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1.
二十八歳にもなって、嘔吐する程、酒を飲むことになると思わなかった。
掌では受け止めきれず、指の隙間からボタボタと膝に零れ落ちる吐瀉物をぼんやりと眺める。これまで酒に酔った時、眠くなったことや、逆に、浮かれたような気持ちになって饒舌になることはあったものの、吐くまで飲んだことは一回もない。永田永遠子が二十八年間生きてきた中で、初めての経験だった。
そんなことを考えていると、急速に頭から血の気が引けていく。同時に襲い掛かってきた吐き気を必死に堪えていると、永遠子の視界に足元に転がるワインの瓶が過る。コンビニで買った、七百ミリリットルで六百円の安い赤ワイン。数分前、夕食も済ませていない、空っぽの胃の中にこの安いワインを一気に流し込んだことを思い出し、永遠子は痛む頭に呻き声を上げる。痛みを少しでも逃そうと、永遠子は再び大きく息を吐き出した。その時だった。ついに吐き気を堪えきれなくなり、反射的に身を屈めて口元を抑える。だが、既に食道まで込み上がっていた胃内容物は、呼吸と同時に口腔内にせり上がり、地面に勢いよく叩きつけられていく。飛び散った胃液と残差物が土の中に吸い込まれていくのを観察しながら、永遠子は口元を手の甲で拭う。そして、ゆっくりと顔を上げ、星一つない真っ暗な空を眺めた。
顔を上げたまま目だけを動かし、遠くに見える時計塔に目をやる。チカチカと目障りな薄暗い光を放っている、蜘蛛の巣だらけの電灯に照らされて、うっすら映し出される文字盤は表す時刻は二十三時五十五分。住宅街に囲まれた、滑り台と砂場があるだけの小さな公園には、人の気配が全くない。この痴態を、見ず知らずの他人に見られなくて良かった。いや、知り合いにも絶対に見られたくはないのだが、と一人脳内で掛け合いをしながら、永遠子は酒臭い息を夜空に向かって吐き出す。一通り中身を吐き尽くした胃は落ち着きを取り戻しつつあるが、ここから徒歩五分の自宅アパートまで立って歩く力はまだ戻らない。運が悪いことに、永遠子の部屋は、エレベーターがない三階建てのアパートの最上階にあった。
しばらくここで休憩しよう。永遠子はそっと目を閉じる。吐瀉物の悪臭が地面から這い上がって来て不快だが、肌を撫でる夜の冷たい空気はなかなか気持ちが良かった。そういえば、あと五分で六月になることを思い出し、永遠子は「早いなぁ」と頭の中で呟く。思い返せば、この五月はろくなことがなかった。
元々自分は運が悪い方だが、この五月は格別だった。五月一日早々、付き合って一周年記念日を迎えた恋人に、話の流れで「自分と付き合おうと思った理由は何か?」と聞いてみれば「付き合えるなら誰でも良かった」と悪びれもなく答えられた。そして、そのまま破局。虚しさと悲しみに汚染された心を引きずったまま出勤すれば、職場では怒号が飛び交っていた。どうやら、自分が教育担当をしている後輩が仕事でトラブルが発覚したらしい。そしてそのトラブルの対応は、教育担当の永遠子に一任された。虚しさと悲しみに支配された心に、《怒り》が追加された瞬間だった。
その後の日々も散々なものだった。
職場では絶え間なくトラブルが起こり、ろくに休憩も取れずに残業をする毎日。仕事での疲れをプライベートで癒そうとするも、八百屋でレタスを買えば、その日のうちに腐り、肉を買おうとすれば全て売り切れていた。自炊が駄目なら外食をしようとレストランへ赴けば、高確率で注文を間違われる。公私共に散々である。
不運続きの五月でも、本日、五月三十一日は格別だった。
いつものようにトラブルに出迎えられて出勤。病棟で起こったトラブルを、何故か永遠子が起こしたことにされていたので、無実を証明すること一時間。濡れ衣を着せた犯人は、自分が教育担当をしている後輩だったことが判明した。罪を擦り付けるに至った理由は、先日、後輩が引き起こしたトラブルについて指導したことを『いじめ』だと解釈したらしい。いじめに対する復讐なのだと報告された時は、開いた口が塞がらなかった。さんざん世話を焼いてきたのに、しかも、トラブルの尻ぬぐいまでしてやったのに、なんて仕打ちだ。当然、本人からの謝罪はなく、可愛がっていた後輩に手酷く裏切られた永遠子は、屋上に身を隠しひっそりと泣いた。