【とある日①】エスケープにまつわる日常

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【case.02 『逃走中の遭遇』(竜之介視点)】  小さな寝息を立てて、身体を僅かに上下させて、彼女はぐっすりベッドの上で眠っていた。  お気に入りのふわふわルームウェアは洗濯中だから、寝る時のパジャマは白地に黄色の水玉模様。シンプルデザインだけど袖丈が少し長くて、萌え袖なのが可愛さを倍増させている。  朝日が昇り始めた時間帯。物音を立てずに忍び込んだ菜緒ちゃんの部屋で、俺は彼女の寝顔を堪能する。  可愛い、天使。なんで天使が地上で眠っているかなんて、そんな野暮なことは言わない。どんな理由であれ、この可愛い寝顔が目の前にある。いいじゃないか、それで。  肉眼でたっぷり堪能した後は、お待ちかねの撮影タイム。  世界的絵画さえ足元にも及ばない、この愛くるしい寝顔を一枚の写真に収めて、自室に飾る。  我ながら天才的アイディアだと思いつつ、早速鞄に入れておいた一眼レフのカメラを取り出し……。  ――ビーッ! ビーッ! ビーッ!  タイミングがいいのか、悪いのか。  菜緒ちゃんの起床時間に合わせて警報装置が作動し、家中に不審者の侵入を告げる警報が鳴り響いた。 「はぁ~……最高かよ!」  今朝の菜緒ちゃんの寝顔も、すっっっっっごく可愛かった‼  ――という一文を冒頭に、感想を原稿用紙五百枚に書き連ねたいほど、今日の菜緒ちゃんも可愛くて、俺の心は満たされていた。  彼女を生んでくれた菜緒ちゃんママには感謝しかないし、悪い虫が付かないように自立心を育てた菜緒ちゃんパパには米俵一俵か純米大吟醸を贈呈したい。  なんなら夫婦水入らずの時間を過ごせるよう、温泉旅行(飲食費等含む)宿泊券をプレゼントしたいが、流石にそれは受け取ってもらえないだろう。  人との距離感は、適切な方法で縮めていかなくてはいけない。  そんな教えをしっかりと胸に刻みながら、俺は後ろから追ってくる四ノ宮警備の警備員から逃げ続けた。 「おいッ! 待ちやがれ、そこの変態‼」 「俺は変態じゃないですよー」 「社長のお嬢さんを盗撮しようとしたくせに、どの口が言ってんだ‼」  鍛え上げた身体能力をいかんなく発揮し、鬼のような形相で俺を捕まえようとする警備員の皆さん。  社長の自宅警備に配置されるだけあって、社員の中でも実績のある人間だっていうのは一目で分かる。加えてこれだけ走ってほとんど息を乱さない辺り、警備主任の真奈美さんの見る目は確かだと、彼女の人を見る目には感服する。  あの厳格な菜緒ちゃんパパが、信頼を寄せるわけだな~。  ――と。警備員の男たちを巻き、何気なく考え事をしていた俺の前に、横から黒い影が飛び出す。 「と、止まってください……‼」  呼吸を荒くしながら、それでも俺の前に立ちはだかる小柄な警備員。  男ばっかりが現場に出ているこの会社では珍しく、見慣れない女性。多分、年は菜緒ちゃんと同じくらい。  彼女は俺の隙をついたと勘違いをし、捕らえようと飛び掛かってくるけど……ごめん。その程度のなら、簡単に避けられるんだよね。 「はい。ごめんね、っと」  まっすぐ走っていた足を急停止させ、倒れない範囲でバックステップ。  てっきり俺がまっすぐ突っ込んでくると思っていた彼女の手は空を切り、先回りしようと全力疾走で走ってきた身体は、疲れを重さに替えて、そのまま前のめりに……。 「倒れ込む。――っていうのは、なしね」  警備員の女の子が地面の石に頭を打ち付ける前に、彼女を抱きとめる。  バランスを崩している彼女は、そのまま倒れ込む形で俺の腕の中に落ちてきたし、手を離して解放しようにも、ぐったりと力が抜けている体が起き上がる気配は一向にない。 「……な、……んで……」  それでも懸命に抗う彼女の闘志に、俺は四ノ宮警備の女性の強さを思い知る。  知った上で、彼女がこれ以上無理をしないように側の軒先に座らせ、鞄の中に入れていた救急用の酸素スプレー缶を取り出す。  自分が捕まえるべき相手からの情け。  受け取りたくない気持ちはあっただろうけど、目の前の彼女は素直にそれを受け取り、乱れた呼吸を整えるようにゆっくりと酸素を吸った。 