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一 心はマリンブルー
「うわ?もう函館があんなに小さくなって」
潮風、春の函館、青い空、青い海。白い雲、飛ぶかもめ。強い潮風吹く外国船のデッキ。
太平洋を進む大型船のコンテナ荷物の間、清子は甲板に立っていた。小さくなる函館の街、山、そして人。頭の上には一緒に飛ぶかもめの声。白い波、身を推すかのような強い風。眩しい日差しは清子の初出港を祝っているようだった。
……ああ、離れていくわ。
海原を進む船の後にできるのは白い泡のみち。これを辿ることのない船出。風に靡く髪を抑える清子の隣に男性がやってきた。
「お前、大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
「もっとこっちに来い!お前。落ちるぞ」
横浜港まで進むこの外国船。異国人や荒々しい船乗りが行き交う世界。清子はチャーチル領事の紹介により、サーカス団の一向と横浜まで同行させてもらえることになっていた。このサーカス団の若い男性はどこかむすとした顔で清子の隣に立ち、一緒に海を見ながら呟いた。
一応、マスクをしていた清子。そっと彼の横顔を見た。
「俺はケニー山崎。どうせわかることだが、父親がイギリス人なんだ」
……うわ。綺麗な瞳。
髪が亜麻色の青年、よく見ればその瞳は大きなブラウンである。吸い込まれそうな美しい異国の顔立ちに清子、ちょっとだけ身構えた。
「私は、伊知地清子です。お世話になります」
「……ちょっといいか。ここでは話が声が聞こえない」
デッキの上では音がうるさく、ケニーは彼女の背を押し、船内に案内した。薄暗く狭い廊下。そこでは荷物や乗船客が混在して座っていた。ケニーはその奥、荷物しかない場所に清子を連れてきた。ここには誰もいなかった。
「おい、そこに座れ」
「はい」
無愛想なケニーはまずは清子を荷物の上に腰掛けさせた。彼は清子のそばの荷物を縛っている縄を、足で抑えぐいぐい引き、縛りを確認していた。
「俺の事はケニーで良い。俺がお前の係になった。なあ、清子。この船には色んな人が乗っているのはもう気がついているだろう」
「はい、そう、ですね」
まるで異国にいるような、そんな乗船客だった。そもそも船員達が異国人。日本人は数名しか見えなかった。ケニー、作業をしながら話つづけた。
「ここは外国と同じと思ってくれ。だから奴らはお前を傷つけても平気なんだ。俺はそれを心配している」
「はい」
清子はケニーに迷惑をかけたくないと思っていた。素直にちょこんと座っている清子は作業中のケニーにうなづいた。
「私。気をつけます」
「わかれば結構。そして。お前、その顔はどうしたんだ?」
自身の右頬を指でトンと叩くケニーは清子を見つめた。清子のマスクを意味する仕草を知った清子もマスクを触った。
「あ? これですか、私、外すと青痣があるので、隠しております」
「痣? いいから見せてみろ」
まだ機嫌が悪そうなケニーを前にした清子はこれを外し、彼に顔を見せた。
「見えますか? ここが青いですよね」
「怪我じゃないのか?」
心配そうな目のケニーに清子はうなづいた。
「ええ。生まれつきで。痛みはありません」
「なんだ……」
ケニー、頭をかきながら背を向けた。
「外せよ」
「え? 」
「ここでは返って邪魔になる」
また縄の確認を再開したケニーは手を止めず淡々と話した。清子はその背に声かけた。
「邪魔って、どういうことですか」
「ここは外国だって話しただろう? 顔を隠しているのは悪い奴だけだ。とにかく今すぐ、それを外してくれ」
「はい」
……迷惑なんだわ。言う通りにしよう。
清子は素直に従った。マスクは着物の袂にしまった。そんな清子をケニーは汗を脱ぐながら振り返った。
「外したな。それよりも今度は着替えてもらおう」
「この格好ではダメですか……きゃ!」
ケニーはいきなり清子にバッグを投げた。
「それを着ろ! 女の格好はやめてもらう」
清子は質素な着物できたつもりである。だが彼は嫌そうな顔をしていた。驚く清子は思わずバッグを抱きしめた。彼は話を続けた。
