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いつの間にか小畑が追加で注文したきゅうりの浅漬けをポリポリと齧りながら、「で、実際のところ、どーなのよ」
と、聞いてくる。
深い話をするのも、小畑が聞いてくるのも、実は初めてだ。
僕は、胸の奥がギシリと嫌な音を立てて跳ね上がるのを感じた。
「どーも、こーも…今更変わるのは、無理だよ」
「なんで?」
今日の小畑はやけにしつこく感じる。
「なんだよ、小畑。僕たちそんな話、今までしてこなかったじゃないか、お前とは、いい飲み仲間でいたいんだよ」
僕はテーブルの上のお手ふきを特に意味もなく、ぎゅっと握りしめる。
じわりと、水分が手に吸い付いてきて、気持ちが悪い。
「なんで、無理なんて決めちゃうわけ?」
小畑はまだ続ける。
「お前、昔からそうだよ…そうだったよ…
あの賞を取った時だって、自分にそんな才能はないんで、なんて言ってたけどさ、それ、お前が決めつけただけだろ。あったよ…
お前には才能が…それで…それで、俺にはなかった」
小畑は自分の隣の椅子に置いた鞄から古びた原稿用紙を取り出す。
ん、と差し出されて手に取ったそれは端々が黄色く変色した古い原稿用紙だった。
「俺が、ファン1号になった作家先生の原本だぞ、丁寧に扱えよ」
小畑はそう言うとクシャりと笑う。
僕は、ゆっくりと表紙と思わしき、ページをめくり文字に目を向ける。
ミミズが這ったような字、とも言えなくもないようなそれは、きっと題名で。
小さく、名前があった。
「そたに、ちとせ…?」
僕の名前だった。
「お前さ、俺たち小学生からの付き合いだと思ってんだろ?残念、ハズレ〜、本当は幼稚園も一緒だったんだぜ?」
驚いて言葉が出ない僕に小畑はイタズラが成功した子供のように笑って言った。
「昔な、母さんの迎えが遅くて泣いてる俺に曽谷大先生は話を作って聞かせてくれたわけよ…あの頃は、小説とかってより、絵本みたいなもんだったけどな」
小畑の話を聞きながら、僕はパラパラとページをめくる。
汚ったない字。
文章と言うよりメモみたいな走り書きで、鬼は出るし、人魚は出るし、勇者の剣を持って悪に立ち向かうのはお姫様。
何だこのコメディーは。
「な、なにこれ、ひっ、ひっどい」
ゲラゲラと笑う僕をみて小畑も笑う。
「曽谷大先生の、貴重な本だぞ…俺の宝物だ」
バッと僕から本を取り返し小畑はいそいそと鞄に詰め込む。取り返されるとでも思っているのか。
「僕が本当に大先生になったとき、それを出版社にでも持っていけば多少は話題になるんじゃないか?」
僕は、止まらない笑いのままそう言うと小畑はそのつもりだっと真顔で言う。
またそれが面白くて、僕はゲラゲラと笑った。
周りに迷惑をかけていると思いながらも、笑いは止まらない。
でも、幸いなことにうるさい僕を誰も咎めるような人は周りにはいなかった。
「んじゃ、曽谷先生よ、まだ筆を折らずに描き続けてくれよ…長編でも短編でも、詩集でもなんでもいいんだ、俺はさ、お前の書く文が好きなんだよ」
小畑はニヤリと笑う。
小っ恥ずかしいことを言うヤツめ。
僕は、すっかり温くなったビールを煽るように飲み干した。
炭酸のなくなったビールの苦味が口の中に広がる。でもそんなことは気にせず、ガバッと立ち上がり、宣言してやる。
周りの目なんて気にしていなかった。
「待ってろよ!僕は絶対書くから!」
ふと、
空が白む気配を感じた。
一気に慣れないビールを煽ったせいか、頭がクラクラする。 目の前が揺れる。
「おいおい、ほら、座れ座れ」
呆れたような小畑の声に促され、僕は椅子に座り直した、ような気がする。
「本…当に、今度は、書く、か、ら…」
呂律の回らない口で僕は言った。
なんで今度なんて、言葉が出たのかは、自分でも分からない。でも、今度こそ、と、思ったのだ。
「ああ、楽しみにしてるよ」
薄れゆく意識の中で、小畑の柔らかい笑みを見た気がする。
誰かの支えに僕もなれているのだろうか、
(ずっと前から、救われてきたんだ)
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