2.

1/1
前へ
/35ページ
次へ

2.

 気が付くと、見慣れた天井がこちらを見下ろしていた。  朝陽に照らされて、キラキラ輝く窓際の観葉植物。四十インチのテレビの周りに飾られたサボテンの群れ。漫画や小説、専門書やエッセイ。様々な書物がギチギチに詰め込まれた本棚によって、四方を囲まれた部屋。社会人になって七年間、共に過ごしてきた愛しい自宅だ。  重い身体をどうにか起き上がらせると、むわっと、汗と嘔吐物の匂いが混ざった悪臭が鼻を突き刺す。恐る恐る自分の身体を見下ろすと、ジーンズとTシャツに、食物残差物をたっぷりと含んだ大きなシミが出来ていた。ベッド周囲を見渡すと、悪臭を放つ残差物があちらこちらに巻き散らかされている。そっと頬に触れると、ぬるりとした不快な感触が指に張り付く。どうやら自分は、化粧も落とさず、吐瀉物に塗れた身体をシャワーで清めることもなく、ベッドに寝転がって、そのまま眠り込んだらしい。永遠子はベッドの上で四つん這いになり、シーツの匂いを嗅ぐ。自分の身体から放たれている匂いと同じ悪臭が漂い、永遠子は涙が出そうになった。窓の外に目をやると、雲一つない綺麗な青空の上で太陽が燦燦と輝いている。今日はシーツが良く乾きそうだ。絵に描いたような晴れ模様に、永遠子は目を細めて顔を顰めた。とりあえず、顔を洗ってシャワーを浴びよう。永遠子はのそのそと、這うようにベッドから降りる。  そういえば、自分はどうやって帰宅したのだろう。  あの少年が、ここまで送ってくれたのだろうか。でも、住所を教えた覚えはないので、自力で帰宅したのだろうか。どちらにせよ、多大な迷惑を掛けた上に、お礼も出来ないまま別れてしまったのは悔やまれる。永遠子は自己嫌悪をたっぷり含んだ重い息を吐き出した後、顔を上げた。  そこには、大きな黒い瞳が、ジィっとこちらを見下ろしていた。  玲斗は、無感情な顔でこちらを見ると、ゆっくりとした動きで会釈をした。 「おはようございます」 「おはよう、ございます」  永遠子はゆっくりと挨拶を返す。白い肌をした、あまりに愛らしい顔立ちは、朝陽に照らされて一層美しさを増している。うっかり見惚れそうになる本能をどうにか抑え込み、永遠子は滑らかな動きで土下座をした。 「昨日は大変申し訳ございませんでした」  玲斗はしばらく永遠子の後頭部を眺めた後、「えっと」と困ったように頬を掻いた。 「あの、本当に気にしないでください。それより、俺こそ、すみません。鍵の閉め方がわからなかったので、勝手に泊まっちゃいました……。あ、部屋の物は弄っていませんし、何もしていません」  何という人格者だろうか。玲斗の口調は、相変わらず淡々としていて、顔も完全なる無表情だったが、彼の気遣いは永遠子の傷んだ心にじわじわと染み渡って行く。少し泣きそうになったが、どうにか堪えて、永遠子は口を開く。 「佐伯さん、今日お時間ありますか? こんな身なりで恐縮ですが、何かお礼をさせてください」 「時間はたっぷりありますけど、お礼をするのは俺の方ですよ。家に泊めてもらいましたし」  困惑した口調で玲斗は断る。何て人が良いんだ。彼を男手一つで育てた父親は、相当の人格者に違いない。 「いや、これは大人の矜持というか……。とにかく、あんな恥を晒してしまった以上、何かお詫びをしないことには気が済まないんです。あ、食事とかどうですか? 梅田まで出たら、美味しいお店がたくさんありますし」 「いや、俺は」  何か言いたげな玲斗の言葉は、永遠子の耳には届かなかった。永遠子はラックに掛けてあった、リネン素材のマベージュのシャツと、ダークベージュのワイドパンツを手に取り、風呂場に走り去る。脱衣所の鍵を閉め、悪臭放つTシャツとジーンズ、下着類を全て脱ぎ捨て脱衣かごに放り込み、勢い良く風呂場の扉を開けて中に入る。そして、勢いよく扉を閉めた後、シャワーを全開にして、水圧が激しく強い湯の雨を皮膚に叩きつけられながら、全身を泡塗れにしていく。さて、これからどうしようか。永遠子はどうにか冷静さを取り戻そうと頭を働かせる。こういう時は菓子折りを持っていくべきなのだろうが、本人と一緒に買いに行くのも気が引けるし、現金を直接渡すのは流石に生々しい。高級ランチでもご馳走しようか。風呂場を出て、匂いを確認しながら全身をタオルで乱暴に拭き、顔に化粧水と乳液を叩きつける。全裸のままドライヤーで髪を乾かした後、三段ボックスから下着を取り出し、身に着け、服を着る。コンタクトを付けて、そのままメイクを始めること十五分。合計時間二十分で全ての身支度が完了した。