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怪訝な目で、僕の握った手を見つめている。
僕は笑顔を向けただけで、声は発することなく、瑠璃を眠りへと誘っていった。
僕の、一本ずつ開かれていく指。
最後の指がひらかれて、中から赤い花びらがひらひらと落ちていくのを目で追ったのを最後に、瑠璃は机に置いていた腕の上に頭を預けて深い眠りへと入っていった。
僕はここへ来る途中、美しい庭先でひっそりと咲いていたアネモネの花を見つけると、詫びを言ってから花びらを一枚分けて貰った。
花言葉は、儚い恋。
そして、赤いアネモネのそれは、
———君を愛す
夢を見る者と夢に巣食う者との、交差しない愛。
自分が創り上げる偽物の世界でしか愛しい者に触れることが叶わない、夢魔の哀しい宿命。
まして、瑠璃が自ら命を絶ってしまっては、その夢も『無』へと消え去ってしまい、もう二度と、二度と触れられなくなる。
僕は瑠璃の痛々しい過去と、今にも千切れそうな夢魔の想いに、胸が締めつけられ苦しかった。
あの砕け散ったガラスを虹色の蝶にして空高くに放ったのは、瑠璃の心を一瞬でも奪いたいという欲望の表れなのだろうか。
『このまま、夫の画を描くことを、忘れていってくれればと、願っている』
僕はテーブルの上にぽつんと落ちている、このアネモネの美しい花びらが、一陣の風にでも運ばれてゆき、黒豹の元に届いたならと願った。
✳︎✳︎✳︎
机に顔を横たえて、長い時間眠っていた瑠璃の目に光るものがあり、僕はそれがこぼれて机の上へと落ちるさまをじっと見つめていた。
その透明な美しさは、水晶の欠片のようであり、また葉に溜まった朝露のようでもあった。
小ぶりで形の良い鼻を伝って、何度も落ちては机を濡らしていく。
僕が机に落ちた水滴に手を伸ばそうとした時、突然瑠璃の目が開かれた。
それはまるで、一輪の花が咲き誇る季節を間違えて開花してしまったというような、驚きの中での目覚めだった。
「わ、わたし……」
丸く見開かれた瞳が僕をゆっくりと捉える。
ガタンッ。
瑠璃は椅子を鳴らして、そのまま勢いよく立ち上がった。
部屋の片隅に置いたイーゼルに乗せてあるカンバスに歩み寄り、そして。
かぶせてあった白い布を掴んで、勢いよく、ばっと取り去った。
そこには、僕が想像していた顔に近くもあり、遠くもある一人の男の顔が、実に丁寧に描かれていた。
そして胸が痛む。これほどの愛情に。
夫へのできる限りの想いを、織り込んでいくように、丁寧に、丁寧に、そして大切にと。
瑠璃は床に擦るほどの白い布を手にぶら下げたまま、カンバスをじっと見つめていた。
瑠璃の、その瞳。
最初は驚きの瞳であった。
しかしそれはすぐに、深い穴をさらに深く掘り下げるような、鋭く厳しい視線に変わっていった。
しばらくして、一つの大きなため息をつくと、瑠璃は僕の方に振り返り、頭を下げた。
「……矢島先生、すみません。私、いつのまにか眠ってしまったようで。申し訳ありませんでした」
そしてまた姿勢を戻すと、カンバスに白い布を掛け始めた。
斜め後ろから見る、ほっとしたというような、安堵の表情。
「いえ、構いませんよ。とても美味しいコーヒーをいただいていました。これは、キリマンジャロですか? それともブルーマウンテン、かな……」
瑠璃はふふと笑うと、コーヒーの味に本当は詳しくない僕に、失礼に当たらないようにと、軽い口調で言った。
「いえ、これはモカという豆です」
ああ、そうですか、と頭をかいて世間話に失敗し苦笑いをしている僕に、彼女は向き直って訊いた。
「私、先ほど夢を見ていました。矢島先生がなさったのですか?」
「何のことでしょう」
思ったより強い口調で僕が返したためか、瑠璃は言葉を改めた。
「あ、いえ、あの……し、死んだ主人が夢に出てきたのです。そんなことは、初めてでしたので、それで……」
「ご主人を亡くされていたのですか、……すみません、気が回らずに。ご事情を知りませんでしたので」
「そうでした、話しておりませんでしたね。半年前に、事故で亡くしました。主人は私の見る夢には一度も出てきてくれなかったものですから、お話ししなくてもいいと思いまして」
言葉の端々から、夢でもいいから夫に会いたいという気持ちが痛いほど伝わってくる言い回し。
夢魔も彼女に寄り添いながら、この痛みに耐えていたのだろうか。
「お悔やみ申し上げます。それで、ご主人とは話せましたか?」
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