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低くうなる声は腹の底へと響き、野生の獣に対して誰しもが感じる恐怖を、感じさせた。
けれど、ここで引くことはできない。
瑠璃は前のようにソファに横たわり、人形のようにその目を閉じていた。
夢魔が余計なものを見せたくないのであろう、瑠璃はさらなる深い眠りの中にいるようだ。
「瑠璃さんに、画を返してあげてください」
ここまで言うと、黒豹はぐわっと口を開けて飛びかかってきた。のしっと重みを感じると、僕はそのビロードのように美しい毛並みを持つ、しなやかな身体を両手で押しのけながら、精一杯叫んだ。
「瑠璃さんの、描きかけの、画を見ました‼︎ あれは、瑠璃、さんの、恋人でしょう‼︎」
黒豹の爪に引っかかれながらも、なんとか防ぐ。けれど、そう言った途端に、黒豹の身体を押し戻していた両腕から力が抜けた。
黒豹は僕から素早く飛びのいてくれた。
僕はフゥと息を細く吐くと、引っかかれた痛みを少しでも和らげようと、ミミズ腫れが走った両腕をさすった。
『……あれは、瑠璃の夫だ。死んだ、夫の顔だ』
呟くような、小さな声で。
痛みを伴った、苦しげな声で。
愛する女が、自分ではない他の男を愛する。そんな残酷な運命に耐えようとする声で。
しかし、そんな夢魔の痛みと同時に。
愛しい夫を失い、夢を彷徨い歩く瑠璃の苦しみ。
その悲哀に、僕の心はずくんと痛みを覚えた。
僕の遠い記憶の中にもある、似たような傷。
僕の持つ傷と、瑠璃の持つ傷に。
黒豹という借り物の姿でしか、愛しい人に触れることさえ叶わない夢魔の痛みが共鳴して、僕の心を揺さぶる。
涙が頬を伝った。
『何のつもりだ。それは一体、何のための涙だ』
あざわらうようにして、低く言う。
黒豹は音を立てず静かに瑠璃へ近づくと、その透明な頬へとそっと鼻を近づけた。
まるで、大切にしている者へ贈る、キスのように。
そして瑠璃を起こさないようにと、そっとソファの上に飛び乗り、瑠璃に寄り添うようにして身体を横たえた。
どこか遠くの方で鐘の音が鳴る。
夢の終わりに気づく。
「……どうか、僕のお願いを聞いてください」
僕は急がなくてはと、黒豹に話し掛けた。
「瑠璃さんを、助けたいのです」
ゆっくりと、正確に。もう二度と、間違えないようにと。
僕が話し終わると、黒豹は愛しそうにもう一度だけ瑠璃の頬に鼻を近づけ、やはり瑠璃を起こさないようにとソファからそっと降り、のろのろと窓へと向かって歩いていった。
歩くたびに背中で動く、しなやかな肩。
僕はいまだに頬を伝って落ちる涙をそのままに、その黒く美しいビロードの背中を見つめていた。
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