20.

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「気持ちはわかるわよぉ。あたしは」  菜々子ののんびりとした声は、騒がしい居酒屋の中でも良く通る。永遠子は「言い過ぎた自覚はあるよ」と身を縮こまらせた。 「でもさぁ、本多さんがでかい声で発狂してくれたのが不幸中の幸いだったわよね。詰所まで丸聞こえだったわよ。師長も同情気味だったし」  菜々子はカラカラと笑いながら、店員を捉まえてビールを一つ注文する。 「ちょっと、あんたさっきから烏龍茶しか飲んでないじゃない。せっかく励ましてやろうってのに。明日、休みでしょ。ほら、あんたの好きなマッコリあるわよ」 「今、諸事情で禁酒してて」 「何よう。ノリが悪いわね」  不服そうな顔をして、菜々子は店員からビールを受け取り一気に飲み干す。 「そういえば、本多さん明日から休職するらしいわよ。良かったじゃない。お望み通り顔を見なくてよくなって」 「まぁ、うん。そうだね」  永遠子は苦笑いをしながら烏龍茶に口を付ける。氷が溶けきり、すっかりぬるくなった烏龍茶に眉を寄せた。 「師長から聞いたんだけどさ、凄かったらしいわよ。部長室に行って、自分は虐められたんだって、ずっと言い張ってて話にならなかったって。アレ、絶対病気よね。あそこまでキチガイだって思わなかったわ」  眉を寄せる菜々子は何処か楽しそうだ。ここまで酷い評価を下せるほど、菜々子は結乃に関わっていただろうか。酔いが回ってきたのか、菜々子は顔を赤くして大口を開けて下品な笑い声をあげる。そういえば、彼女が先程豪快に飲み干したビールが七杯目だったことを思い出した。 「でもさぁ、あんたがあそこまでキレるって珍しいわよね。罪擦り付けられた時も、苦笑い一つで済ませてたのに。ま、あんだけ意味の分からない事叫ばれればキレたくもなるか」 「あぁ、うん……。まぁ、それもあるんだけど」  永遠子は苦笑いを浮かべて、言葉の続きを言おうか迷う。しかし、こちらを見て言葉の続きを待っている菜々子に気が付き、続けることにした。 「エンゼル中にいきなりキレ出したんだよね。本多さん」 「知ってるけど」 「だから、早く処置しようって。濱田さんに失礼だからって言ったんだけどさ。そしたら『もう死んでるじゃないですか』って言い捨てたんだよね」 「何それ」  菜々子は腹を抱えて笑う。彼女のけたたましい笑い声に、近隣に座る客の何人かが、こちらに迷惑そうな顔を向けた。 「やっばい。やっぱ才能あるわね、あの子。でも、そっちでキレたんだ。あんた、濱田さんと仲良かったっけ?」 「いや、仲の問題じゃなくてさ。人として軽蔑するっていうか。仮にも、ずっと看護してきた患者さんにそんな言い方ないなって思って」 「え、やっぱーい。永遠子、そんな風に思うんだ」  茶化すように笑う菜々子の目は、明らかにこちらを見下していた。 「あ、いや、ドン引きだけどさ。接遇ってやつ? マナーがなってないなって。でも、それでブチ切れるはないわ。見直したよ」  馬鹿にしたように笑う菜々子に、永遠子は不思議と腹が立たず、ただ静かに失望する。菜々子は仕事が早くてミスがない。患者からの評判も良い。ただ、彼女はいつも詰所で患者の悪口を頻繁に言っている。この反応は予想通りだった。 「ねぇ、菜々子。そろそろ帰ろうか。顔、真っ赤だよ。明日は日勤でしょ?」 「永遠子はさぁ」  菜々子は、とろりとした虚ろな目をこちらに向け、口角を失笑気味に歪ませる。 「要領が悪いっていうか……、八方美人すぎるんだよ。前の彼氏にも良いように利用されてさ。本多さんにだって、無駄に良い顔したからこんなことになって。ふふっ。それが永遠子って感じだけど」  ペラペラと馬鹿にしたような口調で語る菜々子の顔は段々青くなっていく。そろそろまずいのではないか。ここで嘔吐されて店に迷惑を掛ける展開だけは避けたい。 「ちょっと菜々子。いったんトイレに」 永遠子が言い切る前に、菜々子は口を押えて急に立ち上がりトイレの方へと走り去っていった。これも、予想通りの展開だと、永遠子は息を吐いて背もたれに身体を預ける。一滴もアルコールを摂取していないのに、ジワリと頭が痛むのはきっとコンプレックスを抉られた精神疲労から来るものだろう。 やはり断れば良かった。菜々子とは何度か吞みに行ったことがあるが、平和に帰れた試しがない。  気分転換をしようと、バッグからアイフォンを取り出す。メッセージアプリの通知が二件あった。アプリを開くと、玲斗と沙莉からそれぞれ一件ずつメッセージが入っている。 『永遠子さん、今日、出勤一日目が終わりました。皆さん親切にしてくれてありがたいです。紹介してくれてありがとうございます』 『永遠子! 良い子の紹介ありがとね! 佐伯君、めちゃくちゃいいわ!』  どうやら、玲斗の初出勤は上手く行ったらしい。二人の名前に懐かしい気持ちになりながら、永遠子は指を動かし返信をする。アプリを閉じてアイフォンを仕舞うと、疲れが再び押し寄せて来て、重々しく息を吐いた。  トイレの方向に目だけ向けるも、菜々子が帰って来る様子はない。今頃、盛大に嘔吐していることだろう。今のうちに会計を済ませて置こう。  永遠子は呼び鈴を押した後、自分の財布から三千円取り出し机の上に並べる。その後、不用心に荷物カゴに入れられたままの、菜々子のエルメスのバッグに手を伸ばした。
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