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「かおりんって、何が好きなの?」
弘恵は口元を布団で隠しながら、どこかおどおどとした様子で話す。
「え、好きって?」
弘恵の様子など気にもしないように、華織は目の前のポテトをひとつ食べた。
「あ、趣味…とかさ。」
「んー!趣味ね!」
話がわかると華織の表情が明るくなる。
「登山が好きなの!登山!」
「とざんって、あの登山?」
不思議そうな顔をした弘恵に、華織はにこにこと笑顔を浮かべて笑ってみせる。
「そう!好きなんだよねー、あんまり大きな山とか険しいところは怖くて無理なんだけどさ…ひとりだし。あ、登山なんてわかんないよね。」
「あ、実はわたしも」
「え?」
「私も実は…登山好きなんだ…すごい、偶然だね。」
恥ずかしそうに笑う弘恵に、華織はベッドから身を乗り出して目を輝かせた。
「え!本当に!?本当!?え…じゃあ、じゃあさ!退院したら行こうよ!二人で!」
華織が差し出した手を、弘恵は軽く掴んでうんうんと小さく何度も頷いた。
「ごめんお待たせぇ!」
荒く息を吐きながら登場した華織に、弘恵は声を出して笑うと「全然大丈夫」と応える。
「わ、さすがひろちゃん、本格的だねぇ!そのザックもウェアも靴もめちゃくちゃいいやつじゃん!」
華織は弘恵のつま先から頭まで目を輝かせて眺めると、自身の情けない靴を指さした。
「あはは、私の、ボロボロ!」
「大切にしてるからだよ。」
弘恵はそう答えると、じゃあ行こうか、と腕時計を見ながら言う。
標高二千メートルまでは、ロープウェイで登ることが出来る有名な山だが、二人は下から登る計画を立てていた。
「ゆっくりでいこう。」「うん。」
まだまだとても緩やかな山道だが、体を慣らすために歩幅を狭め、歩くよりも遅く進み始める。
「そういえば、ひろちゃんも私と同じで腫瘍をとる手術だったんだよね?」
「あ、うん、そうそう。」
「良性とはいえ、ビビったよねぇ、手術なんてさ、人生で経験しなくていいものじゃん!」
華織は入院生活を思い出すように身震いした。
「そうだね…、でも、私はラッキーだったな。」
「え?」華織は首を傾げる。
虫の声が耳をくすぐり、土の匂いが二人の身体をみたしていく。嬉しそうに話す弘恵の横顔には、木々から落ちた太陽がふわりとのって、照らしていた。
「隣がかおりんで…、かおりん、人懐こくてすぐ話しかけてくれたし…楽しかったな…。」
「ええ!なにそれ、本当!?」
華織は嬉しそうに笑いながら、首元の滲んできた汗を拭う。
「そんなこと言われたら嬉しいなぁ!あ、でも私も楽しかったよ!しかも、私の退院最終日に登山の趣味が同じだなんてわかってさ!」
すごい偶然じゃない!?と、興奮気味に話す華織の横顔を、弘恵は微笑んで見つめた。
「あのー、もしかして、同い年くらいかな…なんて。」
弘恵が横になって本を読んでいると、カーテンの向こう側から、声がした。はじめ、まさか自分に話しかけてきているとは思わず、弘恵は無視を決め込んでいたが、その声は二度の無視を受けてでもまだ話しかけてきたのである。
「私、明後日退院なんだぁ!そこの桜ヶ丘大学通っててさ…、ってもしかして大学生さんじゃない?」
「私…ですか?」
弘恵は恐る恐るカーテンをあけた。
「あ、こんにちは!うるさかった?」
謝罪の言葉もなくへらへらという擬音がよく似合いそうな笑顔で、そこに華織は立っていた。
「ううん、大丈夫…えーっと。」
「あ、私飯田華織、かおりんって呼んで、嫌じゃなかったら!なんかもう暇でさぁ。」
一気に話すと、華織は弘恵のベッドわきにおいてあった椅子に座った。
「やば、タメ語で話しちゃった、私今十九なんだけど…。」
突然反省したかのようにしおらしくなった華織に、弘恵は慌てて両手をふった。
「あ、大丈夫、私も…十九、大学生。」
「本当!?」
「うん、弘恵っていうんだ。」
「弘恵かぁ、じゃあひろちゃんね!」
その日から三日間、二人はほとんど寝ずにこそこそとカーテン越しで話をした。同い年の女子が暇な入院生活で偶然隣同士。人懐こい華織のおかげもあり、すぐに仲良くなったのだ。
