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清子。恥ずかしくて頬を染めた。その時、ケニーは誤魔化すように清子の頭に優しく手をポンと置いた。
「もういい!それよりも。まずは移動だ」
「はい。あの、これを持って歩いていくのですか」
「違う。あれだ」
船から。サーカス団員たちが馬に乗って降りてきた。清子は目を丸くしていた。
「ケニーさん。ごめんなさい。私。乗馬はしたことがないです」
「ふ」
「できるかな……でも、やるしかないですね」
しみじみ話す清子。ケニー、彼女に背を向けた。
……ふふ。本気で乗ろうとしている?全く、面白い娘だ。
笑みを堪えるケニー。清子。不思議で首を傾げた。
「あの、ケニーさん。私、できれば仔馬の方が」
「仔馬ね……ふ」
まだ乗ろうとしている清子。ケニー、必死に笑いを堪えた。
「ケニーさん?」
「清子。残念ながら仔馬はいないんだ。だから馬車で行く。悪いが手伝ってくれ」
「はい!」
お世話になったので役に立ちたい。清子はサーカス団の手伝いを必死に続けた。こうして港の外れ、公演会場になる場所に馬車で移動したサーカス団の彼ら。今度は大きなテントを張る作業になった。
清子は子供達と一緒に、荷物を解いていた。そこにケニーがやってきた。
「清子、すまない、予定が狂ってしまった。今日は送れない。雨が降る前にテントを設営することになったんだ」
「そうですね。曇りですもの」
見上げると黒い雲。送るのが明日になるという意味。清子、ここまできたら急いでいなかった。
「私のことなら後回しでいいんです。それに、私も手伝います。ええと。ロープですね」
一人でもいると助かるテントの設営。清子は率先して手伝っていた。サーカスの団の男達。柱を立て大きなテント小屋を作っていた。子供達と清子は地上で言われるまま手伝っていた。
「おい。清子!足元のその、ロープを引いてくれ」
高いところからケニーの声がした。清子。言われた通り、足元を見た。
「これですか?」
「違う!向こうのあれだ!」
「向こうのあれって……ああ。この太いのですか」
「早くしろ。いいから引け!」
「は、はい!」
しかし。太いせいもあり、力が出ない清子。唸っていた。
「ううう。重い……」
必死に引く清子。それでも頭上から声が響いた。
「何してるんだ!もっと引け!」
「くうう!」
そこに子供達も駆けつけてきた。
「僕も引くよ」
「私も!」
「清子。しっかり握って!」
「ええ……セーの」
清子。子供達と一緒に力仕事を手伝った。こうして夜、サーカス小屋はほぼ完成した。
力仕事で全身脱力。清子は夜の芝生で伸びていた。いつの間にか、そばには彼がいた。
「おい。ここで寝る気か?」
「あ。お疲れ様です。ケニーさん……いつもこんなことをしているんですね」
「仕事だって言ったはずだ、おい、手を見せろ」
「あ」
星空の下の芝生。虫の音の風の中、清子の隣に座った彼。清子の手を掴み、その手のひらを看た。案の定、手の皮が剥けていた。ケニーは眉を顰めた。
「痛むだろう」
無理をさせてしまったケニー。しかし、清子は微笑んでいた。
「少しだけです。本当に、あんな子供まで頑張っているなんて、立派ですね」
月明かり、虫の音。草の上に座り遠く星空を眺める清子。ケニーは持っていた白いハンカチで彼女の手を包んだ。
「あの子供達も仕事だ。それに、約束通り、お前のことは明日、送るから」
どこか憂いを帯びたケニーの横顔。清子は疲れているせいと思った。
「すいません。ケニーさんも疲れているのに」
「別に。そうでもないさ」
草の上、長い足を投げ出したケニー。彼女の境遇を函館領事の英字の手紙で知っていた。彼女は領事一家の友人であるが、事情があり、婚約破棄をされ行き場がないため、横浜の屋敷のメイドをすると書いてあった。
船での様子、子供達と一緒にいた彼女、顔の痣、悲しい境遇。しかし、それを人には見せぬ頑張り屋。ケニーは清子を認めていた。
……こいつ。お人好しというか、なんていうか……優しいんだよな。
自分も混血児として育ち、世間から後ろ指を指されてきた彼。顔に痣がある清子と自分をどこか重ねていた。清子の隣に座り一緒に星を眺めるケニー。なぜかまだこうしていたいと思った。
「ケニーさん?どうしたの?」
ケニー。胸に湧き上がる思い、そっと秘めた。
「なんでもない。さあ、今夜は休んでくれ。もうすぐ雨が降る。お前は子供達と同じテントだ」
「はい」
「立てるか?足元気をつけろよ」
「ありがとうございます……あ」
「ほら。捕まれよ」
ケニー。手を掴んだまま優しく清子を立たせた。
……こんなに小柄で、非力なはずなのに……絶対、弱音を吐かないし。
疲れてよろよろの清子。ケニーは肩を抱き歩きつつテントまで送った。子供達に清子の面倒を見るように指示をし、彼はテントを後にした。
……こんな彼女を捨てた男……地獄に落ちるがいいさ。
夜の芝生に立つケニー。完成した大きなサーカステントを見上げた。星空の月夜、港の水平線には船の灯り。穏やかな波の音の横浜の世界。彼は明日で別れる清子の幸せを、ただ願っていた。
◇◇◇
翌朝、晴れの朝。函館から出てきた時の着物に着替えた清子。慌てていた。
「ないわ……おかしい」
「まだ支度ができないのか」
「ケニーさん。すいません」
「入るぞ」
この様子。ケニーが心配してテントに入ってきた。
「どうしたんだ。行く時間だろ」
「ないんです、紹介状が」
「紹介状?函館の領事のか」
「ええ。確かに船ではあったのに」
函館のイギリス領事。彼に書いてもらった推薦状が紛失していた。焦っている清子。結局、どこを探してもなかった。
「清子、もういい。直接行こう」
「でも」
「俺も説明するし。領事に話せばわかるさ」
「は、はい」
不安であったが。清子はケニーと一緒にトラックでイギリス領事館にやってきた。この日のケニー、白いシャツに黒いスラックス姿の品の良い姿。彼は玄関にて英語で挨拶してくれた。
「what did you say?No way?(何ですって?そんな)」
「Please go home(お帰りください)」
ピシャと締められた白い門。彼の背後にいた清子、思わずケニーを見つめた。
「ケニーさん?どうしたんですか。やっぱり、ないとダメですか?」
「……清子。まずは落ち着こう」
そう言う彼は自分を落ち着かせようと、手で待ったを掛けたケニー。顔を覗き込む清子の素直な瞳。これに彼の方が深呼吸をした。ケニーは、屋敷の前にある公園へ静かに歩き出した。
「良いか?信じられないが。ここにはすでに紹介状を持った清子が到着しているそうだ」
「え?私はここにいますよ?」
「だよな。これはどう言うことだ」
彼の真顔。清子。心臓は止まった気がした。高級な領事館が並ぶこの住宅街の芝生。横浜港が見える丘。二人、立ち尽くしていた。
一話「心はマリンブルー」完
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