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24.
沙莉からのメッセージに気が付いたのは、午後八時を回ってからだった。
一日中、ダラダラとベッドで寝続けたせいで、思考力を奪われた頭でメッセージの内容を確認しながら、永遠子は大きく欠伸をする。今日、『夢と希望』に来ないか、という内容だった。永遠子は『ごめん、今、気が付いた。また今度行くね』とメッセージを送信する。今日は、何事にもやる気が起きない。きっと、昨日の一件のせいだろう。
沙莉の他に、菜々子からもメッセージが来ていた。
『本多さん、辞めるみたいよ。部長室に直接、言いに来たんだって(笑)』
永遠子は『そうなんだ』と短いメッセージを菜々子に送ると、アイフォンをベッドの隅へ放る。結乃の退職に喜びも何の感情も抱けず、ただ、昨日、結乃や菜々子に言われた自覚のない暴言が、脳内を何度も反芻する。永遠子は深々と重い溜息を吐き出すと、ベッドから起き上がる。そして、床に落ちたままになっていたリモコンを取り、テレビを付けた。ドラマの再放送、ワイドショー、バラエティ番組の再放送。どの番組も頭に入って来ない。永遠子はテレビを消すと、ノロノロとした動きでキッチンに向かう。何か胃に入れよう。ぐぅ、と低い地鳴りのような音を出す腹を摩りながら、永遠子はキッチンの入り口にある冷蔵庫を開けた。ストックしてあった野菜ジュースの二百ミリリットルのパックを取り出すと、グビグビと一気に飲み干す。糖分が頭に回り始めると、無気力状態が一変し、一気に腹が立ってきた。何故、自分があんなにも好き勝手に言われなくてはならないのだ。結乃には退職する前に盛大に罵りたいし、菜々子には土下座で謝罪させたい。衝動的に込み上がってきた怒りも、すぐに馬鹿馬鹿しくなる。こんなの、いつもの事じゃないか。永遠子は冷凍庫から作り置きのカレーが入ったタッパーを取り出し、冷蔵庫の上に置かれた電子レンジに押し込む。
解凍ボタンを押そうとした時、リビングの方でバイブ音が聞こえる。無視をしようと電子レンジに向き合いボタンを押す。その間も長々と鳴り続けるバイブ音に、永遠子はうんざりした気持ちになる。こんなにしつこく鳴るということは、電話の相手は職場だろうか。渋々リビングに向かい、ベッドに置き去りにしていたアイフォンを手に取る。画面を確認すると、相手は沙莉だった。今はちょうど夕食時だ。一番忙しい時間帯だと言うのに、どうしたのだろうか。「もしもし?」
『あ、永遠子?』
自分の名前を呼ぶ沙莉の声には焦りと安堵が混ざっている。穏やかじゃない声に、永遠子は「どうしたの?」と声を潜めた。
『どうしたの、じゃないわよ。あんた、今日、休みのくせに全然返事ないし、心配したじゃない!』
今までも、休みの日でも長時間返事を寄越さなかったことなんて腐る程あっただろう。どういうわけか取り乱している沙莉に戸惑いながら、永遠子は「えぇ……ごめん」ととりあえず謝ることにした。
『もう、本当に出てくれて良かったわ。なんかさぁ、これ、ただの思い過ごしだったらいいんだけど、返事がいつもと違ったからさぁ、元気ないのかなぁって思って』
それで、わざわざディナータイムの最中に電話をしてきてくれたのか。沙莉の声の背後では、ざわざわと騒がしい音が響いている。
「それで、電話してくれたの?」
『そうよ!』
怒鳴るように返事をする沙莉に、永遠子は堪えきれずに笑ってしまう。妙に察しの良い親友の気遣いは嬉しいが、胸を支配した靄は中々晴れない。
「昨日、本多さん……。私を陥れようとした後輩の子とひと悶着あってさ。それで気が立ってたんだよ。でも、あの子辞めるらしいから、もういいんだけどね」
もういい、という言葉が何処か投げやりになってしまう。それには沙莉も気が付いたようで『ひと悶着って、何?』と落ち着いた声で訊いてきた。