「その服は古いが文句を言うな。そして。その髪も結んで帽子に入れてくれ。俺はお前を少年としたいんだ」
「わかりました。着替えてきます」
……とにかく。いう通りにしよう。
ケニーの語りは冷たいが、事情は理解でした清子は、彼のいう通りにした方がいいと思った。
ケニーが黙々と作業している間、清子は奥の部屋で着替えた。着古したジーンズはオーバーオール。大きめなチェックのシャツ。これは袖を織り上げた。
そして長い髪もハンチング帽子に入れた彼女の姿。もちろんマスクは外し、部屋から出てきた。
「ケニーさん。どうでしょうか」
「どれ」
作業を止め清子を見たケニーは、へえと片眉を上げた。
「まあ、煙突掃除の少年ってところか」
「煙突掃除?」
「ま。それでいいだろう……では、ついて来い」
「はい」
歩き出した彼の広い背中、長い足。清子は揺れる船内を恐る恐る着いていった。
……足が長いから。早いわ。
慣れているケニーは暗い階段をどんどん下る。清子は必死について行った。そこは船底に近いところだった。
「見えるか? 足元に気を付け」
「きゃあ」
早速つまづいた清子はケニーにぶつかった。彼は広い胸で受け止めてくれた。
「何をしているんだ」
「ごめんなさい」
「全く。これだから嫌だったんだ」
見上げると本当に嫌そうな顔である。清子は申し訳なくなった。
「すみません」
「…………」
済まなそうな清子を見たケニーは顔を背けた。
「……こっちだ。もう、転ぶなよ」
そう言うと彼は手を繋いでくれた。そして、ゆっくりと奥へ進んだ。
……歩く速度を、合わせてくれてるのかな。
態度は悪いがケニーは親切である。清子は必死に着いて行った。薄暗い通路の先、ケニーはそっと扉を開けた。
「いいか? 大きな声を出すなよ」
「うわ? これは」
薄暗い船内。そこには大きな檻があった。そこには黄色と黒の縞模様、ジャングルの王者がウロウロしていた。
「と、虎ですか」
「ああ。清子はこの虎、アイザック。呼び名は『アイク』。彼のそばで過ごしてもらう」
……虎?初めて見たわ。
虎は清子にかまわず檻の中をウロウロしていた。そばで見ると大きな体、檻とはいえ、清子も怖かった。ケニーは手を離し檻の周りを片付けた。清子は屈んで檻の虎を、外から見ていた。
「あの。私は。どうして、ここなんですか」
「ここには誰も来ないんだ」
……そうか。私が娘だということを、ケニーさんは心配していたから。
船の底は狭く暗い。そして虎の匂いも確かにする。
……そうね。ここには誰もこなさそうだわ。
口は悪いが、自分のために工夫してくれているケニーに清子は胸が熱くなった。
「ありがとうございます。気遣ってくださって」
笑顔の清子を見たケニーは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「別に。お前のためだけじゃない。俺もこの方が気楽だからな」
そう言うとケニーは、檻の中を覗き込んだ。
「それに。こいつに餌をやるために俺もくるし。他のサーカスの子供達もそのうちここに来るから」
「そうなんですか」
……サーカス団の子供か。そうね。誰かと一緒の方が心強いもの。
子供が来ると聞くと、清子はホッとした。大人の中にいるよりもこの虎のそばの方が居心地が良さそうだった。こうしてケニー、すっと立った。
「手洗いはこの奥にもある。他に質問はないか」
……ケニーさんは、こういう案内に慣れているみたい。
的確でスマートな説明。それに彼は面倒くさそうだった。チャーチル領事の頼みで本当に迷惑を掛けている清子は彼の仕事を増やしたくなかった。
「ありません。ここにおります」
「では、また、後でアイクの餌を持ってくるから」
「はい」
こうして。清子はアイクのそばにいることにした。獣の匂いが臭く思わず手ぬぐいで顔を覆った。だがこの匂いが自分を守ってくれていると思うことにした。
そして檻が見える位置で膝を抱えて座った清子は函館からの旅立ちの疲れでうとうと眠り出した。
……ああ、本当に……もう、私は函館を出たんだわ。
