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【とある日①】エスケープにまつわる日常
【case.01 『見慣れた逃亡劇』(菜緒視点)】
これは、我が家で起きた早朝の出来事。
トラブルというものはなんの前触れもなく起きて、それが繰り返されれば人は慣れてしまい、やがて警戒心が薄れてしまう。
父の教えを、夢から覚めた微睡みの中で思い返す朝。
もう少しだけ寝ていたいという気持ちと、ちゃんと起きなきゃという気持ちの葛藤。けれど起こそうとする体に力は入らず、いつまでも布団の温もりに縋ってしまう。
「昨日遅かったんでしょ? もう少し寝ていてもいいよ、菜緒ちゃん」
遅刻しない時間には起こしてあげるから。
優しく囁かれてしまえば、疲労が溜まり始めた私の体はその言葉に甘えてしまう。
そっと布団をかけ直してくれる“彼”の厚意に甘えて、もう一度布団の中で身をよじる。
「……すみません、竜さん」
「気にしないで。ほら、ちゃんと寝なきゃ」
微かに持ち上げた瞼の先に見えたのは、一人の男性の姿。
綺麗な赤茶色の髪は、実は地毛だと前に話してくれた。寝癖が付きやすくて、朝はセットするのが大変だって、笑って教えてくれた。
それなのに今の彼――竜さんの髪は綺麗に整っていて、彼がいつ起きて、支度を整えて我が家にやってきたのか。少しだけ疑問に思ってしまう。
「……竜さん」
「何?」
「竜さんも、ちゃんと休んでくださいね……?」
こうして毎日のように顔を見せてくれるのは、素直に嬉しいと思える。だけど、竜さんが無理をして調子を崩してほしくない。そう思うのも、私の本音だ。
今この目に映る、竜さんの目の下の隈。まだ時間があるなら、一緒に眠れば少しは薄くなるのかなと、優しく目元に触れてみる。
「え、っと……菜緒ちゃん?」
困った顔をする竜さんにつられて、私も同じように眉を顰めてしまう。
強い力で触れているつもりはない。けれど、痛い思いをさせてしまったのだろうか?
だとしたら、次は気をつけて優しく触れなくちゃと、もう一度慎重に触れようとした時だった……。
「――この変人不審者! 今すぐ菜緒さんから離れてください‼ というか、力づくでも引き剥がしますから、覚悟しなさい‼」
朝の静寂を破った女性の声。部屋の襖が音を立てて開き、複数の足音が耳に入る。
ハッと我に返れば、部屋の入口には父の部下である真奈美さんの姿があり、その後ろには父の会社に勤める警備員の男性たちが仁王立ちをしていた。
「うーん。今いい感じの雰囲気が流れてたんだけどなぁ……」
「どこがですか‼ 女性の寝込みを襲うなんて、男として――いえ、人として最低ですっ!」
「いや、今のは菜緒ちゃんの方から触ってきたというか……まぁ、いいか」
竜さんは言いかけた言葉を切り上げると、私が眠っていたベッドの側で立ち上がった。
いつものように、トレーナーとスキニーパンというラフな姿で家に来てくれた彼は、今朝は冷えるからとロングコートを羽織って、帰り支度をし始める。
「最近、残業が続いているみたいだけど、無理しちゃダメだよ。頑張る菜緒ちゃんも可愛いけど、それで倒れちゃったら竜さん心配だから」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいんだよ。大丈夫。菜緒ちゃんが無茶しそうになったら、俺がちゃんと止めるからさ」
いつも会う時に持っている大荷物のリュックサックを背負い、室内で土足はダメだと脱いでおいたスニーカーを手にする竜さん。
準備が整った彼は、臨戦態勢の警備員を前に溜息をつくと、一度だけ私の方を振り向いて笑ってくれた。
「じゃあね、菜緒ちゃん。――また六時間後に」
次はお昼頃に様子を見に来る、と。
そう宣言した瞬間、警備員の男性たちが一斉に竜さんめがけて飛び掛かる。
しかし、
「はいはい。今日もお疲れ様です――っと!」
右の一人は動きを見切って流し、左の一人は相手が飛び掛かる前に足を払い、手前でバランスを崩させる。最後に身をひるがえしながら間を抜け、振り返った中央の男性に軽い一撃を加える。
次の体勢を取れない警備員を尻目に、竜さんは素早く真奈美さんの横をすり抜け、我が家の廊下を走り出す。
平屋一戸建ての我が家の廊下は長く、入り組んでいる。更には正面玄関や裏口に行くまでには、中庭は庭園、砂利道などいくつもの道だってある。
今朝の竜さんはどの道を通って、この家から逃げ出すのか。そして、
「逃がすわけないでしょ! 四ノ宮警備の警備主任の誇りにかけて、今日こそ捕まえて社長に引き渡します!」
先々代が創立し、私の父が取り締まる警備会社――四ノ宮警備の警備システムとセキュリティ。
その包囲網を突破して、竜さんは無事に家に帰ることが出来るのか。
「あっ。これって……」
先のことを考えながら、ふと枕元に置かれたボトルが目に留まり、手に取って蓋を開けてみる。
ほのかに甘く香るのは、リンゴの香り。今日はリンゴとニンジンをベースにしたスムージーなんだと思いながら、竜さんお手製のドリンクに口をつける。
寝起きでも飲みやすい味に、お昼にあったらお礼を言わなきゃいけないと心に留め、私は出社前の身支度を始めた。
今日も四ノ宮警備会社社長の自宅である我が家には、不審者の侵入を警告するアラートが鳴り響く。
我が家の敷地内を竜さんが走り回り、後を追うように警備の方々が走り、真奈美さんが包囲網の指示を的確に出していく。
しかし竜さんが捕まったことは一度もなく、この事実が上に報告されると、社長である父が憤慨し、母が穏やかに宥め、高血圧の薬を手渡す。
そして穏やかに一日が終わり、また賑やかな朝がやってくる。
これが、我が家の日常。
竜さんと過ごす、楽しい一日。その一コマ。
「――よしっ! 今日も頑張ろう!」
今頃我が家を抜け出した竜さんに負けないぐらい、私も仕事を頑張ろう。
眩しい朝を浴びながら、私の一日はこうして始まった。
[case.02] ⇒
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