盛大に心を傷つけられた永遠子は、涙を堪えて午後をどうにか乗り切り、当然のように残業をして退社。せめて美味しいものを食べて元気を出そうと、前々から気になっていたラーメン屋に立ち寄れば、当然のように注文を間違えられた。豚骨ラーメンを注文したのに、人生で一、二を争うほどに嫌いな激辛ラーメンが到着した時はいよいよ気が遠くなりそうになった。店員に報告し、早急に交換を要求するも、面倒臭さを全面に前に出された最低の接客を受けた上に、四十分近く待たされた永遠子のストレスは限界に達し、料理の到着を待たずして帰った。このままでは終われないと、叫んで怒りを清算するべくカラオケボックスに向かえば、デンモクが最初から充電されておらず、マイクの音も入らないという大事件が発生した。他の部屋も空いていないということで、デンモクの充電とマイクの交換を待つ間、コンビニで購入したおにぎりでも食べようかと取り出せば、監視カメラで目敏く客の動向をチェックしていた店員により没収され、またもや三十分、無駄な時間を過ごす羽目になった。
そして現在、自宅付近の公園で、今日のストレスを流そうと購入した赤ワインに酔い潰れ、公共の場に、盛大に吐瀉物をまき散らすこととなったのである。
せめて家に帰ってから飲めば良かった。それか、食べ損ねた夕食代わりにと購入した、フライドチキンとおにぎりから先に食べればよかった。冷静さを取り戻した頭で、永遠子は激しく後悔する。後悔していると、喉が激しく乾いたが、唯一の水分であるワインを飲み干してしまった今、摂取できるものは何もない。永遠子は「あー」ともう一度呻くと、乾いた息を吐き出した。
永田永遠子。《永》という字が二つも入っているこの名前を、他人は「長生きできそうで縁起が良い」と評する。両親も確か、そんな意味を込めて名付けたと言っていた。しかし、今の自分にとっては、永遠に憂鬱が続く呪いのような名前に思えてならない。二十八年間、一時だって上手く行った時期があっただろうか。後悔しなかったことがあっただろうか。後ろ向きの感情が、どんどん過去へと遡り、忌まわしい記憶を幼稚園時代から掘り起こしていく。完全に悪循環だ。帰ろうと、足に力をいれるが動く気配がない。それどころが、指の先から徐々に身体が冷えていく。死んでしまいそうだ。
そんなことを考えていると、頭頂部に冷たさと同時に少し重みを感じた。顔を上げると、黒く丸い瞳がこちらを見下ろしている。
薄汚い蛍光灯の光に照らされた、ワンレンボブの人工的な金髪が揺れている。愛らしく整った顔立ちに、サイズが大きい、真っ黒なジャージに包まれている小柄で華奢なシルエット。果たして、この人物は女性だろうか、男性だろうか。顔立ちは幼く、十代前半か半ば頃に見える。こんな夜中に、子どもが一人で出歩いて危ないではないか。親は一体、何をしているのだ。
「あの」
内心憤っている永遠子を他所に、子どもは言葉を発する。女性にしては低く、男性にしては少し高い声だ。頭に感じていた僅かな重みが消えると同時に、目の前にペットボトルに入った水が差し出される。どうやら、冷たさの正体はこのペットボトルだったらしい。
「大丈夫ですか? これ、まだ開けていないからどうぞ」
「え? あぁ、ありがとうございます」
荒い息を整えながら、永遠子は水を受け取ろうとして、自分の手が吐瀉物に塗れていることに気が付く。慌てて引っ込めようとした彼女の手首を掴み、子どもはペットボトルを永遠子に握らせた。
「こんな時間に、女性が一人で危ないですよ」
こんな時間に、未成年が一人で歩いている方が危ないだろう。
そう返したかったが、社会人としてあるまじき失態を晒している現在、中々指摘しづらい。永遠子は黙って頷きながら、「すみません」と素直に忠告を受け入れた。
「あの、いくらですか? 払います」
「いいですよ。大した額じゃないので」
子どもはそう無感情に返す。何処か達観した表情が、幼い顔立ちに不釣り合いだった。永遠子は「ありがとうございます」と頭を下げると、ペットボトルの水に口を付ける。味のない冷えた液体が、喉を心地よく通り過ぎていく。ひんやりとした心地良さが胸の奥に沈んでいき、永遠子は小さく息を吐き出した。
「どうですか? 吐き気は治まりました?」
子どもの問いに、永遠子は空っぽのペットボトルを握りしめたまま、コクリと頷く。
「えぇ。まぁ……。胃の中身は全部吐き尽くしたようなので」
