夢を彷徨って −アネモネ

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僕はティッシュを取り上げると、箱ごと彼女の前に差し出した。箱ごとだなんて、男として失格のような気もしたが、出してしまったものを引っ込めるわけにもいかない。 「その夢に、あなたの画を奪われたというのですか?」 「おかしな話ではありますが、私にはそう思えてなりません」 ティッシュを一枚引き抜き、それを目元に当てる。 「私、美大を卒業してからは趣味と仕事と半々ではありますが、ずっと画を描いてきました。下手の横好きというもので、人に話すのは恥ずかしいのですが、子どもの頃から画を描くのが好きで、今までかなりの時間をそれに費やしてきました。白いカンバスを前にすると、いつも自分がどんな画を描きたいのかが自然と湧いてきて……ですが、」 「それが、描けなくなった、ということですね」 「はい」 瑠璃の表情が、雨が降り出す前の空模様のように、みるみる薄暗く曇っていった。 美しく程よい額にも翳りが差し、眉根に深い溝を作った。そして突然、その長く黒々とした睫毛が、きつくきつく伏せられたのだ。 小刻みに震え出す声。 「どうか、私の画を取り戻して下さい。私、何としてでもあの画を描かなければならないのです。お願いします、どうか……どうか、お願いしま、す……」 (あの画、……) 激しさを増しながらもそれを必死におさえて絞り出す声。 そんな弱々しい声も、次第に小さくなり、ついには消えていった。 僕は次に訪れた沈黙には答えず、不躾であったであろうが構わずに、じっと彼女を見つめ続けた。 言葉の端々からぴりぴりと感じ取れるほどの、瑠璃の内に秘めた激しさ。 しかし、そんな危うい姿に、僕も確信する。 やはり、『夢』が全ての元凶であることを。 そう、僕はその時点で、彼女の『夢』を疑っていた。 瑠璃がすでにぬるくなっているであろうアッサムティーに口をつける。 僕は少し顎を打ち、先を促した。 「それは、どんな夢なのでしょうか」 「それが不思議な夢なのです。画が描けなくなった原因でもあるのに、全然嫌な感覚はありません。そう、夢から覚めると不思議なくらい心が軽くなっているというか……」 「……はい」 「満たされているのです」 瑠璃がほうっと、小さく息を吐く。 夢の内容を思い出しているのだろうから、この穏やかな表情は瑠璃の『夢』が引き出しているのだろう。 僕は話の内容に付け加えて、彼女のそういった印象を手帳に記していった。 「私はそこがどこなのか、見覚えのない部屋に居ます。最初は決まって部屋の真ん中にある青いソファに座っています。部屋には家具はそのソファ一つしか置いてなく、窓が一つあるだけで、扉がありません。その部屋は殺風景であるはずなのに、なぜか暖かいのです。柔らかい光の中にいるような、そんな感じです」 僕は彼女が夢の内容を思い出しながらすらすらと話を進めているのを、途中で邪魔して中断させたくなかったので、メモに押しつけていたペン先を見つめながら、そのまま続きを待った。 「私は立ち上がり、窓に近づいていきます。その時は窓の外を見たい、と思っているようです。カーテンが閉めてあるので、それを両手で開け、ガラス窓を開けようと両手で前へと押しました。あの、分かりますでしょうか、こう真ん中から割れて、手で押して開ける形の……」 瑠璃が水泳の平泳ぎのように、すいと両手を前に出してそのまま広げる。 「はい、分かりますよ。両面の外開き窓ですね」 「そうです、それです。私はその窓を開けようと、こう両手で押した瞬間、見る見るうちにガラスに細かいヒビが入っていくのです。そして、スローモーションのようにゆっくりではありますが、窓ガラスは割れて、飛び散ってしまうのです」 瑠璃の顔が少しばかりの興奮で紅潮する。 「危ない、と思うのですが、とっさに身体を避けたり手で遮ったりする間もなく。けれど散ったガラスが……」 「……ガラス、が?」 「あの、散ったガラスがたくさんの蝶になって……。羽を虹色に光らせながら、そこかしこへと散らばっていくのです。そしてしばらくすると、虹色の蝶は、澄んだ青空へと一斉に羽ばたいていくのです」 瑠璃の表情から、それがどんなに美しい光景かは容易に想像がついた。 瑠璃しか見ることのできないこの光景に、彼女自身囚われている、そんな印象もあった。 「美しいのです。心が洗われるような、美しさなんです。ご理解いただけるでしょうか」 すると、瑠璃はあっと声を上げて、小さく飛び上がった。 「私の夢の中に入られるんですから、矢島先生も見ることができますね」 ここへきて、初めての笑顔。 蕾が急にその花を開花させたような。 そんな瑠璃のはにかんだ笑顔に、僕も笑顔で返す。 「よしてください、先生だなんて……でもまあ、そうですね、楽しみです」
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