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「瑠璃さんは画が描けなくて、失意のどん底にいます。画を描きたいと心から望んでいます。それが瑠璃さんにとって大切な生きがいだというのに、どうして取り上げるようなことをするんですか。そっと見守るだけでは、だめなのですか」
僕が言い終わらないうちに黒豹が立ち上がり叫んだ。
『ここから出て行け‼︎』
ごうっと、威嚇をはらむ低く地響きのような声に、僕がびくりとして動けないでいると、黒豹は僕の想像をはるかに超えた言葉を口にした。
『今描きかけの画が完成したら、瑠璃は自ら命を絶つつもりでいる。瑠璃の意志は固い。お前に一体何が出来るというのだ? 二度とここへは来るな』
そう言うと、いかにも愛しそうに、瑠璃の頬に鼻先を擦り寄せる。
黒豹はそのままそっと目を閉じた。
✳︎✳︎✳︎
それは男性の顔らしかった。
まだ目も鼻も、いや命そのものを吹き込まれてはいない、描きかけの画。
イーゼルに立て掛けてあった唯一の画。
眠りからまだ覚めぬ瑠璃の横顔に一言詫びを入れてから、覆われている白い布をめくり上げて、その画を見た。
あなたは誰ですか。
この画が完成したら、瑠璃は自らの命をその手で終わらせようとしている、と夢魔は言っていた。
白い布を元どおりに掛け直すと、僕は少しの時間が経ってもまだ眠りから覚めない瑠璃の家を辞した。
そっと扉を閉めて出た明け方の町は、空気がしんと張り詰めている。
瑠璃はもう今頃は、早起きが得意な小鳥のさえずりにでも起こされているだろうか。
帰る間際。
いまだ目覚めぬ瑠璃を見た。
僕に邪魔をされた時間取り戻すようにして、夢魔が少しでも長くと瑠璃と一緒の時間を過ごしているのだろうか。
そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。
黒豹の深い愛情。僕は少し泣いた。
涙をぬぐった跡に風が当たって、冷える。僕の心も、そうやって冷えていった。
✳︎✳︎✳︎
『何をしに来た、今すぐ帰れ』
いらいらとした怒りを隠しもせず、黒豹はぐわうっと牙をむいた。
瑠璃の側に寄り添う時間を邪魔されたくないという、黒豹の気持ちが痛いほど伝わってくる。
僕は過日、二度目の試みを瑠璃に頼んでいた。
「申し訳ないのですが、もう一度。夢へと入らせて欲しいのです」
「はあ、」
瑠璃の顔には、ますますの暗い影がまとわりついていた。前回から一週間ほどしか経っていないにもかかわらず、瑠璃のこの暗い表情。 それは、いっそうの暗闇の底へと、沈んでいるように見えた。
「眠れてはいるのですが、筆やペンを持つだけで、手が震えるようになってしまって……」
いや、実際にはあまり眠れていないのだろう。目の下の隈が厚みを増している。
瑠璃が両の手をぎゅっと握り合わせるのを見て、僕はそう確信した。
夢魔が見せた、美しい至福の夢。それも、ただいっときの安らぎに過ぎなかったようだ。
あの日以来、僕は考えていた。
このままこの状態、すなわち絵を描くことができないという状態を続けることで、瑠璃に及ぼす悪影響への僕の憂慮が、現実にもたらされていたことに間違いはなかったのだ。
この疲弊し、疲れ切った表情。
自分の身体の一部分となるまで、画を描き続けてきたライフワークなるもの。それを突然に奪われ、心身ともに弱っていく瑠璃の、この姿。
「今度は、上手くいくと良いのですが……あ、いえ、直ぐには解決はしないと分かっております」
成果の出なかった前回の結果。瑠璃は、僕の失態を責めているのではないというように、口調を優しげにする。
しかし、あれは僕自身が、いや他の誰しもがはばからず、僕の失態であったと明言してもいいものだった。
僕は、僕自身を激しく叱責したし、後悔もしていた。
もっと、ましなやり方があったのではなかったか、と。
「お手間を取らせて申し訳ないのですが、どうぞよろしくお願いします」
僕の丸い眼鏡の奥にある何かを感じ取ろうとしているのか、じっと見つめられ多少狼狽してしまった。が、「それでは、お願いします」と僕が言うと、はい、と軽く頷き、すぐに眠りに入ってくれた。
さあ、次にはやり方を違わぬようにしなければ。僕は知らず知らずのうちに握っていた拳の力を、ゆるりと解くと、夢へと慎重に入り込む。
そうして僕は今、黒豹と対峙しているのだ。
「今日はお願いをしに来ました。あなたに頼みたいことがあります」
今後、瑠璃を助けるには、この哀れな夢魔の協力が必要となる。
どうか折れてくれと、心で強く願う。
『無知で愚かな男よ。夢とはいえ、このままここでお前を食い殺すこともできるのだぞ』
鼻に皺を寄せて、鋭く尖った牙を見せつけてくる。
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