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瑠璃の髪にその羽を絡ませながら、ばたつく蝶。
その度に瑠璃の黒髪は、風に解き放たれた蜘蛛の糸のような儚さで、その身を散らしていた。
美しい、美しい。なんという美しさだ。
さらに言葉を失う。そして虹色の色をまとっているはずの蝶の群れは、青く澄んだ空の色に邪魔されることなく、徐々に舞い上がってその色を浮かび上がらせていった。
まるで緻密なステンドグラスが、早送りのスピードで、どんどんと創り上げられていくように。
僕はいつの間にか目の前の光景に見入ってしまっていた。完全に自分の役割を忘れ去ってしまっていた。
だからであろう、目の前から音もなく飛び込んできた黒い影に気づけずに大仰に驚いてしまったのは。
「わっっ」
その黒い影を避けようと、僕はしりもちをついてしまうほどに、後ろに飛びのいてしまっていた。
頭からすっぽりと被っていたカーテンを押し退けて、瑠璃を視線だけで探す。
すると瑠璃はソファに横たわり、目を伏せていた。
気を失っているようにも、眠っているようにも見える。
そうだ、これは瑠璃じゃない。人形だ。
そして、そんな偽物の瑠璃を守るようにして、一頭の黒豹が。側に寄り添い、そして僕を凝視していた。
『……お前は何だ。何者だ』
低い唸り声とともに、問い掛けてくる。
しかし、返事を待たずして、僕の方へと身を翻してきた。あっという間に音もなく近づき、飛びついてきた。
「わ、ちょ、ちょっと待ってください!」
僕は腕を前に出して、顔の前で盾を作った。
しかし、飛びつかれた拍子に上半身は倒され、そのまま後ろへと転がる。床で頭をごつんと打ってしまった。
夢とはいえ、しかもこれは他人の夢だから、僕の五感は現実と同じだ。痛みで涙がじわりとにじみ出る。
けれど構わず、黒豹が襲ってくる。黒豹の鈍く光る鋭い牙が、僕の眼前で威嚇してくる。
僕は『降参‼︎』、というように、両の手の平をかかげて振った。
「る、瑠璃さんを助けに来ました‼︎」
その言葉が耳に届いたのか、黒豹は少しの間を置いて、僕の上からのいてくれた。
そしてその場で行ったり来たりを繰り返すと、のろのろと瑠璃の身体に寄り添って、身を落ち着かせる。
僕はその様子を見てほっと息をつくと、体勢を立て直し、よれた服を少しだけ正してから立ち上がった。
「僕は眠り屋の矢島というものです。あなたは……『夢魔』ですね」
間髪入れずに黒豹が返す。
『どうしてここにいる、なぜ、ここに留まることができる?』
その長くビロードのように美しい尻尾で、瑠璃が横たわっているソファを何度となく、ピシリピシリと叩く。
低くうなり続けながら、宝石のように輝くエメラルドグリーンの瞳を、こちらに向けている。
「僕は瑠璃さんの依頼でやって来ました。僕もお訊きしたいです。これはいったい、どうやっているのですか?」
『……瑠璃の依頼だと?』
黒豹は、何かを思案しているように頭を揺らした。
しかし長い沈黙の末、遂には口を開く。
『……瑠璃の夢を、私が創り上げた夢と交換しているのだ』
「でも、瑠璃さんは自分が見ている夢と思っていますよ。ちゃんと内容も覚えています。まるで自分の目で見たかのように」
『お前、何を言っているのだ』
黒豹は馬鹿にするようにして喉を鳴らしながら笑った。
『私は夢に住まうものだぞ。瑠璃の本物の夢とすり替えるだけだ、それ位は容易にできる。だが、夢というものは、その本人が見るものだからな』
「なるほどそうですか。でもなぜ、そんなこと、」
僕が口を出そうとすると、黒豹は言葉をかぶせてきた。
『瑠璃にこれ以上、画を描かせたくない。こうして美しい世界を見せていれば、そのうち画を描くことへの執着を忘れてくれるだろう』
黒豹は瑠璃の腕に顔を擦り寄せた。
その頬が瑠璃の肌に触れるか触れないかの近さで、そっと。
『夢魔』なのだから、それはもちろん偽物の身体だ。生身のような体温など感じられないはずなのに、その温かみを少しでも感じ取ろうとするように、目を細めて神経を研ぎ澄ませている。
その様子で、僕は悟った。
彼は彼女を愛しているのだ、と。
「でもどうして、画を描かせないように?」
さもおっくうそうに、黒豹は頭をもたげて身体を起こし、ペロリと舌で口をなめると、再度その上半身をその場に落ち着かせた。
『人間よ、愚かな生き物よ。お前は一体何をしにきたのだ。瑠璃のことを何も知らぬとはな。それで助けに来たなど、よく言えたものだ。くくっ』
黒豹が喉を鳴らして低く嘲笑する。
僕は少しだけムッとした。
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