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【case.03 『胃痛案件の裏側』(菜緒視点)】
毎日が変わりなく過ぎていくように、今朝も家の警報は大きな音を鳴らしていた。
いつものように竜さんが我が家に忍び込んで、変わらない優しい笑顔で起こしてくれる。今朝は母の通報があったから、警備員の人達が勢いよく出動していた。
彼らの姿を、竜さんは「なまはげよりも怖い」と言って笑っていたけど、私はまだ本物のなまはげの怖さを体験したことがない。テレビで見たことがあるくらいだって言ったら、「今度一緒に見に行こうか?」という嬉しいお誘いの言葉をもらえた。
竜さんを用心している真奈美さんは目を吊り上げて怒っていたけど、私はその言葉が嬉しくて、いつか一緒に秋田旅行に出かける日を心待ちにした。
――これは、その日の夜の話。
「菜緒お嬢さん。これから少し、お時間頂けないでしょうか?」
声をかけてくれたのは、白髪交じりの四ノ宮警備の警備員さん。
六十代後半の方で、長年うちの会社に勤務してくれている方だ。屋敷の警備を担当してくれているこの方とは、もう何度も会って言葉を交わし、周囲の皆さんと同じように『ノブさん』と呼ばせてもらっている。
父や真奈美さんが信頼をよせるノブさんに呼び止められ、私は不思議に思いながらも、すぐに我が家の客間に案内した。
ノブさんは「一警備員の身でお邪魔するのは……」と最初は断った。
けれどノブさんの話したい内容が、あまり人に聞かれたくない内容じゃないかと指摘すれば、頷いて客間に上がってくれた。
冬の寒さで冷えた体を温める為に、二人分の日本茶を用意して、数口飲んだ後にノブさんは机を挟んだ向かい側で話を始めた。
「実は、主任……いや、真奈美ちゃんのことなんだけどな」
“主任”という上司ではなく、“真奈美ちゃん”という入社当時から気に掛けてきた娘のような存在。ノブさんは敢えて呼び方を言い直して、真奈美さんのことを話す。
呼び止めた時の硬い口調と違い、相手を思って自然と崩れた柔らかな口調。私は余計な言葉は入れず、静かに話の内容に耳を傾けた。
「真奈美ちゃん、最近無理してるような気がするんだ。声かけても気づかない時だってあるし、目の下にクマだってある。今日なんか、胃薬飲んでるところを見ちまってよ」
「胃薬、ですか」
「あぁ。だから、菜緒さんから無理し過ぎないよう言ってもらえないか? 俺たちが言っても、暖簾に腕押しって感じでな……」
休んだらどうだと言っても、無理をしていないかと気遣っても、何を言っても笑って誤魔化すだけ。ノブさんの話によると、近頃の真奈美さんはそんな様子を繰り返すばかりらしい。
確かに声をかけても遅れて返事をしたり、深い溜息を何度もついたりしている様子は、度々見かけたことがある。その度に真奈美さんは、私にも同じ反応を見せていた。
『ごめんなさい。なんでもないんです』
そう言って笑って、誤魔化すだけ。
彼女がどうして、そこまで自分を追い詰めているのか。彼女をそこまで追いつめている原因はなんなのか。その理由に見当がつくからこそ、私はなんと言っていいか言葉に困ってしまう。
しかしノブさんがここまで心配するくらいなら、これ以上真奈美さんに無理はさせられない。少し肩の力を抜いて、ゆっくりしてもらった方がいい。
私は申し訳なさそうに項垂れるノブさんに、しっかりと伝えた。
「分かりました。真奈美さんの問題は、私が解決します」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ノブさんはパァッと明るい声を出して頭を下げてしまったけど、私が言いたいことはまだ終わっていないので、慌てて頭を上げるようにお願いした。
「あの、私に出来るのは“真奈美さんの悩みの種”に少しの間静かにしてもらうだけです。だから、真奈美さんにその間ゆっくり休むよう伝えるのは、ノブさんでお願いします」
「……へ?」
何を言っているのか分からない。ノブさんはそんな表情で私を見上げて、反応に困った私は笑って誤魔化すしかできなかった。
