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僕はその日、かねてから夢によって悩まされていたある友人を救った。
友人がおおいに悩まされていた夢の話をすると、それは夢の中でも定番。よくある『追いかけられる夢』というやつだ。
誰しもが一生に一度は見るだろう、その夢。
友人は、般若の面を着けた着物の女に追いかけ回され、悩み、そして疲弊していた。
僕はそんな彼の夢の中に潜り込み、幸運にも原因を突き止めることができたのだ。
その原因は実にしょーもないものだった。
「安藤くん、君が付き合ってる恋人の妊娠についてだけど、君のお母さんに正直に伝えることで、この件は解決すると思う」
彼はショボショボとしていた寝不足の目を、カッと見開き、震えながらこう言った。
「……そんなことしてみろ。絶対にママに殺されるぞ……」
けれど、まあそんな事実をいつまでも隠してはおれず、彼はとうとう彼女と学生結婚することを決めたのだ。彼を夢の中で追いかけていたのは、彼がその恐怖心から創り上げた「般若」=「お母さん」だった、という理由。
「矢島くん、これで安心して眠れるよ。……ありがとうな」
ママにこっぴどく怒られたという彼に、弱々しくとも礼を言われた時は、こんな社会貢献もありなのかも、と思ってしまった。
思ってしまったのだ。
そうして僕は、『眠り屋』なるものを開業した。
それは依頼者の夢へと入り込み、その原因を探るという、いわゆる『夢』に関する探偵のようなものだ。
依頼を受け『夢』に入る時には、下見を欠かさないようにしている。その際、留意しなければならない注意点がある。それは『夢を見ている本人やその他の登場人物とは、なるべく接触しない』、ということだ。
慎重に慎重を重ねて原因を探る。
ただ、時と場合によっては、本人や登場人物との接触も必要になることがある。そういった面からしても、ある意味これは強引な解決方法と言えるのかも知れない。
その点は、依頼者に対し、事前にインフォームド・コンセントを行うようにしている。
もちろん、眠る依頼者の手に触れるということも、了承してもらわなければならない。セクハラで訴えられたらと思うと、身震いがするほどの恐怖だ。女性のヒステリーほど恐いものはない。
けれど、納得してもらわねばならない諸々の約束事の中で、これが一番厄介だったりするのだ。
さも嫌そうな顔で依頼者に、「手を触る? すみませんがそれはお断りします」と速攻で言われると、丸眼鏡をちょっと指で上げてから、「ですよねー」と苦笑いで返すしかないからだ。
✳︎✳︎✳︎
小雨が続いて、家に足止めを余儀なくされていた、ここ一週間。
彼女は女性の持ち物とはとうてい思えない真っ黒なこうもり傘をさし、僕の事務所を訪ねてきた。
ピンポン。チャイムに背中を押されるようにしながら、玄関のドアを開ける。
そこには色のない、真っ白な顔があり、僕はぎょっとして驚いてしまった。
彼女は瑠璃と名乗った。
僕は普段通りの白いワイシャツにこげ茶のベストという格好で、彼女を部屋に招き入れた。
このスタイルは仕事の時の、僕のユニフォームにも等しい。そう声を大にして言いたいが、実はこれが僕の一張羅、唯一僕の容姿に違和感なくマッチする洋服でもある。
瑠璃に椅子を勧める。
すると彼女は、桜の花びらを連想させるような淡いピンクのワンピースを少しだけ持ち上げ、まるで音もなく座った。
息をする、生命を維持しようとする、そのなんらの音さえ聞こえてこない、静けさとともに。
絹糸のような黒髪が一本一本、さらさらとその華奢な肩から滑り落ちていく。
席に着くと、思いあまったように彼女は言った。
「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」と。
僕はまず、温かい紅茶を淹れた。
熱くてかなわない紅茶を、口を尖らせたまま、お互いに一口ずつ、ずずずずっと啜る。
そして、僕が愛用の手帳を取り出し、そこにペン先をひたりと押しつけると、瑠璃は堰を切ったように話し始めた。
「私、毎晩のように同じ夢を見るのです。それはとても不思議な夢で……」
温かい紅茶によって、頬はほんのりと色づいてはいたけれど、その瞳はまるで深淵を覗き込んでいるかのように暗く、暗く、ひやりと冷たかった。
「…………」
ふいに言葉を失った瑠璃は、顔を上げ懇願するようにして僕を見た。
いつのまにか、その目には涙が溜まっていた。その涙が、夜空を滑るほうき星のように、いくつもいくつも頬を滑っていく。
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