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この世界は僕の夢。
夢の中に存在する。
これが夢だとすんなり理解したのは、「眠り屋」の矢島さんによって、事前に説明を受けていたからだ。
「先生からの手紙をあなたの夢の中に置いておきますから、読んで返事を書いてください」
さすがに最初は面食らったけれど、先生が依頼主だと聞いていたので、目の前の丸眼鏡を掛けてどこか飄々とした男を、僕はすぐに信用して話を聞いた。
「彼女からの手紙ももちろん、彼女の夢からいただいてきたものになります。だから実際には、実物の手紙というものは、この世には存在しません。夢の中での幻の手紙の交換、ということになります。どうしてそのような不可思議なことを、と思われるでしょう。しかし、これが彼女の望みです。ご理解いただけますか?」
僕は深く考えることもなく、すぐに返答した。
「はい、分かりました。大丈夫です」
そんな少ないやり取りをした後、矢島さんは自分の軽く握られている右手を見るようにと言って微笑んだ。
先生は、その時にはもう酷く病状が悪化したために、病院への入院を余儀なくされていた。
けれど。
僕には教えてもらえなかった。入院先も、そして先生の病状も。
そんな先生からの僕への手紙。
何が書いてあるのだろうか。
別れの手紙とは思いたくない。けれど、僕のことを好きだとか、そんな好意の手紙でもないだろう。別れの手紙だろうという思いの方がしっくりきて、胸が千切れるほどに痛んだ。
そう、僕の中は、両極で葛藤している。
そうだ。
後で先生の居場所を聞かなければ。お見舞いに花を持って行こう、先生はどんな花が好きだろうか。
好きな果物やお菓子はなんだろう。この両手に花やお菓子をいっぱいいっぱい、小遣いでたくさん買って、持っていこう。
別れの手紙であったとしても、それでも僕は、先生に逢いたいから。
そう考えがよぎった瞬間、矢島さんの右手から薄紫色の花びらが数枚ちらちらと落ちていくのを見た。
瞼が重くなる。
これが眠りへの入り口だと、知らされた時にはもう、夢の中だった。
そして。
僕はソファに深く座り込んで、先生からもらった初めての手紙を前にしている。
少し震える指で、そっと手紙を取り、そして、四つ折りになっていた紙を開いていく。
思ったより、丸みのある可愛い字。
一字一句、噛みしめるようにして。
一字一句、間違えることなく、記憶していく。
涙が、どっと溢れ出た。
ああ、先生が僕を連れていってくれる、僕をそばに置いてくれる。
そう思うだけで嬉しくて嬉しくて。
先生を失ってしまうかもと知らされてから、涙も底を尽きるのではないかと思うくらい泣いて泣いて泣きまくったから、涙はもう空っぽのはずなのに、不思議なことにまた涙が溢れて、零れ落ちていく。
先生が僕を好きだと言ってくれた。
先生が僕を愛してると言ってくれた。
けれど、僕は言えなかった。
伝えられなかった。
先生が余命を宣告された、あの日。
先生は激しく僕の存在を拒絶した。
もう来ないでと、もう自分の前に現れないでと、狂ってしまったかのように何度も何度も、僕をはねつけた。
あの時、僕は必死で先生の手を握って、また来るからと繰り返し言っては、その嵐のような先生の慟哭に、耐えた。
けれど、そんな僕の精一杯の言葉も、ぐちゃっと丸めて捨ててしまうような、あんなにも激しい拒絶だったのに。
それでも何度でも。明日も来るから、明日も来るからと続けた僕のしつこさに、嫌われてさえいるのだと思っていたから。
だから余計に言えなかった。
病気の先生の負担になるのも、嫌われるのも怖かった。
一瞬ふわりと身体が軽くなる。
僕は、先生からの僕あての手紙が置いてあったテーブルに目を移した。
封筒を取り上げた時は丸い形のテーブルだったような気がしたが、今は縁取りに小さなタイルが飾り付けられた楕円のテーブルに代わっていた。
いつの間に、と小さく疑問に思う。
すると目の端の方を一瞬、黒い影が横切っていった。
何だろうか、今の動物のような。
テーブルの上には、ほんのりと花のような香りを漂わせた便箋と封筒が置いてある。
薄いピンクのような、いやよく見ると薄紫色のようだ。
すぐ横には一本のペンが置いてある。
僕は手にとって、ペンのフタを外した。テーブルのそばにある小ぶりなイスに座る。
便箋を引き寄せて、さて書こうとした時。
僕はペン先を便箋につけたまま、少しだけうろたえてしまった。
一瞬、何を書いていいのか、いや何を書くべきだったのか、全く分からなくなってしまっていたのだ。
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