言葉を選べばきっと、言いたいことを明確に伝えることが出来ると思う。だけど話せないことの方が多くて、今は曖昧な言葉しか出てこない。
とにかく。真奈美さんの悩みの種を一時的に取り除いで、その間彼女にはゆっくり休んでもらおう。
目の前で不思議そうな顔を浮かべるノブさんに、私は笑って真奈美さんの元に戻る様に伝えた。
深夜。冬の空に青白い月が浮かぶ頃、私は静かにベッドの上で起き上がった。
寝る前に消した暖房の温かな空気は、すでに肌寒い冷気へと変わってしまっている。吹き抜けた隙間風に身震いし、近くに常備しているブランケットに手を伸ばそうとした時だった。
「――はい。これに包まってね」
伸ばした手がブランケットを掴むより先に、人肌で温められたブランケットが肩から私を包み込む。温もりと一緒に優しい香りが鼻をかすめ、私は嬉しくなって顔を埋めながら笑った。
「ふふっ。少しだけ、竜さんの匂いがします」
「~~っ! 菜緒ちゃん、今はそういう可愛いこと言わないの。竜さん、大声出したら大変なんだから」
まぁ、それはいつものことなんだけど。
そう言って、今夜は音もたてず我が家に入った竜さんは笑った。
普段の侵入であれば、ふとしたことをきっかけに警報アラートが鳴り響く。けれど今夜の我が家には静寂が広がり、その中で竜さんは私に会いに来てくれた。
寝る前に、私が一言『会いたいです』と無理なお願いをしたからだ。
「俺に会って話したいのは、真奈美さんのことかな?」
「……やっぱり、分かりますか?」
「ノブさんとの会話、聞いていたからね」
やっぱり竜さんはあの客間にも盗聴器を仕掛けていたんだと、少しだけ呆れてしまう。
あの客間を使ったのが、私じゃなくて父や母だったらどうしていたのだろう。二人が知られたくないことを知ってしまったら、竜さんはどうするつもりだったのか。
少しだけ不安になって竜さんの顔を見上げると、竜さんは私の考えていることなんてお見通しなのか、「大丈夫」と言って笑った。
「あの盗聴器は特注で、菜緒ちゃんの声をスイッチにしてあるんだよ。菜緒ちゃんの声が聞こえれば作動するし、聞こえなくなれば停止する。つまり、他の人たちの会話は盗み聞きされない仕組みなんだ」
父や母の秘密が漏れることはなく、私のことだけが竜さんに届く。その仕組みが分かって、私は安堵の息を漏らした。
「それなら良かったです。あの部屋は母が定期的に婦人会で使っているので……」
そこで話題にあがる夫への不満が漏れていたらと心配したけど、どうやらそれは杞憂だったみたいだ。
本当に良かったともう一度安堵の息を吐くと、何故か竜さんは苦い顔を浮かべた。
「うーん。自分で説明しておいてアレだけど、菜緒ちゃんはそれでいいの?」
「え? どうしてですか?」
「……いや、なんでもないよ。こういう菜緒ちゃんのちょっとだけ抜けているところは、竜さんが全力でカバーするからさ」
竜さんの言いたかったことを上手く掴み切れなかったけど、彼が『なんでもない』と言ってくれたならきっと大丈夫。それに、私の足りないところをフォローしてくれるのなら、これほどまでに心強いことはない。
これまで通り、竜さんの優しさに甘える自分の未来を想像して、私は小さく笑った。
「さて、と。話を戻すけど、真奈美さんのことだけど」
「そうでした。それで、その……」
「いいよ。菜緒ちゃんの言いたいことは分かっているから」
本題を切り出してくれた竜さんに、私は今夜伝えようと思っていたことを口にしてみる。
けれどそれは少しだけ言いづらいことで、私が口ごもると竜さんは優しく頭を撫でてくれた。
「まぁ。連日俺がお邪魔して、捕まえられなくて、菜緒ちゃんパパのプレッシャーを受ければ、そりゃ胃痛にもなるよね。真奈美さん、責任感強いし」
「…………」
真奈美さんの責任感の強さは、私も知っている。
四ノ宮警備会社に入社して、男社会の現場でも功績を残して、父の期待に応えて。その上で『この仕事は私の誇りだから』と笑顔で語ってくれた女性。
そんな彼女を胃痛に追い込むのはやっぱり心苦しくて、私は覚悟を決めて竜さんにお願いをした。
「竜さん。お願いがあります」