エンジン音が鳴り響く船内、目の前には虎。清子は座ったまま眠りについた。愛しい彼との決別。その頬には涙が伝っていた。
◇◇◇
「ね。おい! ちょっと」
「お姉ちゃん!」
「ん……」
誰かが清子を揺らした。清子、はっと目が覚めた。
「え?」
「ご飯だよ! ねえ、姉さん。よくここで寝られるね」
サーカス団員の子供達。清子を起こした。子供達は笑っていた。
「ご、ごめんなさい」
「ケニーに聞いたよ……清子でしょう? 僕らと横浜まで一緒に行くんだろう?」
「はい。清子です。よろしくお願いします」
子供達は歓迎してくれた。サーカスの子供達は五人ほど。おそらく七歳から十歳程度の年齢に見えた。年齢よりもどこか逞しい体型の彼らは優しかった。
「ねえ。その顔はどうしたの?」
「誰かに打たれたの?」
心配そうな子供達。清子に挨拶をしようと立ち上がった。
「ううん。生まれつきで、青い痣なの」
「へえ? そうなんだ。それよりもご飯にしようよ」
サーカス団の子供達は清子の顔の痣を全然気にしていなかった。思えばケニーもそうだった。不思議に思いつつ清子は誘われて食事となった。
ケニーは虎のアイクは肉の塊を用意すると、子供達と清子にはパンをくれた。その中で、もう一人だけ清子と歳が近い娘がいた。名前をチイと言った。
「ところでさ。清子は横浜に行って、どうするの?」
「私。イギリス大使のところでお仕事をするの」
「へえ。すごいね。ね? ね? どうしてそのお仕事をするの」
そばかす顔のチイは同世代であった。清子はつい今までの出来事を話した。チイは静かに聞いてくれた。
「そう……苦労したんだね」
「ううん。それよりもこれからよ。頑張って、自立したいの」
「自立か」
チイは立ち上がった。そして、体を動かし出した。
「私なんか。生まれた時からこのサーカス小屋なんだ。小さい頃から、こうやって芸をさせられて。よ!」
チイは床に足を広げて開脚を始めた。その体の柔らかさに清子は目を丸くした。
「すごい」
「泣くまでやらされたからね……そして。こうやって」
「うわ?もっと曲げられるの?」
チイの体の柔らかさに清子はびっくりした。見ると他の子供達も練習をしている。ある子供はボールを巧みに扱うジャグリング。ある子供は玉乗り。逆さ立ち。幼い子供達の芸の訓練は見事である。清子はみたことがない芸当に圧倒されていた。
「ところで。清子は何ができるの?」
チイは純粋に尋ねていた。清子は思わず首を横に振った。
「私? 私は何もできないわ」
「ふ。お嬢さんだもんね」
……確かにそうね。みんな子供の頃からこんなに訓練しているなんて。
清子は顔の痣にて家族に虐められて育っていた。しかし、世の中にはもっと過酷な状況の子供がいると悟った。過去を顧みていたその時、清子。彼らの道具箱が目に入った。そこには煌びやかな衣装が無造作に放り込まれていた。
「あの。チイさん」
「何?」
「あのお衣装ですけど、私、畳んで良いですか?」
「好きにしたら? どうせボロボロだよ。それ」
「はい!」
早速手に取った清子。ほつれや破れを発見した。
「チイさん。これ、直してもいいですか」
「いいけど。直せないでしょう」
清子は持ってきた裁縫道具を取り出した。そして、ランプの灯りで静かに直していった。
……こんなことしかできないもの。あ? ここは汚れているわ。刺繍をしちゃおうかな。
傷みの激しい衣装を清子は着れるように直していった。比較的揺れない船底で練習する子供達と一緒に過ごす時間は長かった。しかし、辛い別れをした清子の癒しとなり、静かに優しく過ぎていった。
夜になると船のデッキでは大人達が酒盛りの声がした。これを心配したケニーは何度も子供達や清子の様子を見に来てくれた。彼はチイや清子の娘達は決してここから出るなと言いにきた。
そして寝る時、清子はチイと一緒に寝た。長い船旅であったが、清子はこうして横浜まで無事に進んでいった。
◇◇◇
「清子。ほら。もう岸だよ」
「やっとね」
明け方の横浜港。船から見えるのは見知らぬ街。函館とは違う近代的な建物で多くの倉庫は赤煉瓦である。広く長い埠頭。大型船が停泊する港。清子は子供達と小さい窓からこれを見ていた。
