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少しの時間を置いて、瑠璃の目から、先ほどの名残りでもあろう涙が、零れて落ちていった。
「主人が……」
困ったように眉を下げる。そんな表情を浮かべてから、瑠璃はひと息をついた。
「……主人が、『僕の顔はこんな風だったか?』と、苦笑いをしていました」
「苦笑い……」
「矢島先生、あの蝶です。主人を囲むようにして、あの虹色の蝶が舞っていました。すごく綺麗でした。すごく綺麗で、私……」
言葉が呑み込まれる。
けれど、すぐにも瑠璃は僕を真っ直ぐに見据えた。力が宿った視線で。
「矢島先生、私亡くなった主人の顔を描いてみたのです。先ほどの画がそれです。先生もご存知でしょうが、夢に画を奪われてからは、まるで描けなくなり困惑しました。けれど、先生のお力をお借りして、昨日何とか描き上げて。そう、完成したのです」
僕が頷くのを見て、少しほっとしたような表情を見せる。
「出来上がった時には、主人が生き返ったように上手く描くことができた、と喜んでいました。でも、先ほど夢の中の主人に『僕の顔はこんな風だったか?』と問われ、もう一度画を見てみると……主人の顔が違っているように思えてきて、」
「人間の記憶には曖昧な部分が存在します。そういった曖昧な部分がないと、自分で自分を生かしにくくなるのでしょうね。けれど愛情というものは、曖昧のようにみえて、実際はそうではありません。あなたがご主人を想うのと同じくらいに、ご主人もあなたを想っているのでしょう……」
僕は、にこりと笑ってから続けた。
「夢とは、人の想いの結晶ですから」
「人の想いの結晶……」
瑠璃は流れゆくのをそのままにしていた涙を、服の肩口の部分でぐいっと拭った。
その行為に、横着してすみませんという照れたような笑いをすると、僕の前に手を差し出した。
「矢島先生、私、主人の顔をもっとちゃんと思い出すことにします。あの人、少し怒ったような顔もしていましたから。僕はもっとイケメンだぞって言いたくて、夢に出てきたのかも知れません」
ふふふっ、悪戯っ子のように笑う。
「それから、あの虹色の蝶も。私が見たあの幻想的な世界も、描いてみたいのです。出来上がったら、見に来てくださいますか?」
「もちろんです、楽しみに待っています」
僕は差し出された手を軽く握ると、机の上に乗せてあった帽子を被り、玄関へと向かって歩き出した。
この哀しき未亡人を、あの夢魔が救った。
亡き夫の顔を借り、瑠璃に自死を思い直させたのは、紛れもないあの黒豹だ。
そして美しい虹色の蝶を放ち、氷のように頑なであった彼女の心を解かして暖めた。
精一杯の愛情で。
そしてその愛情は、瑠璃と、そして瑠璃の亡き夫のそれらが、本来あるはずのない世界で交わり昇華する。
僕は玄関を出ると、すでに薄暗くなった道すがら、上着のポケットに入れてあったアネモネの花びらを取り出した。
そして、心に染み込んでくるような深く濃い赤色が、簡単に掻き消されてしまうような宵闇へと、風に乗せてそっと飛ばした。
✳︎✳︎✳︎
季節が夕陽を暖かく感じさせたあの頃とは真逆になり、少し肌寒く周りで軽い風邪が流行り出した頃、僕の元に一通の招待状が届いた。
事務所宛。それは飾りも何も無いシンプルなもので、ここからさほど遠くない画廊の住所と、差出人の名前のみが書かれていた。
僕は馴染みのベーカリーショップで、決まった曜日に予約を入れてある絶品バゲットを一本受け取ると、その足を画廊へと向けた。
透明なガラスと擦りガラスが複雑な模様を作り上げているレトロなドアの前に立つ。バゲットを持つ手を替えてからそっとドアを開けた。
中には誰も居ないようだ。
係りの者も直ぐに戻るつもりであろうか、マグカップからは湯気がくゆり、コーヒーのほのかな香りがする。
手近にあった何かのリモコンで押さえつけられた、読みかけの本。
何もかもがそのままにしてある風景だ。
僕はさらに、画廊の奥へと入っていった。
「素晴らしい作品ばかりですね」
感嘆の吐息。色彩を解き放ってそこにある、数々の絵画。物言わぬ彫刻たち。
漂うように、薄っすらと流れるショパンの『雨だれ』。
時が止まったこの部屋で、僕は一枚の画の前に辿り着く。
それは僕が瑠璃を通して見た、あの虹色の蝶の群れ。カンバスを埋め尽くさんとして、たくさんの愛しき蝶が舞い踊っている。
羽ばたきは七色。
それは混じり合わず、それでいて色と色とが側に寄り添っているような、そんな不思議な技法で描かれていた。
けれど所々に。
色と色とが混ざり滲んでいる部分を見つけると、瑠璃と瑠璃が知るはずもない夢魔の愛情が、盲目的に触れ合っているのだろうかと思われて、少し嬉しく、そして哀しく思った。
僕はその画からそっと離れた。
係りの者であろうか、扉の透明な部分のガラスの向こうに、袋を下げて小走りで向かってくる男が見えた。
僕はポケットから招待状を出し、留守の店に無遠慮に入ったことを詫びるつもりで、ドアに近づいていく。
そして、見つけた。
もう一枚の画。
扉の横に、ひっそりと掛けられている画を。
そこには瑠璃と僕とが共有したあの虹色の蝶。
その中に。
一頭の黒豹が、こちらをじっと見つめる姿があった。
憂いを含むエメラルドグリーンの瞳。
そしてそのビロードの背中に愛らしい手を伸ばし、黒豹と同じような面持ちで、こちらをじっと見つめる少女の姿も。
胸が熱くなった。
僕はその少女が、瑠璃自身であることを願いながら、ゆっくりと扉に手を掛けた。
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