夢を彷徨って −アネモネ

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✳︎✳︎✳︎ 「矢島先生、ありがとうございます。あれから私、すっかり画を描くことができるようになりました。私、治ったんですね。本当に良かった」 僕の事務所を訪ね、両手を合わせて喜んでいる瑠璃の顔は、内からにじみ出る健康そのもので埋め尽くされていた。 初めて僕の前に座った時に見せた、儚く消え去ってしまいそうだった彼女の姿は今、至福の色で染め上げられ、生き生きと光り輝いている。 そんな瑠璃も美しい。 こんな姿を見せられては、夢魔が恋をし惹かれる気持ちも理解できる。 合わせた手の、白く張りのある皮膚に、それがまるでカンバスのようであるかのように、絵の具の染みが点々とついている。 色とりどりの、そしてあの虹色の蝶のような散らばり。その染み。 「そうですか、それは良かった」 「今日は謝礼を持参しました。取り決めにあった金額で、本当によろしいのでしょうか」 僕は差し出された封筒を貰うと、中を見て確認し、領収書に金額と名前を記入し、手渡した。 「これで結構です、どうぞご機嫌よう」 瑠璃はにこりと微笑むと、踵を返してドアへと進み出た。 しかし、つと立ち止まると、 「ですが、まだあの夢を見ることがあるのです。時々、ですけれど。何か意味でもあるのでしょうか。このままにしておいても大丈夫でしょうか」 そう、瑠璃の夢と画は返された。だが、もちろん夢魔が、すんなりと瑠璃を諦められるとは思っていない。 「大丈夫ですよ、何か不自由に思っていることがなければ」 「いえ、今のところは、」 「では、お気になさらずに。ただの無害な夢と思ってください。そういえば……」 僕は今までの会話の自然な流れを断ち切らないようにと、慎重に問いかけた。 「描きかけだった画は、完成したのですか?」 「ああ、はい、昨日の夜に何とか」 一瞬。ほんの一瞬。 表情に暗い翳りが差した。 依頼を受けてから、僕が見逃して、夢魔が見逃さなかった死の翳り。 それは目の前を横切っていく雲雀の飛行のように一瞬で飛び去っていき、あっという間にその姿をくらませてしまった。 そう、次にはもう、瑠璃は微笑んでいた。 身体の奥底からみなぎるようなエネルギーが溢れ出し、その集大成がここにある、輝くような笑顔。 弧を描く眉、盛り上がる頬。 この健全さはどうだ。 こんなにも、身も心も健康そのものであるはずなのに、その命は突然に、自らの手で断ち切られるのか。 どこからどう見ても健全なる瑠璃を見て、予告も無く突然の事故で逝ってしまった夫の画の完成を、どれだけ待ち望んでいたか。そして、その完成がどれだけ彼女を喜ばせているのかを知る。 僕は矛盾する公式を二つ同時に思いも寄らずに抱えてしまったような、そんな複雑で暗たんたる気持ちのまま、瑠璃を玄関まで見送った。 今夜は自身で描いた夫と二人きりの、至福の時間を過ごすに違いない。 僕はリビングに戻ると、ティーカップに二杯目のお茶を注ぎながら、彼女の虹色で飾られた手を思い出していた。 ✳︎✳︎✳︎ 「どうされたのですか、矢島先生、突然」 僕は瑠璃に謝礼を貰った日の夕方、アポイントなしで瑠璃を訪ねていた。 窓から差し込む夕陽の光が、初めて瑠璃の夢へと入ったあの日と同じように、しかし今度は瑠璃ではなく、玄関に立つ僕の横顔をオレンジに染め上げている。 ほんのりと暖かい感触。 それと同時に、彼女を前にしての、痛いほどの感覚。 「いや、近くで用事を済ませてきましたので、そのついでに」 「ですが、昼間にお会いした時には、そのようなことはひと言も……」 夫との二人きりの時間を邪魔されたからか、不服そうな面持ちで、中へと招き入れる。 振り返るその瞳が怪訝そうに僕を見る。 僕は構わず、被っていた帽子を取りながら、笑顔で玄関に入った。 通されたリビングには、あの時と同じ場所に、あの時と同じ状態で、白い布をかぶったカンバスが立て掛けられている。 きっとこれが、亡き夫の肖像画。 僕はどんな男が彼女を愛したのか、そして今夜にでも彼女を冥府に連れていこうとしている男の顔に、興味を持たざるを得なかった。 しかし、僕が亡き夫の顔を見る必要はなく、昨夜完成したこの画は、夢魔が瑠璃の夢の中から、その目を通して見ているはずだった。 夢魔が見ているのなら、それでいい。 瑠璃を救うのは僕ではなく、あの哀しみと深い愛情に満ちた黒豹なのだ。 コーヒーを二つ、盆にのせて運んできた瑠璃を遠くに見ながら、僕は当たり障りのない世間話をした。 コーヒーを盆から下ろして一つを僕に差し出し、ミルクや砂糖、そして自分のコーヒーを置いてからようやく座った瑠璃に向かって、僕は軽く握りしめていた手を差し出す。 「何ですか、先生?」
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