「えっと、なんか、私が指導したことを虐めだって思われてたみたいで。その話をさ、ステルベン……亡くなった患者さんの身体を綺麗にしている時に言われたから、一旦落ち着かせようとしたんだけど、そしたら『もう死んでる患者のことなんてほっといて、自分の話を聞いてくれ』って言われたんだよ」
『何それ、酷い』
電話の向こうで、沙莉が鼻息荒く憤るのがわかる。永遠子は「それでさ」と苦笑いをしながら続けた。
「私、あの子に『もう顔も見たくない』って言っちゃったんだよ」
『何よそれ』
先程まで同情的だった沙莉は、はじけたように笑い出す。予想通りの反応に「ま、師長にそのことでお小言もらったんだけどさ」と続けた。
『えー、なんて言われたのよ? あたしはよく言ったって思うわよ?』
「ちょっと言葉使い気を付けようねって。でも、基本的には同情的だったよ。同僚にも同情されて、昨日飲みに行ったんだけど」
ここまで来て、永遠子は沙莉に自分の気持ちの全てを話そうか迷う。急に黙った永遠子を心配して、沙莉は『永遠子?』と不安げに名前を呼んだ。
「あ、ごめん。えっと、ちょっと八方美人で要領悪いよねって言われちゃった」
どうにか明るい声を振り絞りつつ、永遠子はそう答える。沙莉は『えぇ』と批判的な声を上げる。
『何よそれ、慰めたいのか、トドメを刺したいのか、どっちよ』
「まぁ、そういう子だから……。そんなことがあって、ちょっと疲れててさ。寝たら落ち着いたから大丈夫だよ」
『でも……』
沙莉は何かを言いかけた後、声を少しだけ明るくして『大丈夫ならいいわ』と返した。
『また近々顔出してよね。待ってるから』
「うん、沙莉。ありがとう」
永遠子が返事をするのを確認すると、沙莉は『来なかったら家まで押しかけるからね』と念を押してから通話を切った。通話を切った瞬間、どっと疲れが押し寄せる。永遠子がベッドに倒れ込むと同時に、電子レンジがけたたましい音を響かせた。カレーを解凍していたことを思い出すが、どうしても食欲が沸かない。せっかく励まそうと電話を掛けてくれた沙莉に申し訳ない気持ちになりながらも、一向に身体は起き上がる気配がなかった。このまま起き上がれなかったら、カレーが無駄になってしまう。そんなことを呑気に考えても、身体はベッドにしっかり根付いたまま、起き上がる気配がない。
その時だった。インターホンが鳴る。
こんな時間に誰だろう。通販で何かを買い物した記憶もなければ、来客の予定もない。詐欺か宗教の勧誘か何かだろうか。一応確認しようと、重い身体を無理矢理起き上がらせる。ノロノロと玄関へと向かい、重い足取りでカレーの匂いが立ち込めるキッチンを抜け、玄関に到着し、扉に顔を近づけてドアスコープを覗く。ドアの向こうにいる人物を確認し、永遠子は慌てて扉を開けた。
「こんばんは」
そこには、《夢と希望》の紙袋を携えた玲斗が立っていた。
「すみません。突然お邪魔して」
玲斗がこの家を訪れるのは、初めて会った時以来だ。驚く永遠子に、玲斗はおずおずと紙袋を差し出す。
「これ、今日山本さんに教えてもらって作ったケーキなんです」
「山本さん?」
「山本大樹さんです」
「あぁ……」
そこで永遠子は、だいちゃんの本名がそんな名前だったことを思い出す。
「良かったら一緒に食べませんか? 二つあるんですよ」
正直、気乗りはしなかった。しかし、仕事帰りで疲れているのに、ケーキを持って訪れてくれた玲斗からケーキだけ受け取って追い返すことも出来ない。永遠子は依然として胸中を渦巻く鬱々しさを隠しながら「ありがとうございます」と笑った。
「どうぞ上がってください。夕食は食べましたか? 作り置きのカレーがあるんですよ」
「いいんですか?」
玲斗は永遠子の提案に目を輝かせる。しかしすぐに眉をハの字にして「でも悪いですよ」と続けた。
「いえ、大丈夫です」
鬱々しい気持ちは変わらないが、小さく音を鳴らした腹を撫でる。
「私も、今から食べるところだったので」
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