途中から二人とも黙ってもくもくと歩き続けていた。先頭を歩く華織がふと立ち止まり、水分をとると、歩く先の道を目を細めて見つめた。
「いやぁ、そろそろ視界が晴れると思うよ!森の中もいいけどさぁ、やっぱり山の醍醐味は…ひろちゃん?」
振り返ると、少し後ろで膝に手を置き、肩で息をする弘恵の姿があった。
「だ、大丈夫!?」
華織は軽い足取りで弘恵の横迄小走りで戻ると、弘恵のザック横から水分を取り出して手渡す。
「飲んで、ちょっと休も!私、おやつ持ってきてる!」
陽気な様子でザックを降ろし、おやつを取り出す華織に、弘恵は声も出ないまま何度か頷いた。
「少し、落ち着いた…ごめんね。」
あやまる弘恵に華織は首をふる。
「私たち一ヶ月前に退院したばっかりだもん!もう少しペース落とそう、ひろちゃん先がいいよ。のんびり行こう。」
華織の優しい言葉に弘恵は力強く頷くと、またゆっくりと歩き出した。三十分ほど、いいペースで進んでいたのだが、また弘恵の足がとまる。
「ご、ごめ、」
肩で息をして、かなり苦しそうだ。
「ひろちゃん。」
「ごめ…、はぁ、大丈夫、すこし、…休んだら、いこ。」
必死に目だけは前を睨み付ける弘恵の肩を、華織が軽くさするように触った。
「ひろちゃん…登山、初めてなんじゃない?」
静かに確かめるような華織の声に、弘恵は息を飲んだようだった。息があがっているせいか、応えが見つからないせいなのか、何も言わない弘恵の目を見ながら華織は心配そうに声をかける。
「ザックも靴も、新品だし…ちょっとおかしいなとは思ってたんだ。歩くペースとか、歩幅とか見てたらさ、ごめん、私が…テンション高いから、もしかして話合わせてくれたんだよね。」
弘恵はハッとして首をふった。
「な、なんでかおりんがあやまるの…、うん…ごめんね、わたし登山なんて、今日が初めてなんだ。」
弘恵はそのまま深く息を吸うと、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
「かおりんが、沢山話しかけてくれて、嬉しくて、つい…。恥ずかしいや、登山ってハードだね。」
華織も隣に座り、水分をとると弘恵の背中を強く叩いた。
「っもー!なんだそれ!別に登山なんて好きじゃなくても、ひろちゃんとは仲良くなったんだし、嘘なんてつかなくて良かったのに!」
怒ったように話しながら、華織はチョコレートを口に含むと、もう一つの欠片を弘恵に渡す。
「ありがとう…そうだね、かおりんはそういう人なのにね。」
そういって俯いた弘恵に、華織は首を傾げる。
「どうしてそんな嘘なんてついたの?」
華織の質問に、弘恵は不安そうな目をして華織の顔を見た。それでも何も言わず、弘恵の言葉をまつ華織に弘恵はため息をついて話し始めた。
「私ね、生まれつき身体が弱いの。」
細すぎる弘恵の手首が、初めての腕時計のせいなのか、赤く擦れていた。
「一年に二、三回は入院しててさ。だから学校とかも…全然行けなくて、あ…大学生でもない…また嘘ついちゃったね。いつもだったら個室に入院するんだけど、あの時ちょうど個室がいっぱいで…検査入院だったのもあって、あの部屋にいたんだ。人のいびきで眠れない病院なんて初めてだったな。」
「え!?私の!?」
華織の驚いた顔を見て、力が抜けたように弘恵は笑った。
「違う違う、多分前のおばちゃん。」
「なぁんだ、良かった…ていうか、じゃあなんで尚更嘘なんか…登山なんて危ないし、ていうか親は?今日のこと知ってる?もしかして…」
「大丈夫、担当の先生とかにも相談してきたの。」
弘恵の言葉に華織はほっとしたようだった。
「まぁ、ちょっとだけ嘘ついたけど。」
「え!?」
付け足された言葉にすかさず反応するが、弘恵が手を振って遮った。
「あはは、こんなに嘘ついたのも、初めてかも。」
「笑い事じゃないよぉ。」
もう、と膨れる華織を差し置いて、弘恵はまだくすくすと笑っている。
華織は暫しその笑顔を眺めていたが、ふと何か思い立ったように立ち上がり、手を差し伸べた。
「下山します!」
「え?」
