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朝。スマートフォンのアラームの音と同時に目が覚めると、ガウンを羽織り、マフラーを巻いた。
縁側の戸を開けると耳に冷たい空気が触れ、冬の清涼な香りが鼻を刺激する。僕は思わず息を吐き出し、手をさすりながらキッチンへ向かう。流しの近くに置いた缶コーヒーを開け、マグカップに移して、電子レンジにかける。
まだ眠い頭。昨夜遅くまで起きていたせいだ。とにかくカフェインを摂取してしまおう、なるべく暖かいもので。
ピーッと電子音がして、レンジの扉を開けると、コーヒーの香りがキッチンに広がった。僕は電子レンジの前に立ったまま、コーヒーをゆっくりとすする。食道から胃へ温もりが降りていくのを感じた。
頭がさえてくると、自室へと引き返す。部屋の角に置いてあったケースからギターを取り出し、縁側に腰かけた。
縁側に座っていると、様々な音が聞こえてくる。
葉の落ちた小枝が風でかさかさと揺れる音。名前も知らぬ鳥の声。遠くを走る車のかすかなエンジン音。ギターの弦をはじくと優しい音色が、そんな周囲のおぼろげな音の中を走っていった。
指先で木製のボディを軽く叩いてリズムを取る。そして、昨夜布団の中で浮かんだメロディを鼻歌に、伴奏を付けていった。
歌詞はまだない。今はとにかく、降りてきた音を逃がさずに形にすることが大事だった。
ある程度納得がいったところで、ガウンの内ポケットからスマートフォンを取り出し、録音を始める。これはメモのようなものだから、それほど気を使わずに、思いのままに演奏すればよかった。
三分ほど経っただろうか。静寂に包まれていた庭から、一つの足音が聞こえた。車が到着した音も聞こえないし、吉岡が来るにはまだ早いから、思い当たる足音の主は一人しかいない。
「ギターの兄ちゃん、やっぱりここにいた」
声変わり前の少年の声。僕はスマートフォンの録音を止めて、にこりと微笑む。
「やあ、優斗くん。……今日は土曜日だったかな」
「ううん、今日は金曜だぜ。学校行く前。ギターの音が聞こえたから」
優斗は、近くに住む少年だった。
初めて出会ったのは、まだ暑いころだった。引っ越してきた隣人のことが気になったのか、物珍しそうにやって来たのだ。どうやらギターの音が気に入ったらしく、縁側で弾いているとたびたび現れては、しばらく音を聞いて帰っていく。
僕としても、庭にこだまして消えていくだけの音を、小さな観客に聞いてもらうのは、悪い気分ではなかった。そんな奇妙な関係が、もう半年ほど続いているのだった。
「これ、聞いたことない」
「今作っている曲だよ。……これを聞くのは、僕を除けば君が初めてといことになるね」
へへ、と横で微笑む声がした。僕は続きを演奏することでその声に応える。弾いているだけで楽しい気分になれるコード進行に、自分で弾いていても小気味よい気持ちになれるストローク。
……じっとしていると凍えてくるような冬空にはあまり似つかわしくない曲にも思えたけれど、聞いているだけでぽかぽか暖かくなるから、これもまた味があるように思えた。
「俺は好き」
「そう、それは良かった」
優斗は小難しい言葉を並べたりはしなかった。感想としてもらえるのは「好き」か「嫌い」か、「よく分かんない」の三つくらいだ。それくらいの方が、僕にとってはありがたかった。ふわふわとした雑音の中を、まっすぐに進んできてくれる言葉だ。
「何て曲なの」
「うーん、名前はまだ決めてないかな」
メロディと歌詞、どちらから作るかというのは曲によって変わるのだけれど、タイトルは必ず最後に付けると決めていた。
「ふーん」
優斗はあまり興味がなさそうに相槌を打った。これくらいの年頃の子にとっては、答えが無いというのはつまらないものなのかもしれない。彼は次に興味を持ったことを聞いてくる。
「前から思ってたんだけど、兄ちゃんって青が好きなの?」
「……青?」
「うん。兄ちゃんの部屋ってさ、青いものがいっぱいあるから。そのギターも青だし、後ろに敷いてあるじゅうたんも青。マグカップも青だし、今着てる上着も、マフラーも青だから」
僕は戸惑ってしまった。そういえば、色について聞かれるというのはあまり経験がなかったからだ。僕を良く知っている人はもちろん、僕を知らない人間であっても、出会ってからほんの数秒経てば、僕に色の話題を振ろうとはしなくなる。
僕は優斗の声がした方に向かって、問いかける。
「……このギターは、青いんだね」