「そうですか。良かったです」
そう言って子どもは、永遠子の隣に腰を下ろす。こちらを労わる言葉にも、どこか感情がない。本当に人形のようだ。
「あの、ごちそうさまでした。お家はこの近くですか? タクシー代をお支払いします」
「いや、もっと要らないです。タクシー代の方が、水より遥かに高いですし」
「いえ、でも。手を汚してしまいましたし、お水まで頂いてしまったので。何かお礼をさせて頂きたいんですけど」
「大丈夫です。お金ならありますし」
そう言って、子どもは自分の足元に目をやる。膝くらいまでの大きさの、黒いトロリーバッグがあった。この中に財布が入っているのだろうか。だが、子どもが持っている金額など、せいぜい数千円程度だろう。それに、この子どもが数千円だってお金を持っているようには思えなかった。身に着けているジャージは所々解れていて、薄汚れている。そして、トロリーバッグも、何かにぶつけたような傷や汚れがこびり付き、薄暗い光の中でも目立っていた。もしかして家出だろうか。永遠子は恐る恐る口を開く。
「あの……。私、もう大丈夫ですので。本当にタクシー代、お支払いしますよ。もう夜も遅いですし」
「あぁ、えっと」
子どもは少しだけ困ったように顔を曇らせる。そして、言いにくそうに「家がないんです」と告げた。
「家が、ない?」
予想外の返答に永遠子は食い気味に聞き返す。子どもはバツが悪そうな顔をして「はい」と頷いた。どくどくと、脈が速く強く荒々しく流れていく。手に力が入り、べきり、とペットボトルが軋む。
「その、失礼ですけど……。ご両親は?」
「母は元々いません。父親は一週間前に死にました。それで今日、契約が切れたからって大家さんに言われて、家を追い出されたんです」
予想以上にヘビーだった。数秒前まで激しく滾っていた心臓が、今度は急速に冷えていく。あからさまに動揺している永遠子に構わず、子どもは、淡々と「なので、家がありません」と言葉を締め括った。
両親を失い、バッグ一つだけを持って夜の街を歩く子ども。警察に届けた方が良いのだろうか。それとも児童相談所だろうか。一生懸命思考を巡らせるも、二十八年間培った浅い人生経験だけでは答えが見出せない。
「あの、今日は、どうされるんですか?」
「ホテルかネカフェにでも泊まります。大丈夫です。俺、若く見られることが多いんですけど、十八歳なんで」
そう言って子どもは、ポケットから一枚のカードを取り出し、永遠子に差し出す。受け取ると、それは保険証だった。大事な身分証明書を、カードケースや財布に入れず、そのままポケットに入れている不用心さに驚きつつ、永遠子はカードを覗き込む。
佐伯玲斗。性別は男らしい。薄暗い中で目を凝らしながら、保険証に刻まれた個人情報に目を通していく。彼の生年月日は、永遠子の誕生日の十年前の日付が刻まれていた。満十八歳。今年で十九歳。同じ誕生日だという事にも驚いたが、彼の言う通り、本当に十八歳を超えていることにも驚いた。永遠子は「ありがとうございます」と両手で保険証を返却する。
「なので、俺は大丈夫ですよ。それより、あなたこそ大丈夫ですか?」
冷静な玲斗の言葉に、永遠子は自分の身体が吐瀉物に塗れていることを思い出す。身体に纏わりつく吐瀉物の悪臭が鼻を刺し、永遠子は「うっ」と軽く餌付いた。
「大丈夫ですか? タクシー、呼びましょうか?」
皮肉にも、先程永遠子が掛けた言葉が、玲斗の口から放たれ胸が痛む。一切の悪気はなく、至って純粋に永遠子を心配する玲斗に居たたまれない気持ちになった。『穴があったら入りたい』と言う言葉はこういう時の気持ちを言うのだろう。永遠子は「大丈夫です」と俯きながら頷くと、勢いよく立ち上がった。
「大丈夫です。私の家、すぐそこなんで。すみません。では、これで失礼し」
ます、と最後まで言葉を言えなかった。立ち眩みに見舞われ、永遠子はベンチに勢いよく倒れ込む。勢いよく立ち上がったせいだろうか。呑気に眩暈の原因を考えている間に、永遠子の身体は派手な音を立てて背もたれに首をぶつける。玲斗が自分に向かって何かを叫んでいるが、音がぼやけてよく聞こえない。真っ黒の空を見上げたまま、永遠子は「うぇ」と断末魔を上げて意識を手放した。
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