハの眼を見つめた。 アマハはため息を付きながらもその頭を撫でる。 「俺はお前の世話係なんだから、気になったことは聞いたらいいんだよ。」 アマハは服が汚れることなど気にせず地面に尻を下ろすと、井戸を背にして背もたれにし、爛れた手は桶に入れたまま、反対の手で先ほど男に見せた様に灯火を浮かして見せる。 それは先ほどよりも小さいもので、熱さはあるものの火傷をするほどのものではなかった。 「お前が初めてここに来た時にも話したが、 ここは基本的に行く当てのない異形が集められてる。 それぞれに体に刻まれたタトゥーで俺たちの行動は監視されるし、 逃げ出すことは出来ない。 精神が壊れるまでただ見世物として働くか、 買われるしかない。」 「うん。だから、自分を買ってくれる人を見つけるために芸をするんだよね。」 「あぁ、俺で言えばこの火の操作。お前で言えば風の操作。 でも、俺たちを買ってくれる人達は別にその芸が欲しいわけじゃない。 見目だったり、その一部だったり、生きている状態で買ってくれる場合は少ない。」 「だから、客人が怖がるような芸をしてるの?」 聞いてからしまったと思ったのだろう、隣に座って話を聞いていたカゼは、口元を覆った。 恐る恐る見上げるも、そこには困ったように笑うアマハの顔があるだけで、彼は言葉を続けようとしなかった。 「あ、アマハにぃ?」 声をかけると、人差し指を立てて静かにするように言われる。 瞬間ピクッとカゼの頭で垂れていた二つの耳が立った。 口をまた抑えると、そっと背にした井戸の反対側を警戒してアマハの傍に寄った。 アマハも狐耳を少し下げて眼を瞑る。 集中すれば、話し声が耳に入る。 「アイツらまた勝手に。」 「仕方ない。クモリに役割分担は一任されてる。 なんとも言えないだろ。」 「アマハは一番の売れ残りだぞ?飼える異形も制限があるんだっ! 次を仕入れる為にも表に出して売り出すべきだろっ!」 コツコツと足音は二つ。 不穏な会話は、その足音が聞こえなくなるまで続いた。 やっと聞こえなくなった頃、アマハのそばに寄っていたカゼの体からスッと力が抜けた。 桶から手を出して拭きながら、心配したアマハが覗き込むが、その顔にはすでに笑顔が貼り付けてあった。 「次の異形がここに来ないようにする為に、わざと芸を過激にしてるんだね。」 その一言にアマハが頷いたのを見ると、カゼは周囲を気にしながら立ち上がった。 歩いていった二人の姿はもうすでに見えない。 アマハも一緒になって立ち上がると、大きく伸びをした。淡々と歩いて近くの縁側に座れば、カゼもまた後を付いてくる。 「いいか、カゼ。ここに来た以上。逃げることはできないけど、生きていくことはできるし、 ちゃんと見極めれば、いい人に買われることもある。」 「うん」 「それまでは、我慢が続くけどな。決して折れるなよ?」 アマハはにっこりと笑うと治ったばかりのその手でカゼの頭を撫でた。 カゼは少し照れ臭そうにしながらも大きく頷いて見せた。素直な行動とは裏腹に その気持ちは晴れずただ疑問だけが渦巻いていた。
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