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「むしやしない」
盆に乗った料理を皐月の前に出した婦人はそう言った。
何のことかと首を傾げる皐月に婦人は話し続ける。
「お腹が鳴ることを『虫が鳴る』というでしょう。それを一時的に凌ぐ程度の軽食を京都ではむしやしないと言うんです。若い方には物足りないでしょうけれど、朝ごはんには丁度良いですよ」
婦人の説明を聞いた皐月は再び盆の上を覗く。綿毛のように盛られたご飯に根菜の入った味噌汁。奥には漬物と温泉卵。たしかに朝には最適な量だ。それに「むしやしない」の言い方が何やら洒落ている。単に軽食と言わずに日頃から言葉で遊ぶ京都だからこそ、ここから名だたる名作が生まれたのだろう。
「いただきます」
皐月は合掌してから箸を運ぶ。どれも丁寧に作られていて舌が喜んでいる。気取っていない、庶民の贅沢を感じさせる逸品だ。さらに合間に挟むほうじ茶は濁りなくすっと体に流れて内側から温めてくれる。優しい温もりは嫌な汗をかかないものだと心の中でつぶやいていると、婦人が急に口を開いた。
「貴方のご病気もこれで凌げればいいのにね」
え、と思わず声が漏れた。私は目の前の婦人との会話を思い返した。しかし、一度たりとも病気について話した覚えはなかった。
まさに昨日のことだった。ここ最近体のだるさが続き、発熱でうなされる事も多かった。皐月は過労からの発熱と思っていたが、一向にだるみは体にこびりついていた。
上司の勧めもあって皐月は検査を受けることになった。そして昨日の仕事終わり、会議室のような白い部屋で担当医師が告げた。
「白血病です」と。
それから医師は白血病の症状や今後の治療方針に説明をしてくれたが、そのほとんどが皐月の耳には入ってこなかった。医師にとっては馴染みのある言葉かもしれないが、皐月のような凡人が告げられることは一度あるかないかだ。
「現在の医療では治る病気ですから、気を強く持って頑張りましょう」
最後に医師は力強く言った。皐月はいつ風邪を引いたかも覚えていないほどの健康優良体だった。それが、よりによって、どうして……。どれだけ反芻しても答えが返ってくるわけではない。皐月は誰にも連絡することができずに家に帰ったら。
その夜は流石に食欲がなく、帰るなり布団に入った。しかし、夜半に空腹で目が覚めた。そのためお湯を沸かしてカップ麺を食べることにした。一人テーブルでカップ麺を啜る中。皐月は一人で涙を流した。ぽろぽろと溢れる涙が容器の中に入っていく。病気と告げられて食欲も無くなるくらい気を落としていたのに、胃がいつも通りに食べ物を欲する。昨日まで普通だったのにたった一言で何もかもが変わっていく。皐月は半分ほど食べてまた布団を頭から被った。
いつもより早く起きた皐月はふと桜を見たくなった。今年はまだ見ていない。来年は見れないかもしれない。毎年決まって見に行くわけではないけれど、どうしても見ておきたかった。そう思って仁和寺まで足を運んだのだ。
当惑する皐月に婦人はほうじ茶のニ煎目を差し出す。二人の間で湯気が渦を巻きながらゆるりと上る。
「あの、どうして……」
婦人は呆気に取られている皐月を見つめてから、
「だってお店の前にいらしたお客様、大変脂汗をかいて蒼白な顔をしていらしたので体調が優れないかと思いました。それにお話を聞く限り普段から桜どころか花には興味を示しておられないご様子でしたので、何やら病を抱えていらっしゃるのではと思いました。人は絶望した時に花鳥風月の順に欲すると言われております」
婦人の洞察力に皐月は目を見張った。初対面だというのにここまで読まれるとは。はたまた皐月が顔に出過ぎているのかもしれない。
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