七 仮面舞踏会

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……どうして哲嗣さんと近藤さんがここに?それよりも。ここにはいられないわ。 函館の岩倉哲嗣と近藤正孝。懐かしいその顔、その声、その姿。しかし、自分が清子だと知られてはならない。清子。胸がドキドキしていた。 ……まず、落ち着いて清子。今は仮面をつけているんですもの。気がつくはずがないわ。 この夜会。そもそも密偵としてきている清子。普段の気配は一切消しているこの姿。哲嗣とて近藤とて。自分に気がつくはずがない。清子はそう自分に言い聞かせた。 清子。会釈をして去ろうとした。しかし、近藤、かなり気分が悪そう。哲嗣は介抱していたが、彼は他の仕事の人に呼ばれていた。 ……きっと。他に知り合いの人はいないでしょうね。 「弱ったな」 頭をかく広い背中。朔弥に似ている仕草、似ている声。愛しい彼の弟は、悲しく彼女をくすぐった。 「あの。私。ここにおりますよ」 「あなたは?」 哲嗣。彼女を見つめた。大人の匂いのドレス。顔には仮面。横浜の異国情緒あふれる濃紺のレースのドレス。魅力的な女性。哲嗣。彼女がパーティーに慣れていると判断し。この場、甘えることにした。 「すいません。すぐに戻りますので」 「はい」 哲嗣を見送った清子。気分悪そうに伸びている近藤を見つめた。酔っている彼の衣服を緩めた彼女、ここにウェイターがやってきた。 「どうかなさいましたか?」 「この方。ご気分が優れない様子ですので、どこかお部屋でお休みできませんか」 「では。別室で。こちらにどうぞ」 勢いで一緒に移動する感じになった清子。近藤を抱えて別室に入った。秋山の約束を破ってしまったが、ここの部屋には近藤だけで悪い人はいない。そして近藤が落ち着いたため。そっと部屋を後にした。 「お客様。お連れの方は?」 入ろうとしたウェイターに。清子、答えた。 「私は連れではありません」 「では。あの方はどちらの方ですか」 清子。ちょっと考えた。 「寝言で『岩倉貿易』とおっしゃいましたわ」 「『岩倉貿易』様ですね。わかりました」 そして部屋を出た清子。先程までいたカーテンのそばに戻った。 ……ええと。秋山さんは。まだいないわ。 約束の場に戻った清子。パーティーを改めて見ていた。優雅に踊る女性。素敵な紳士。その間をお酒を配る仏頂面のケニー。これに思わず微笑んでしまった。 待っても秋山がこない。清子はこの間に手洗いに立った。そして洗面所で鏡を見ていた。 「お隣。いいかしら?」 「どうぞ」 隣の鏡。白い蝶の仮面をつけた女性が化粧を治し始めていた。清子、教わった通り、持たされたなれない口紅を塗ろうとしていた。 ……でも。私、きっとうまくできないわ。 落ちかけた口紅。清子は塗らずに出した口紅をしまった。これを隣の女性は鏡越しで見ていた。 「あらあら。直さないの?」 「慣れないんですもの……お恥ずかしいですわ」 「お貸しなさい?私が塗ってあげるわ」 口紅を受け取った女性。清子をじっと見つめた。 「しかし。あなたは本当に綺麗ね」 「そんなことないです」 美麗な彼女に見つめられた清子。ドキドキしていた。白い蝶の仮面の彼女は微笑んでいた。 「私は嘘は言わないわ。どれ。目を瞑ってごらんなさい。さあ」 「は、い……」 うっとりしながら。清子は目を瞑った。目を瞑ると彼女の香水の匂いがした。 ……どこかで嗅いだ匂い。どこだったかしら。 「あら、動いちゃダメよ」 「は、はい」 ……どこかで聞いたことのある声。どこだったかしら。どこ…… 視界のない世界。研ぎ澄まされる耳と匂い。そして彼女は清子の髪を撫で、頬に手を添えた。 ……優しいけれど、大きな手……そして硬くて。冷たい…… すると。突然、唇に感触があった。まるで口付けの感触であった。 「え」 「目を開けてはダメよ?ああ、なんと可愛らしいのでしょう?動かないで……そう。はい……どうぞ」 清子、目を開けると。唇は綺麗に塗られていた。しかし。相手の女性も清子を同じ色の口紅になっていた。 「ごめんなさいね。あんまり可愛いので、私も塗らせてもらったわ」 「こちらこそ。綺麗にしていただいて、嬉しいです」 そして。彼女は口紅を返してくれた。この時。彼女の目を見た。清子。急に血の気が失せた。 ……ま、まさか。そんなはずは…… 「あら?髪型も直しましょうか?」 「い。いえ。連れが待っているので。お世話になりました」 清子。なんとか胸の鼓動を抑えて出てきた。その時、彼とぶつかった。 「君?ああ、うちの連れはどこだい?」 「ああ、あの方なら隣のお部屋です」 「そうか。あの」 哲嗣。すまなそうに頭をかいた。 「君に預けてすまない。なにせ。こんな会は初めてなので」 「どうぞ、お気になさらないで」 「……あら?お二人はお知り合いなの」 背後から。先程の女性がやってきた。清子。深呼吸をした。 ……落ち着いて。まずは秋山さんか、ケニーに知らせるのよ。 そうとは知らない哲嗣。