「……なんでも言っていいよ。菜緒ちゃんのお願いなら、竜さんはどんなことでも叶えてあげるから」
私の我儘なのに、こんな時でも優しい竜さんの声に胸が痛む。
けれど、はっきり言わなくちゃ。そう決意を固めて、私は静かな部屋で彼にだけ聞こえる声で呟いた……。
*――*――*
それから一週間。我が家の警報アラートが鳴り響くことはなく、連日静かな朝が訪れていた。
真奈美さんの胃痛もなくなり、目の下のクマは徐々にだけど消えつつある。
父も穏やかな日々に安心し、部下に『警戒は怠るなよ』と言い残して地方の視察に出てしまった。
問題の起こらない休日。私は両親が出て行った我が家で、遅めの朝食をとるためのキッチンへと足を運んだ。
家族の居ない我が家はとても静かで、廊下を歩く自分の足音がやけに大きく聞こえる。
そのことに少しの寂しさを覚えたけど、すぐに香ったお味噌汁の匂いで、寂しさは消えて私は思わず笑みを零す。
「あ、菜緒ちゃんおはよー! 今日はワカメと豆腐のお味噌汁と、鮭の西京焼き。小鉢は色々用意してみたけど、どれ食べる?」
納豆に冷ややっこ、ホウレン草のおひたし、ごぼうのきんぴら、岩海苔、昆布と大豆の煮物。
様々な小鉢を食卓に並べて、私を迎えてくれた竜さんの満面の笑みに、思わず吹き出してしまいながら、ひとまず朝の挨拶を返した。
「おはようございます、竜さん。やっぱり会いにきてくれたんですね」
「まぁね。真奈美さんの体調も戻って、菜緒ちゃんのパパママが不在。――となれば、早急に会いに行かないとね! 竜さん、頑張りました‼」
一週間の無断侵入禁止期間を経てやっと会えたと喜ぶ竜さんは、朝ご飯が冷めないうちに、と食卓に誘ってくれた。
白いご飯に、湯気の立つ具沢山お味噌汁。焼き立ての鮭の西京焼きの後ろには、種類豊富な小鉢がズラリ。炊き立ての白米の香りに、さっきまで平気だったお腹も急に鳴り出して、私は慌てて両腕でお腹を隠した。
「ハアァァ~~……可愛い。照れる菜緒ちゃん、可愛い。画面越しで見るのもいいけど、やっぱり実際に会うのは別格だよね。同じ空気を吸ってる時点で違う。しかも今日は、一緒に朝ご飯を食べれるんだよね。 これって、まるで同棲生活の朝みたいじゃない? いや、寧ろ新婚夫婦の朝? つまりこれは、結婚の予行練習ってことでいいのかな? うん、そうに違いない」
急に早口になって机に突っ伏す竜さんを見つめながら、私は照れ臭くなって笑う。
竜さんの言葉はほぼ聞き取れなかったけど、所々で『夫婦』や『結婚』という単語を耳にしてしまうと、こっちまで気恥ずかしくなる。
こうして食事を一緒にするのはすごく稀なことだから、せっかくの朝の時間を満喫したい。
竜さんがいつもの調子で起き上がるのを待ってから、両手を合わせて朝食をいただこうとした時だった。
「あーもー! この変質者‼ 社長や奥様の留守に、こんなところまで忍び込んでいたんですか⁉」
すっかり元気になった真奈美さんが、勢いよくキッチンへと乗り込んできた。その後ろにはいつもお世話になっている警備員さんの姿と、真奈美さんの元気な姿を嬉しそうに見守るノブさんの姿があった。
「えぇー! このタイミングはなしだって‼ 俺たちは今から、(未来の)夫婦水入らずの食卓を囲んで、今後の家族計画について相談を――!」
「そんな妄想は聞くに堪えません! 今回こそは捕まえますので、お覚悟を‼」
真奈美さんの怒号を合図に、今朝も竜さんと四ノ宮警備会社の鬼ごっこが始まった。
家の中にはドタバタと足音が鳴り響いて、真奈美さんや警備員さんの怒鳴り声が行き交って、それを笑いながら回避していく竜さんの姿がある。
「やっぱり、こっちの方がいいな」
静かで穏やかな朝より、みんなが揃った賑やかな朝。
寂しいと思う間もない明るい一日の始まりに、私は口元を綻ばせながら、竜さんが用意してくれた朝食に箸を伸ばした。
――あとでおにぎりを作って、逃走を終えた竜さんに渡そう。
具材は何がいいか考えながら、私は食卓に並ぶ一品一品をゆっくり味わった。
[case.04] ⇒
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