そしてこの外国船は岸に接岸したが、ケニーを始めサーカス団員達はのんびりしていた。てっきりすぐに降りると思っていた清子は、この時間の遅さを子供に聞いてみた。
「あのね。みんな降りる支度をしないの?」
「清子。先に降りるのは金持ちだよ。僕たちのような貧乏人は、一番最後だよ」
確かに。船底にいるのもその理由の一つであろう。サーカスの子供の中にはまだ居眠りをしているものさえいた。
……ケニーさんは横浜のイギリス館まで送って下さるんだもの。私も何か手伝いをしないと。
そう思い、清子は船内を掃除をしていた時、ケニーがこの場にやってきた。
「おい清子。チイはどこに行った? 先ほどから見えないが」
「チイさんですか」
ケニーはアイクの檻を調整しながら尋ねてきた。清子は今度はこれを手伝いながら答えた。
「外の空気を吸うと言って、先にデッキに行くと言ってました」
「降りる準備があるのに、勝手なことを」
だがここで下船の支度となった。今まで使用していたものを忘れずに持ち出す彼ら。そんな中、動物達の運搬の支度は大ごとだった。
「さあ。アイク。横浜だぞ、やっと降りられるぞ?」
優しくアイクに話しかけるケニー。彼は清子には愛想がないが、アイクには微笑んでいた。
このアイク。人間で言えば高齢な虎である。一緒に過ごしている清子に慣れてきていた様子だった。子供達と一緒に下船するのを待っている清子に、ケニーはこれからの話をした。
「清子。船を降りたら俺たちは横浜の港でテントを張って、そこでサーカスの公演をする」
「すごいです。ああ? あれがトラックですか」
船の窓から見えたトラックは先に下船していた。港の岸で待つ仲間のトラック。ケニーはあのトラックの荷台にアイクの檻を乗せると指した。ここで船乗り達が声を荒げた。
「次! その虎を出せ!」
「おっと? 清子は子供達と歩いて下船してくれ」
「歩いてって。ケニーさんはどうするんですか」
疑問を抱きながら、清子は子供達と一緒に階段を降り下船した。船から岸へ揺れる階段から降りているその時、清子の頭上では大掛かりなことが起きていた。
「うわ? あれは?」
「そうだよ!清子。滑車で下すんだ」
船の上から鎖で檻が吊られている。子供の説明に清子はただ驚いていた。
「それに……あの檻の上に乗っているのはケニーさん?!」
アイクを乗せた檻の上にはケニーが立って乗っている。しかも命綱もない様子。清子の方はドキドキしていた。
……すごいわ。ああやって乗るなんて。
ケニーは檻の上で右だ左だと、指示を出す。岸辺ではオーライオーライで船員たちもたくさんの縄を引き、檻は地上に降りてきた。これはトラックの荷台を目掛けてゆっくりと下されていた。
「すごい!立っているなんて」
バランスを取り、滑車に釣られた檻の上に立つケニー。その身軽さに清子は思わず胸に手を当てた。子供はなんでもないように話を続けた。
「清子。僕らはサーカス団だよ。ケニーはあれくらい平気だよ」
呆れた様子の子供達。清子。興奮を抑えた。
「……そうか。そうよね。でも、本当にすごいわ」
無事に荷台に下ろされた檻の括られていた縄を、サーカスの男達は解いた。上からも縄を解いたケニーはさっと檻から飛び降りた。先に地上にいた清子は思わず胸の前で手を組んでいた。
……なんだ、どうした。
ケニーがじっと見ている清子は気になり駆け寄ってきた。
「どうした? 気分でも悪いのか」
「いいえ。それよりもケニーさん、足は痛くないのですか?」
「足?」
興奮気味の清子を見たケニーは首を傾げた。
「なぜ?」
「だって、あんな高いところから飛び降りるなんて」
「……これが仕事だからな」
仏頂面の彼はどこか恥ずかしそうに彼女を見下ろした。清子はまっすぐ問いかけた。
「あの、もしかしてケニーさんは、高いところから飛び降りるショーをするのですか?」
「お、お前は」
「すごい!!」
「お、大きな声を出すな!」
清子の興奮の声にケニーは恥ずかしそうに頬を染めた。この空気を切るように子供達が先に笑った。
つづく
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