歴代最短記録である。  全身鏡で身だしなみをチェックし、一息ついたところで、恩人に対してお茶も出していないことに気が付く。自分は何て恩知らずなのだろうか。永遠子は再び自己嫌悪に陥りながら、キッチンに向かい電気ケトルに水を入れスイッチを入れる。そして、戸棚を開けて茶葉をチェックする。スーパーや観光地で購入した、様々な種類の茶葉が入った瓶の中で、一番高い茶葉を取り出す。梅田の阪急百貨店で購入した、一箱三千円のアールグレイ。勿体なくてずっと開けられなかったが、今がベストタイミングだ。上品な水色をベースに、色鮮やかな花が散りばめられたデザインの箱をしばらく見つめていると、ケトルがカチッと音を鳴らす。お湯が沸いたようだ。実家から持って来た、三十年物の空っぽの急須にお湯を注ぎ、温めた後、お湯を捨てて茶葉を入れる。事前に入れ物を温めた方が良いと言う、インターネットで得た即席知識を思い出しながら、慎重にお湯を注いだ。お湯の中でヒラヒラと泳ぐ茶葉から漂う爽やかな香りに頷きながら、蓋を閉めると、百円均一で購入した、安物の砂時計をひっくり返す。そして、急須と同じく実家から持ってきた三十年物のティーカップにも同じようにお湯を注いで温める。良く蒸らすこと約三分。砂時計の砂が落ち切ったのを確認し、カップのお湯を捨てる。温まったカップにお茶を注ぎ、最後に色と香りを確認する。そして、カップを木製のお盆に載せてリビングに向かった。  リビングに繋がる扉を開けて、真っ先に目に入ったのは、大量の一万円札だった。  玲斗のトロリーバッグは真っ二つに開かれ、その中にはぎっしりと一万円札が詰まっている。永遠子の存在に気が付くと、玲斗は「おかえりなさい」と会釈した。 「あの、宿代をお支払いしようかと。無断で泊まってしまったので。おいくらですか?」 「は、えぇ? あぁ……。いや、大丈夫です。要らないです……。送って頂いた身ですし。あ、そうだ。佐伯さん、これ、良かったらどうぞ。お茶です」 「ありがとうございます」  玲斗は会釈すると、ホカホカと湯気が漂うお茶を受け取る。永遠子も一口飲みながら、あまりの熱さに顔を顰めた。玲斗の様子を伺うと、涼しい顔をして紅茶をゴクゴクと飲み込んでいた。熱くはないのだろうか。  いや、それよりも、だ。  永遠子は玲斗の足元に広げられた、バッグ一杯に詰め込まれた大金を凝視する。 この札束は果たして本物なのだろうか。最近のサスペンスドラマでも、人質の身代金は振込制なので、こんな大金を見ることはない。 「あの、この大量の諭吉は一体……?」 「今の俺の全財産です。正確には、俺が稼いだお金と、父親の財産を合わせたものですけど」  一体、玲斗と彼の父親はどんな商売をしていたんだろうか。  踏み込んでいいものかわからず、永遠子は「そうなんですねぇ」と硬直した笑顔で頷く。とりあえず職業についての質問は流すことにし、永遠子はふと、彼が保険証をポケットにそのまま突っ込んでいたことを思い出す。あの時も不用心だと思っていたが、さすがに現金を、こんな誰にでも開けられそうなバッグの中に押し込んでいるとは驚きだ。普通の人間なら、銀行口座に預けるものだ。 「あの、銀行口座に預けないんですか? 危ないですよ」  どう声を掛けたらいいかわからず、ストレートに言ってしまったことを後悔しながら、永遠子は玲斗の様子を伺う。玲斗はキョトンと目を丸くしたまま、こちらを見つめていた。 「それは、貸し金庫か何かですか?」  予想外の返答に、永遠子は口を大きく開けたまま固まる。人格者の父親は、息子にどのような教育を与えたのだ。永遠子の戸惑いに気が付いたのか、玲斗は少し慌てた様子で「すみません、外のことには疎くて」と言葉を付け加えた。  貸し金庫。強ち間違いではないけれど、そうではない。生まれてこの方、『銀行とは何か?』と問われた経験がなく、生きていく上ですっかり当たり前になってしまった存在を、上手く説明できないことがもどかしい。己の語彙力のなさを呪いながら、永遠子は「まぁ、そんなものですかね」と頷き説明することを諦めた。 「普通は銀行にお金を預けるものなんですか?」 「世間一般の人は大体銀行に預けていますね。私も預けてますし」  感情の読めない声で問う玲斗に、永遠子は当たり前のように答える。玲斗は「そうなんですね」と頷くと、俯いて何かを考え込む。少し、きつい言い方をしてしまっただろうか。不安に思いながら玲斗の動向を見守っていると、彼は勢いよく顔を上げて、永遠子の両手を握る。突然、美少年に両手を強く握られ、永遠子は目を大きく見開いたまま硬直する。