夢を彷徨って −アネモネ

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夢を彷徨って −アネモネ

『夢を彷徨って』 夕焼けの淡いオレンジ。セピアな色に染め上げられていく部屋。すり切れたガラス窓の隙間からはたくさんの光が神々しく差し込んでいる。 目を戻すと、そこにはひとり、眠る女性。 ベッドに横になった彼女の頬は、 腕は、 そっと掛けられた毛布は、 その光によって、淡く淡くオレンジ色に照らされていた。 「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」 最初は、凪いだ海のように穏やかだった。 けれど、一通りの話しを終える頃には、とうとう。 「どうか、私の画を取り戻して下さい。私、何としてでも画を描かなければならないのです。お願いします、どうか……どうか、お願いします……」 切迫していく言葉。その激情。 彼女が、懇願するように心の底から吐き出した言葉が蘇る。 「どうか、……お願いします、」 そんな彼女の姿を思い出しながら、僕はこのオレンジ色に染め上がった部屋で、頬づえをついた。 (彼女にいったい、何があったのでしょうか……) 話の概要は把握している。これが僕の仕事なのだから、ちゃんと夢の話(・・・)も聞いている。 ただ、何が原因の根元にあるのか。依頼者本人である彼女ですら、わかってはいない。 愛用の腕時計を見る。 すると今まで息をひそめていた秒針が、刻、刻、刻……と、耳へと滑り込んでくる。 そして僕は今一度、目の前に横たわっている一人の女性の横顔に視線を戻した。 眠る顔。そしてそれを染める夕暮れの陽の光。泡立つようにほんのりと色づいている、肌の細胞一つ一つ。 その細胞の集合体である女性が、こうして暗く、もやもやな悩みを抱えながら、今。僕の目の前で生き、そして眠る。 「夢です、夢のせいなのです。助けてください、矢島先生」 切れ長の目の下には、くま。青ざめた額に、寄せられる眉根。その色の悪い表情で、彼女はそう言い切った。 僕は数日前に、僕の事務所にやってきて、そう懇願する彼女の顔を思い出すと、途端に肩の荷が重くなり、陰鬱な気持ちになった。 そんな気持ちを少しでも紛らわせようと、今は眠っている彼女の横顔から目を離し、ゆっくりと辺りを見渡してみる。 あるアパートの一室。 机の上には絵の具や筆が散らばり、彼女が描いたのであろう画が部屋の一角に寄せられて、窮屈そうに壁にびっしりと立て掛けられている。 風景画、人物画、静物画。その種類も多種多様だ。 けれど、ふと。 狭そうに肩を寄せ合っている画の塊とは別に、ひとつだけイーゼルに掛けられているカンバスに目が留まった。 白い布が被せられた、描きかけであろうその画は、部屋の隅にひっそりと置かれている。 「あの画を、完成させなければいけないのです。私、どうしても描き上げなければ、」 この白い布に覆われた画が、その描きかけだという作品なのだろうか。 彼女が溢れ出す激情とともに解き放つ言葉の数々と、そんな彼女の必死な顔を思い出すだけで、僕はこの依頼から逃げたい気持ちになるのだ。 ここへ来ても、まだ。不可解な依頼に、僕は戸惑っている。 再度、腕時計を見る。ふうっと息を吐くと、意識を集中する。 それから、眠りはそう深くないだろう依頼者を起こさないようにそっと、彼女の手の甲に自分の手を重ねる。 手に触れることは、事前に交わした契約書で了承済みだ。 ゆっくりと、深く深く、目を閉じていく。 陽の光によって、まぶたの裏側までオレンジに染まる。 それは夕暮れになると誰もが感じる虚しさの象徴の色だけれど今日は。 彼女の冷え切った心と身体とを包み込む、優しく暖かい焔のように、僕には思えた。 ✳︎✳︎✳︎ 『眠り屋(ねむりや) どのような夢でもご相談ください 矢島』 僕が構える事務所、おんぼろビルの二階に掲げた看板。 このような職業を生業としていても、僕自身、今までに一度も「夢」というものを見たことがない。 というより、あまりに深く深く眠り込んでしまうようで、「夢」を見ていたのかどうか、それすらも知り得ないのだ。 ただ。 夢を見ない代わりに、他人の夢へと入り込むことが出来ることに気がついたのは、僕がまだ大学生の時だった。 確かに一般科目であった心理学の授業で、フロイトの夢判断というものを、かじった覚えはある。が、実際に夢など見ないのだから、『夢』の持つ意味など勉強しても、なんの知にも徳にもならない。 ……と、ある時まではそう思っていた。 「そうそう文学。文学ならまだわかります。僕だって、本はたくさん読みますからね。けれど、問題は宗教学と心理学です。あんなふわっとして掴みどころのないもの、僕には一生理解できないと思いますよ」 僕が大学時代、周りに吹聴していた言葉だ。 けれど、ある日。 かっ、と雷が落ちたのだ。まさしくそれが、転機というものだった。
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