プロローグ

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プロローグ

 非常ベルが鳴り響いた。  朝食の準備中だった手を止め、隣に立つ先輩と顔を見合わせる。足音が、廊下を駆けてくる。 「とうとう来ました」  押し殺した、けれども明らかに興奮している男性の言葉が、台所にいる自分たちにもはっきりと聞こえた。 「キク姐さん……」  心配そうに先輩の顔を見上げた直後、パン! という乾いた音が遠くで響いた。中庭のあたりだろうか。さらに続けて、怒号のような声も。 「大丈夫よ、アヤちゃん」  そう言うキク姐さん自身の声音も、心なしか震えている。だがお陰で、逆に少しだけ冷静さを取り戻すことができた。 「これだ、これだ! 仕留めたぞ!」  今度は明確に、襲撃者たちの台詞が聞き取れた。先輩ともう一度顔を見合わせ、すぐさま台所を出る。客室へ向かわなくては。  あの方が、無事でいらっしゃいますように。  一部の軍人たちが陛下を祭り上げて武装蜂起するのでは、といった不穏な噂は、ここのところ確かに囁かれていた。万が一そうなった場合、襲撃目標となるのは首相をはじめとする政府の要人たちだろうとも。何年か前にも帝都で同じような事件があって、やはり当時の総理大臣が殺されて、大きな新聞記事になったのを覚えている。でもあのときクーデターを起こしたのは、たしか海軍の人たちじゃなかっただろうか。今回も悪い人が皆、海軍だったらいいのに。  勝手な言い草なのはわかっている。けど、陸軍にはあの人がいるから……。  大切な人の横顔を頭に浮かべながら、廊下を小走りで進む。  角を曲がったところでキク姐さんと二人、揃って安堵のため息が漏れた。部屋の襖が音もなく開いて、心配していた本人がけろりとした顔で姿を現したからだ。 「や、おはよう」  相変わらずのとぼけた挨拶。今この瞬間、自分の命が危険に晒されていることなど、欠片も自覚していないようですらある。昨日と同じく、「今日の朝ご飯は、なんですかな?」などと言い出しかねないくらいに。 「寝巻き一枚で飛び出してしまったものですからねえ。寒くて仕方がない。こんな格好で見つけられるのもなんですから、いったん戻ってきました」  そんなことも言いながら、上から無理に羽織ったらしい袷着物の前を重ね合わせている。危機感の乏しさはともかくとして、寒いというのはたしかにわかる。実際、外は三日ほど前に積もった大雪がまだ残っていた。 「とにかく、ご無事で何よりでした。どうぞこちらへ」 「ああ、はいはい」  もどかしそうな顔をしたキク姐さんが、その人の腕を取って、仲居の控え室へと引っ張っていく。まるで叱られる子どもみたいで、これではどちらの身分が上だかわからない。思わず笑みをもらしそうになってしまったが、いけない、と慌てて顔を引き締めた。  三人で控え室に逃げ込んだあとは当初の予定通り、大切な客人を押入れに匿わせてもらう。 「狭くて申し訳ございません。でも、必ずお守りいたしますから」  真剣な眼差しで頭を下げるキク姐さんの隣に、衣紋掛けがある。念のためだと思い、そこにあった自分の着物を手に取って渡した。 「これもおかけになってください。いざというときは、変装の助けにもなるかと」 「ああ、はいはい。ありがとう」  どこまでも変わらない、気さくでとのんびりとした返事。誰に対してもこんななのかしら、とふたたび笑ってしまいそうになりながらも、なんとか緊張感を保って自分も頭を下げる。  そっと襖の扉を閉めたところで、キク姐さんが大きく頷いた。 「アヤちゃん、あとはお洗濯物をまわりに」 「あ、はい」  将校らしき兵隊が数人、乱暴に部屋へ入ってきたのは、それからわずか数分後のことだった。
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