ギターのボディを撫でてみる。……気を付けて触ってみても、普段と違う感触はしなかった。色によって手触りが違ったりするなら、僕にも色を感じ取れたかもしれないんだけれど。
「あ、そっかそっか」
ぽかんとした声が返ってくる。そこに、悪いことを聞いたかな、などという気まずい感情は一切なかったし、僕もその方がよかった。それに、少しだけ興味がわいてきた。
「青ってどんな色なのか、教えてくれないかな」
「どんな色?」
「……うん。ほら、優斗くんが言うには、僕はどうもその色に縁があるみたいだ。だから、どんな色なのかなって、気になったんだ。青空とか、青魚とか、青信号とかいうじゃないか」
口に出してみて思う。色というのがどんな概念なのか――もちろん、理科の授業で習ったことはあるから、その仕組みくらいは知っているのだけれど――不思議な気持ちになった。
空というのは、頭のずっと上にあるものだと知っているし、魚は形や味や食感がわかる。カッコウかヒヨコが鳴くとき、青信号になるというのも知識としてはある。しかし、その三つは全くの別物で、それぞれを結びつける「青」というものがどういうものなのか、直感的に理解したことはなかった。
「えーと、冷たいと青くなるよ」
「冷たい? ……例えば、こんな感じ?」
僕が右手を差し出すと、優斗が両手で握りこんだ。やはり、子どもの体温というものは高いらしく、わっ、と小さな悲鳴が聞こえる。
「確かに冷たいけど、これは……青じゃないなあ。青いのはね、自動販売機の冷たい飲み物とか、お風呂でお水を出すときも青」
「……温度もわかっちゃうんだね。すごいな」
「そうだよ!」
優斗の自慢げな声が聞こえる。僕は楽しくなってきて、もっと色に関する話を聞いてみたくなった。
「他には、何かある?」
「えーと……さわやか、かな」
「さわやか?」
「あと、悲しい気持ちになったりもするよ。涙を描くとき、みんな青い絵の具を使う」
想定外の答えが返ってきて、少しまごついてしまう。優斗が言っているのは感情だ。感情に色が付いている、というのはどういうことだろう。ギターを触れば、冷たいだとか、硬いだとかは簡単にわかる。しかし、触っただけで悲しいとか、青いとか、そんな風に思うことはない。
感情というのは、形のないもののはずだった。色というのは、それに付くことができる……。
ここで、僕は一つ思いついた。
「ということは、青っていうのは、こんな感じかな」
僕は手にしたギターで、コードを弾いてみた。
マイナーコードから始まる、悲しい音の流れ。少し切ない音階。……けれど、聞きようによっては、少しだけ明るい方向へ進んでいくようにも感じる……そんなコード進行だった。
光のない僕の世界で青を表現するとしたら、こんな方法しか思いつかなかった。演奏を終えると、優斗は楽しそうな声を出す。
「そうそう! すごい! すごく青い音だよ!」
その声を聞いて、僕も嬉しくなる。新鮮な、初めての気持ちだった。こんな風に、色を共有することができるなんて。
僕は優斗の年齢に戻ったようなはしゃぎ方で、彼に尋ねる。
「優斗くんは、何色が好きなんだい?」
そう聞くと、優斗は即答した。
「俺が好きな色はね。……あ、あそこに咲いてる、ロウバイと同じ色の――」
* * *
吉岡がやってきたとき、僕は変わらず縁側でギターを弾いていた。弾いているだけで楽しい気分になれるコード進行に、自分で弾いていても小気味よい気持ちになれるストロークの、あの新曲を、繰り返し弾いていたのだ。
「精が出るね。……新曲?」
「そうそう」
「いいじゃねえか。朝はもう食べたか?」
「ああ、夢中になってて……コーヒーしか飲んでないや」
「おいおい、もう昼前だぞ。のめり込むのもいいけど、健康な体あってこそだ」
「……そうだね、その通りだ」
「しょうがねえな。今日も優しい吉岡さんが、大切なアーティストのために豪華なブランチを作ってやるとするか」
かすかな布ずれの音。どうやら、エプロンを巻いたらしい。
「何食べたい?」
「……んー、甘いものかな。頭が欲しがってる」
「了解」
足音が縁側に近づく。きっと、僕の後ろ姿を見に来たのだろう。
「今回も、タイトルは最後に付けるんだよな。……決まったら教えてくれや」
「ううん。今回は、もうタイトルを決めてあるんだ」
「へえ、珍しいじゃねえか。……教えてくれよ、新曲の曲名」
「……へへ」
僕はその色らしく笑ってから、吉岡に答える。
「『きいろのうた』」
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