異性に手を握られるのは随分久しぶりだった。 「お願いがあるんですけど」  玲斗のあまりに切実な表情に、永遠子はゴクリと唾を飲み込む。これから愛の告白でもされるのではないか、そう思ってしまう程の気迫に身構えていると、玲斗は「あの」と口を開く。 「俺に、銀行にお金を預ける方法を教えてもらえませんか?」 「はい?」  あまりに安易な《お願い》に拍子抜けする。永遠子が思わず「あはっ」と笑みをこぼすと、玲斗は少しだけ不安げに「駄目でしょうか?」と訊ねる。 「いえ、お安い御用ですよ」  永遠子が快諾すると、玲斗は嬉しそうな笑みを浮かべる。美少年の笑顔とは、こんなにも破壊力があるのか。今までずっと無表情を貫いてきた玲斗の笑顔に、眩しくて永遠子は目を細めた。 「じゃあ、梅田に銀行があるので、そこに行きましょう。マイナンバーカードと、身分証はありますか? あと、ハンコも」 「はい、あります」  玲斗はそう答えながら、ズボンの左ポケットから保険証とマイナンバーカード。ジャージジャケットの左ポケットからハンコを取り出した。「大事なものなので、財布か何かに仕舞った方がいいですよ」と苦笑いしながらも、とりあえず口座開設に必要な物が揃っていることに安心する。  そういえば、と永遠子は重要な事を思い出す。口座開設には確か住所が必要だったはずだ。今の宿無しの状態で、開設が出来るのだろうか。 「あの?」  考え込むあまり、黙り込んでしまった永遠子の顔を、玲斗が覗き込む。永遠子は「ちょっと、すみません」と一言断るとアイフォンを操作して、銀行の公式サイトを開いた。やはり、口座開設には住所が必要らしい。  永遠子は玲斗の方に目をやる。ジッとこちらを見て、言葉を待つ玲斗に、永遠子は意を決して口を開いた。 「佐伯さん。先に、家を借りに行きませんか? 住所がないと、口座開設が難しいみたいです」 「家ですか?」  永遠子の質問に、玲斗は「高くて無理ですよ」と困った顔で首を横に振った。 「前に住んでた家、永遠子さんのお宅よりも古くて小さい所でしたけど、とても高かったんです。具体的にいくらだったのかはわからないんですけど、追い出された日に、大家さんに『いくら払えばここに住めますか?』って聞いた時に、『いくら払われても、もう無理だ』って言われたんです。俺の財産じゃ、高くて無理です」  そう語る玲斗は落ち込んでいるようだった。相当酷い対応をされたのだろう。しかし、彼は一体どんな家庭環境で育ったのだろうか。大家に厄介者扱いされるようなトラブルがあったのだろうか。 それに、と永遠子は玲斗の身なりを盗み見る。草臥れたジャージに無造作に突っ込まれた身分証。大量の現金をバッグにそのまま放り込み持ち歩く不用心さ。銀行の存在を知らなかったことと言い、十八歳という年齢にしては、一般常識への理解が低すぎる。それに、築三十年で壁が薄いことに定評のある我が家よりも古く小さいという家で、よくもまあ盗まれずに現金を補完出来たものだと感心する。 「前のお住いのことはよくわかりませんが、うちの家賃は月々六万円程度ですよ。初期費用も、三十万程度で済みますし、探せば保証人なしで、即日で入居出来る所もあるはずです」 「え?」  玲斗はキョトンとした顔をこちらに向ける。 「そんなに、安く借りられるんですか?」 「えぇ。家によりますけど……。もう少し安い所も、高い所もあります」 「どうやったら、借りられるんですか?」  予想通りの質問に、永遠子は静かに笑顔を作る。銀行の存在すら知らなかった玲斗が、不動産屋の存在を知るはずがない。 「不動産屋っていう家を紹介してくれる所に行きましょう。良ければ、銀行に行く前に、まず、家を決めてからにしませんか? そうしたら、今日、寝る場所にも困りませんし」  永遠子の提案に、玲斗はコクコクと赤べこのように頷く。その様子が何だか可愛らしくて、永遠子は再び笑ってしまった。 「じゃあ、少しゆっくりしてから出ましょう。お手洗いは大丈夫ですか?」 「大丈夫です。あ、えっと」  玲斗はおずおずと永遠子の様子を伺う。一体何だろうか。何か言いたげに俯く玲斗に「どうかしましたか?」と聞き返す。 「あの、お名前をお聞きしてもいいですか?」 「……あー」  そう言えば、玲斗の名前は保険証で知ったが、自分は名乗るのをすっかり忘れていた。社会人としてあるまじき失態に恥ずかしい気持ちになりながら、永遠子は姿勢を正す。 「永田永遠子です。よろしくお願いします」
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加