「喘息持ちなんだよね。幼少期よりマシになったとはいえ、無理しない方がいいんじゃない?」 「――ッ⁈ なんでそれを……!」 「二日前。勤務終わりに菜緒ちゃんと屋敷の門の前で立ち話してたでしょ。歳が近いなら、子供の頃の話にも花が咲くよね」  比喩を抜いても、その時の菜緒ちゃんは花が咲いたような笑顔を見せていた。  同い年の相手と気さくに話せるのは、日頃社長令嬢として扱われる彼女にとって嬉しいことで、短い時間でもきっと楽しい一時だったんだろうな。  本人に聞かなくても、その程度のことは分かる。 「……盗聴、していたんですか?」 「うーん。盗聴していた、かな?」  この家の防犯カメラは高性能で、記録媒体に残るものは映像と音声。  最近はその性能も向上し、周囲に騒音があっても、解析を加えれば立ち話程度の会話でもはっきり聞くことが出来る。  さすがは、業界実績第一位の四ノ宮警備会社。  俺は褒め言葉のつもりで言ったのに、喘息持ちの彼女には何故か睨まれてしまった。 「それはともかく。暫くまともに動けないだろうし、君はこのまま休憩ね。あとの追いかけっこは、先輩たちが頑張ってくれるだろうし」  言いながら、数分前に巻いた鬼のような警備員の存在を思い出し、溜息を吐く。  きっと次に遭遇したら、更に怖い顔で追ってくるんだろうな~……。 「……わたしが、逃がさないとしたら?」 「ん?」  ふと足元を見れば、そこには酸素スプレーから手を離し、俺のコートを掴む手が一つ。  警備員としての使命と誇りが籠った手を、俺は少しだけ冷めた目で見下す。 「この手を踏みつけてでも、逃げますか? それでも、わたしは離しませんけど」  覚悟の籠った彼女の手は、多分だけど力技を使っても振りほどくのは一苦労だ。  確実に相手の手を振りほどくには、指の骨を折るか、肩の関節を外すかだけど……。 「――しないよ。そんなこと」  少しでも物騒なことを考えた自分の存在をかき消して、俺は笑う。 「だって、そんなことをすれば菜緒ちゃんが悲しむでしょ?」  自分が知っている相手が傷つけば、あの子はきっと悲しむ。  ようやくこの屋敷の中で、真奈美さん以外に気さくに話せる同性の相手。せっかくだから今度はお茶でもしながら話したいと、意気込んでいた彼女の願いを潰したくない。 「俺はね、菜緒ちゃんが傷つくことはしない主義なの。あの子を悲しませない為なら、なんでもやっちゃう“竜さん”だからさ」  それこそ。菜緒ちゃんを悲しませるくらいなら、先程の物騒な考えをした自分自身を殺せるぐらいに。  ……まぁ。そこまでの本音は菜緒ちゃんにも伝えたことがないから、俺が話せるのはここまで。  目の前で茫然とする警備員の手からコートの裾を引き抜き、俺は追いかけっこの第二ラウンドに備えて身構える。 「菜緒ちゃん甘い物好きだから、今度ケーキでも一緒に食べたら楽しいと思うよ。――それじゃあ、お大事に」  名前の知らない警備員と別れ、屋敷の中庭に顔を出せばすぐさま追いかけっこが始まった。  小休止を挟んだおかげで、この分だと今日も無事に逃げ切れそうだ。  今朝の逃走劇でまた、無敗記録が更新されることを確信して、俺は鬼より怖い四ノ宮警備の警備員さんから全力疾走で逃げ出した。  *――*――*  今回の一件。できれば菜緒ちゃんの耳には入ってほしくなかった。  けど後日。早朝の菜緒ちゃんの枕元には、俺が好きなブレンド紅茶の茶葉と『ありがとうございます』のメッセージカード。  何が、とは書かれていなくても、用意されたプレゼントを見れば察しはつく。 「……菜緒ちゃん。本当に、ダメだから」  こうしてまた、俺は菜緒ちゃんを好きになっていく。  出会ってから何度、俺は菜緒ちゃんを好きになればいいのか。  一体どれだけ、菜緒ちゃんに対する『好き』という感情を大きくしていけばいいのか。  果てが見えない愛情と菜緒ちゃんの可愛さに、俺は一生彼女から逃げられないと覚悟して、今日も天使のような寝顔を見つめた。 [case.03] ⇒
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