手紙 −紫苑

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母はぼけっとつっ立っている僕の手から紙袋をひったくると、「遠矢。あんた、ちゃんとご挨拶しなさい。これ重いですけど、大丈夫ですか。こんなお古を使っていただけるなんて、本当にありがたいです。おばあちゃんも喜びます」 ひじで僕の腕をどんと突いてから、先生へと手渡す。 挨拶ってったて、どーしたらいいんだよ。 混乱しながらも、僕は頭を下げた。 そこでようやく、顔を見た。 顎のラインで切り揃えられた、黒髪の艶やかさ。 ほっそりとした頬。細く弱々しい眉に黒々とした長い睫毛。 一重と二重の中間。楕円の形の黒い瞳。薄っすらと色づいた、薄紅色の唇。 日本人形みたいだ。さすが、茶道の先生。頭の中はぐるぐる。挨拶ったってな。なに言やあいいんだっての。 僕は真剣になって考えた。 なにを言えば近づけるのだろうか、この美しい人に、と。なんと言って声を掛ければ、僕を。これからずっと、僕だけを。見てくれるようになるのだろうか、と。 誰か、教えてくれと、僕は耐えていた。 僕の心臓の部分に、実際は存在しない器のような部分に、どんどんと何かが溜まっていって、それが今にも溢れてしまってそのまま身体ごと溶けてしまうのではないかという感覚に、僕は耐えていた。 「ちょっと、遠矢」 どん、と小突かれた二度目の痛みを、腕に感じる。 しかし、僕がもじもじとまだ言い淀んでいると、その美しい人は線の細い低くも高くもない透明な声で、話し始めた。 「櫻井さんのお坊ちゃんのお話は、よくお聞きしておりました。とてもお優しいお孫さんだという風に、」 言葉が途切れる。 彼女はほっと小さく息を吐く。ばあちゃんのことをしみじみと思い出している、という風に。 ああ、その口から出た息を吸い込んで、僕の身体の中心に封じ込めたいという衝動。 「とてもお優しい方だと、聞いておりました。一緒に出かけるときには、おばあちゃん、そこは危ないよって、こんな皺々の手をつないでくれるのよと。とても嬉しそうに」 だめだ、溢れてしまいそうなくらいに湧き上がる感情。 「どんな方なのかとお会いしたいと思っておりました」 会いたかったと言われて、どんっと跳ね上がる。 僕の意識とは無関係の場所で、それが脈を打つ。 目の前で、母と彼女が寂しげな表情で何かを話している。 すでに視覚も聴覚も奪われている僕には、得体の知れない感情に抗う術はない。 ついに。 僕の心臓の辺りにある器が溢れて一杯になり、溢れ、零れ、そしてそれと同時に僕は言った。 「先生、僕も教室に通います」 ああ。それからは、なにもかもが美しかった。 教室を辞した後の帰り道。 僕の突然の行動を訝しむ母の顔。 枯れて葉を散らしてしまった古木の姿。 出し忘れたのであろうポツンと寂しく置かれているゴミの袋。 その世界の全てが美しかった。 全てが素晴らしかった。 僕が踏む、枯れ葉が散り散りに壊される音でさえ、心から美しいと思った。 ✳︎✳︎✳︎ 先生、あなたの顔を初めて見た時、僕は一目惚れってあるんだなあって単純に思った。 ああ、好きだなあって。 先生は僕の好みの顔だったんだね、多分。 いや、でもさ、一目惚れの瞬間って、本当に不思議なんだね。 最初は、先生の手に惹かれたんだ。 そして僕の中に、先生はするりと入ってきた。 そんな感じだったような気がする。 母さんと話している時に、つい先生に話しかけてしまったのはそういう理由だったんだ。 先生という存在にやられちゃったんだよ。 もう先生しかいらないって、先生だけが欲しいって、思ったんだ。 で、どうしたらいいのかってなって考えて、あの言葉が出た。 僕が先生の教室に入ると言った時、母さんは僕に、なにバカなこと言ってんのってうろたえたように言った。 だから多分もうその時に、僕が先生のことを好きになってしまったことに気付いていたんだと思う。 だから、あんなにも教室に行くのを反対したんだ。 おっと、母さんの話なんか、まあいっか。 とにかく、誰に何をどう思われようがそんなことは僕にはどうでもよくて、もう先生に逢う理由はこれしかないって思ったし、それしか思いつかなかったから。 そういえば先生もなんだか少し驚いた顔をしていたね。 先生のあの顔、可愛かったな。 先生が首をかしげるたびに黒髪が揺れて。 僕は必死になって、あなたに近づくことだけを考えた。 その髪に、白い指先に、どうやったら近づけるんだろうって、そればかり。 あの日から、あなたに逢ったあの日から。 今もずっと、考えているよ。
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