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あらかじめ、火災訓練とまでいかないがスタッフ達と、もしものことに備えて打ち合わせをしていたのが、良かったのかもしれない。だが、火の勢いが強く薄黒い煙がモクモクとあがりだす。
──火事や! 火事や! みんな、早く逃げろ──
スタッフや待機しているコンパニオン達が一斉に裏口から避難しだす。
爽は耳にヘッドホンをあて大音量で音楽を聞きながら、キーボードを叩き作業している。火災報知器の音がまったく聞こえてないようだ。
「ゴホッ、ゴホッ、これ以上先には、無理や! 引き返して裏の非常階段から出よう」
下に降りて消化活動しようとしていた浩たちは、煙で視界を遮られた。しかも、それだけではなく煙にも呑まれだす。
約一分後、紫音が到着すると躊躇することなく黒煙と炎の中に飛び込み一階のエントランスにも置いていた消火器を二本をわしづかみ、再び外に出る。
急いで消火器のピンを外し、大きな手で二つのレバーを握り二本同時に噴射する。だが、火の勢いはおさまらず一階の空テナントがみるみるうちに真っ赤に燃え盛る。
「あかん! こんな消火器じゃ糞の役にも立たん」
鬼隈から教えてもらった衝撃波を放とうかとも考えたが、あれは部分的には有効だが、こんなに大きな範囲では火に風を送り、よけいに燃えあがらしてしまうかもしれない。
(あ~くそー、七海のとこに早よ行かなあかんのに、どうしたらええんや!)
よりいっそう眉間に深いシワを刻んだ紫音は、消火器のレバーに目一杯の力を込める。
そんなとき、突如、数日前から働きだしたドライバーの神林勘太郎が現われた。顔半分、白髭で覆われている仙人のような爺さんが、ジャンパーの内ポケットから緑色の扇子を取り出したかと思うと、しゃがれた声を張り上げた。
「社長! そこを、どいてくだされ」
神林は燃え盛る炎を大きな目でギョロッと睨みつけ、弓を弾くポーズをとる。
「むん!」
次の瞬間、白髭で覆われた口から気合いが迸しっかたと思うと、頭上から緑の扇子を大きく振り下ろした。
そのとたん、ぶわっぁー! と、猛烈な突風が渦を巻いて吹きつけた。まるで、竜巻のような暴風が一階の空店舗に突撃していく。数秒後、燃え盛る炎だけを巻き上げ踵を返して上空へと消えていった。
先程までゴウゴウと勢いよく燃えていた炎が嘘のように下火になっている。
「社長! 早く七海さんを助けてやるんじゃ! 安井のリバース201号室ですぞ! わしのあの車を使ってくだされ」
そう神林が言うと、路肩に停車している白い軽ワゴン車を指差し、キーを紫音に放り投げた。
「わかった! おおきに!」
消火器を地面にゴトンと落とし、大急ぎで七海のいるホテルへと向かう紫音。
少し前、七海から ──助けて! ──と、店に電話があったが、それっきり連絡が途絶えていた。そのことを、店長浩から店の近くで待機していた神林に連絡がいく。神林は、急いで安井のホテルへ向かおうとする途中、燃えている事務所の一階の空テナントを消火している紫音に出くわした。
そんな危機的な状況を目の当たりにした神林は機転を効かせ、摩訶不思議な術で消火すると、紫音に七海の救助を託した。
そうして、紫音が車に乗って走り去るのを見届けると、神林は転がっている消火器を拾い、燻っている火を消火しだす。裏からも消火器を持った浩たちが駆けつける。
その直後、数台の消防車のサイレン音が祇園中に響き渡った。
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