手紙 −紫苑

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どれだけ母が行くなと言い続けても、僕は毎日のように先生の教室へと通った。 誰に反対されようが、僕には先生が必要だった。 僕には父親がいないけれど、例え父親がいて、だめだ行くなと殴られたとしても、腫れた頬であっても構わずに、僕は先生の教室へ行ったに違いない。 この頃、僕が、ひどく歳の離れた先生に夢中なっていることは、誰の目にも一目瞭然だった。 両想いになって結婚できたとしても、先生のあの歳じゃ、もう子どもを授かることはできないし、孫のお世話をすることが夢だったんだから、と母から何度も同じことを言われ続けて、僕はうんざりしていた。 そんなことを言われて、先生はそんなに歳だったのかと改めて思ったこともあった。けれど僕は、結婚とか子どもとかをどうこう考えるより、先生と一緒にいたい、ただただそれだけだったのだ。 僕を懐柔しようとしていた母は、何を言っても効き目がない僕に腹を立て、手がつけられないほどに激昂するようになっていった。 そしてついには、先生を汚い言葉で罵倒し始めたのだ。 自分の立場も歳もわきまえずに、未成年を誘惑しただの、何だの。 「あなた、これがどういうことなのか、わかっているんですか? まだ子どもの遠矢をいい風にたらしこんで、いったいどうするおつもりですか? 遠矢はまだ未成年ですよ。そんな未成年をたぶらかして、これはもう犯罪としか言いようがないでしょう。いったい、どう責任を取ってくださるんですかっ‼︎」 そうやって今度は、先生の自宅にまで行って、騒ぎ立てた。味方につけた親戚を連れだって、だ。 永遠に続くかと思うほど、繰り返される先生への罵詈雑言。 その悪口のひとつたりとも、先生には当てはまらないというのに。 僕は先生への罵りの言葉をひとつも耳には入れないようにと、振り切るようにして背後でドアを乱暴に閉め、毎回、家を飛び出るように、先生の教室へと向かった。 「遠矢っ、待ちなさいっ、待ちなさいぃぃ」 道に靴下のまま飛び出した母の金切り声が、肌に刺さる木枯らしの風の中、いつまでも響いていた。 ✳︎✳︎✳︎ 先生の点前。 正面から見る。 それは完璧なまでに洗練されたもの。 一つとして無駄な所作はない。 指先が。 流れるように、次の動きへ。 教室の、生徒の誰もの、そして僕の目をも釘付けにする。 その度に、揺れる黒髪。無表情、沈黙の淡い唇、茶筅を持つ手。 僕が愛した白い指。手の甲から伸びる、細くて弱々しい指。その指先には、切り揃えられた、薄桃色の爪。 綺麗だな。 すごく、綺麗だ。 一度だけ、勇気を出して、先生の点前は綺麗ですねと言葉にしてみたことがある。 けれどその時。 先生は何も答えてくれなかった。 ゆらゆらと揺れる、困ったような笑みを、浮かべただけだった。 冗談だと取られただろうか。僕の本心なのに。 その時、僕は考えた。 先生にとって、これは迷惑な恋なのだろうかと。 母に浴びせられる、貶めの言葉。 そして、好きだとも、ごめんなさいとも言えない、僕の情けない存在自体でさえも、もしかしたら迷惑なのかもしれない。 迷惑かもしれないと。 胸が痛むほど、考えた。 胸が痛むほどに、考え続けた。 ✳︎✳︎✳︎ ねえ、先生。 先生の名前、なんていうんだろうな。 今まで生きてきた中で、って言っても、まだ高校生だけど。これほど知らないことで後悔したこと、一度もないくらいだ。 名前、聞いときゃ良かったって。 きっと名前もきれいなんだろうな、そうなんだろうな。 僕はすぐに櫻井さんの坊ちゃんと呼ばれるのが苦痛になって、僕のことを名前で呼んで欲しくて、僕の名前を教えたよね。 先生はすぐには呼んでくれなかった。 でも、そのうちに呼んでもらえるようになって。 先生が僕の名を呼ぶ度に、腹の底から何かがこみ上げてきてさ、何か存在感っつうか分かんないけど、とにかく腹の中があったかいような、くすぐったいような気持ちになってさ。 それがすっげ、愛しいっていうか。 僕は茶道に関してはあんま興味なかったから、こう言うと先生は怒るかもしれないけど、全然いい生徒じゃなかったよね。 先生に近づきたくて、本屋で初心者向けの本も買ってみたけど、よく分かんなくて興味も持てなくて。 先生が好きなもの、僕も好きになりたくて、最初は必死だったけど。 でも結局挫折したんだ。 意外と難しいんだよ、茶道って。 あ、笑わないでよ。 茶道が、奥が深いんだってことぐらいはわかるんだから。 そのことについては、先生とたまに話したよね。 先生は無理して好きにならなくても良いというようなこと言って、僕に少しだけ笑いかけたんだよ。
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