にこやかに挨拶をした。 「横須賀造船の徳永さん。先ほどはうちの連れが失礼しました」 「気になさらないで岩倉さん。して、こちらのお嬢様はあなたの知り合いなのかしら」 妖艶に微笑む美女。哲嗣ははいと清子を見た。 「私の連れを介抱してくれたんです、ええと。あなたは」 「私は……その」 名乗るのを躊躇っていた時、清子の背後に誰かがぶつかった。 「きゃ?」 「あ?すいません。お客様」 水がかかり、清子は濡れてしまった。 「おい。君!彼女のドレスが」 怒る哲嗣。清子、それを制した。 「大丈夫です。私は」 グラスの水をかぶって濡れてしまった清子。哲嗣はウェイターに向かった。 「何をしているんだ」 「申し訳ありません。すいません。お客様。どうぞ、こちらに」 「はい。失礼しました」 ケニーに手を取られた清子。哲嗣と淑女に頭を下げて場を後にした。心臓をドキドキで彼と歩いた。 「何をしているんだよ、あいつは岩倉じゃないか」 「あの方なのよ」 「え」 震える清子。ケニー、その肩を抱いた。 「どうした?」 「ダメです。あっちを見ては。あの、ケニーさん……あの女性が、あの人なのよ」 恐ろしさで震える清子。ケニー。理由がわかった。 「女の姿とは?くそ……わかった」 静かに清子を別室に連れてきたケニー。そこには彼らの仲間なのか、紳士の姿や運転手の男達がいた。 「みんな。奴は女の姿だ。今、岩倉と話をしている女だ」 「道理でいないと思ったよ」 「今夜の女達は仮面をつけているからな、それを利用したんだな」 悔しそうな男達。ケニー、まだ動揺している顔の清子を見た。 「して。特徴は?」 「特徴?」 「ああ。もし気がついて服を着替えたら、また見失ってしまうからな」 「……靴はいかがですか?」 「靴」 清子。恐怖で手を胸に抑えながら話した。 「女の格好をしてますが。やはり男性ですので。靴が大きかったです。それに、爪に色が塗ってあって、綺麗な紫色でした」 「よし!それで追ってみよう。さあ、清子。君はもういい。危険だから」 「はい」 約束通り。清子の仕事はここまでだった。彼女はこの別室にて密かに待機していた。このまま秋山とケニー達が密かに山中を捕獲する手筈。清子は、待っていれば良い話だった。 しかし。ここに、銃声が聞こえた。そして悲鳴が響いた。 ◇◇◇ 「全く。失礼なウェイターだ」 「……そうね。失礼だわ」 岩倉哲嗣。横浜に来ていたのは、横浜運送と契約をするため。その前に横須賀造船に接触を試みていた。正攻法の哲嗣。横浜運送に話を打診し、この夜は直接、横須賀造船と話し合いをするように言われていた。 この夜会。急きょ参加した哲嗣。北海道の貿易会社の彼は他の参加者方も声をかけられており、思いもよらぬ商談が進んでいた。そして彼はやっと横須賀造船の女社長と対面できた。 「ご挨拶が申し遅れました。私は岩倉貿易の副社長。岩倉哲嗣と申します」 「岩倉の御曹司……確か。あなたはお目が不自由と聞いていましたが」 「それは兄です。ですが兄は手術にて、今は見えるようになりました」 「そう」 女姿の山中。哲嗣を注視した。若く怖さ知らずの男。北の狼と言われる岩倉貿易の息子。気高く真っ直ぐ、どこか冷酷な男。あまりの獲物に思わず笑みが溢れていた。 「ふふ。そして。業務提携の件ね」 「そうです。我々は当初、横浜運送との契約を打診されましたが、横須賀造船さんの存在を知りまして。ぜひ、一緒に提携したいと思いまして」 「うちなんて小さい会社なのに?ぜひ、理由を伺いたいわ」 「……外国船が欲しいからです」 「おお。正直なことよ」 哲嗣。話が破断になっても構わないこの契約。女社長にカクテルを渡した。山中、受け取った。 「でも、ご存知なのでしょう?うちの船は曰く付き。岩倉さんのような立派な会社となれば、汚点になるんじゃないかしら」 「綺麗事ばかりではないのは、あなたが一番ご存知だと?」 「そんなに怖い顔しないで?ふふふ」 山中、嬉しそうにカクテルを飲んだ。 「ああ。こんなに楽しいのは久しぶり……ねえ、岩倉さん。あなたの家の婚約者さんって、いなくなったそうね」 「身内の話は」 「ふふ。顔に痣があるそうだけど……きっとそれは神様がいたずらしたのよ」 「どういう意味ですか」 酔っているのか。女社長は笑い出した. 「そうやって痣ばかり気にしているから、気がつかないのよ。ああ、なんて残酷で、悲しいのでしょうね」 支離滅裂の話。酔っている様子。哲嗣、彼女を見つめた。 ……この横須賀造船は、思ったよりも危険だ。今回は、なかったことにしよう。 「では、断るという返事ですね」 「……残念だわ。力に慣れなくて」 女、グラスを掲げた。哲嗣、付き合いで自分のグラスを掲げた。 「ごめんなさいね」 「これはビジネスです。またの機会に」 そしてグラスをカチンと当てた。その瞬間。銃声がした。そして、会場のシャンデリアが落下した。 つづく
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