「当たり前だよ!身体弱いなら尚更!まだまだ山頂は遠いし、しかも私たち今日テン泊予定だし…こういう時は下山です!」
きっぱり言い切った華織を見て、弘恵はくびをふった。
「下山は…したくない。」
「ええ?ダメだよ。」
「私、友達ができたの、初めてなんだ。」
弘恵は小さな声でそう言うと、華織の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「その友達が病室で話してくれた最高の景色を、私も見てみたい。もし明日人生が終わるかもしれなかったら、私はかおりんと絶景を見れなかったこと、満点の星空を見れなかったこと、外で食べるホットサンドの美味しさを味わえなかったこと、朝焼けを見ながらコーヒーを飲めなかったこと…それを後悔する…かおりん、私ね、こんな気持ち初めてなんだ。お願い、わがままだし、足でまといなのはわかってる、けど、この登山を最後まで楽しませて欲しい。」
弘恵はそう言い切ると、立ち上がった。二人の間に暫し沈黙が流れていたが、ふと華織が突然弘恵のザックを漁り始める。
「えっ、か、かおりん?怒った?」
弘恵の質問もまるで無視すると、華織は弘恵の持っていた寝袋や水や食糧を、自身のザックに括りつけた。
「これで良し!」
「え?」
「これなら、いけるでしょ!ゆっくりね!」
ほとんど空になったザックを弘恵は背負うと、溢れ出した感情を堪えるように目を擦った。
「ど!?軽くない!?」
眩しいほどに笑顔の華織に弘恵は首をふって歩き出す。
「優しさが、重い。」
「あはは!」
それから一時間ほどすると、森を抜けた。
「わぁ。」二人して声が出た。
「いやぁ、何度見てもいいよ、この景色、どう、ひろちゃん。」
弘恵は応えられず、静かに頷いてその目の前に広がる景色を堪能した。
「ここまできたら、テント場まですぐだよ、大丈夫?」
「うん、なんだか足が軽いの。」
「あはは、登山ハイかなぁ、じゃあゆっくりいこう!」
弘恵は心地が良かった。
広がる景色は、生まれて初めて見たものだった。雲が山の中腹を踊るように流れ、緑は今まで見てきたものの中で一番新鮮な色をしている。そしてすぐ後ろからは、友達のザックについた鈴の音がりん、りん、と追ってくる。まるで応援してくれているかのように。
「あ、ついたぁ!」
「すごい…」
テント場につくと、山肌に飾りをつけたように色とりどりのテントが並んでいた。
手際よく華織は二つの小さなテントを並べると、ザック下に括りつけていた折りたたみ椅子を二つ横に並べる。
「さぁ、座ってさ!コーヒーのも!」
手を広げて笑う華織を見た途端、堪えきれないものが弘恵の頬をつたった。
「あ、どうしよう、まだ、山頂じゃないのに」
止めようと必死に目を抑えても、それはとどまることなく弘恵の手袋を濡らしていく。
そんな弘恵の様子を見ながら、華織はコーヒーを二ついれると、用意してきたホットサンドをあたためる。
「ひろちゃん、実は山頂もすぐそこ、そしてもう目の前にはホットサンド、そして夜には満点の星空、ここからは楽しいことしかないんだよ。」
華織はそういうと「あ、下山は大変なんだよなぁ」と、困ったような笑顔で付け加える。
「かおりん、ありがとう、楽しい。」
「えっ、そうでしょ!」
「うん、楽しい、こんなに楽しいこと、初めて」
「大袈裟だなぁ」
「本当だよ。」
二人は椅子に腰を下ろすと、見つめあってふふふと笑った。
「私はねひろちゃん、山じゃなくても、病室でひろちゃんと話すの、楽しかったよ。」
「え?」
「私はさ、初めての入院だったのよ。最初は怖くてさー、それに暇だし。…でも、ひろちゃんのおかげで楽しかったの。」
「うん…」
「だから、これからもずっと友達でいよう。」
「うん…」
弘恵はまた堪えきれない涙を両手で拭うと、華織に向き直った。
「じゃあ、乾杯しよ!」
華織がコーヒーを掲げる。
「あは、うん!乾杯!」
二人の笑顔が、きらきらと輝いて山に映える。
「私たちの友情に」
「私たちの友情に」
こんなに美味しいインスタントコーヒーは、二人とも初めてだった。
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