1-8 優しい体温

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1-8 優しい体温

 ―――それは、無理だよ。  16歳の誕生日、あたしは人生初にして、きっと人生最後の大告白をした。  だけど相手の男は爽やかに、軽く、そう言って拒否した。  ―――誕生日、何が欲しい?  おじいちゃんが理事長を務める高校に入って、ようやく春服に慣れたかと思ったらすぐに夏服に衣替えしてしまった頃だった。  あたしは新しい制服というものに、必要以上に羞恥心を持っていた。  お父さんやお母さんに見てもらうのはそこまで意識しないのに、晃平に初めて見られた時は恥ずかしさの余り、その場で脱いでしまいたい気分になった。だけど脱ぐ方がよっぽど恥ずかしいので、我慢して晃平の視線に耐えた。  ―――うん、似合うんじゃない?  あたしの高校の制服は、下は茶色のチェックのプリーツスカートで、上は紺のブレザーでリボンがワインレッド。胸元のポケットに、金色の刺繍が入っている。  夏になるとそれが上着を脱いで、半袖の薄いブラウスだけになる。  晃平は春服もかわいい、と言っていたが、夏服になると今度はそう言った。  多分軽い気持ちで言ったんだと思うけど、当時のあたしは穴に入りたいくらい恥ずかしかった。  あの頃は急激な体のラインの変化に、物凄く自意識過剰になっていたと思う。  体操服になった時とか、同じクラスの女子で誰が一番胸が大きいかとか騒いでいた。そういうことを気にし始めた頃だったから、他人の目から見て自分はどう映ってるんだろうと、思ったりした。  特に、晃平の視線の位置がすごく気になってしょうがなかった。  胸を見るかな、とか。小さいって思うかな、とか。まだまだ子供って目を逸らすかな、とか。  8つも年上の大人の男に、そういうマセた考えばっかり抱いていた。  晃平は多分、あたしの年頃の子の成長なんてきっと見慣れてるんだろうと思った。  あたしが少し胸が大きくなったりしたからといって、晃平にとっては大したことじゃない。  なのにあたしは、晃平をそういう目で見てしまうのだった。  シャツを五分までまくった腕。暑い日に、黒板に板書しながら首筋の汗を手の甲で拭う仕草。教科書を片手で持ったときの手の形。  数えだしたらきりがないほどいやらしいことを考えながら、そういうところばかり見ていた。  晃平に見つめ返されたら、自分の考えてることがバレてしまうような気さえするほど、後ろめたいことばかり。  当時晃平には恋人がいるのかいないのかわからないような状態で。ただ、あたしと同じ高校に転任してきて、忙しい毎日に追われていた。  晃平は転任早々物凄い勢いで人気と人望を得た。  もともと世渡りが巧い人間なんだと思う。その上であの外見だから、周りが放っておくわけがない。  晃平の職場が見れて嬉しい反面、やっぱり自分とは遠い存在なんだな、と思ったりもした。  ―――隣りのクラスの高橋さん、昨日天宮先生に告白したらしいよー。  そういう噂は絶えなかった。だけど、断ったという噂も聞かなければ、付き合ったという噂も聞かなかった。  どういうことになってるのかまったくわからないまま、ただ晃平が物凄い人気者なんだという常識だけ確かなものとなっていった。  16歳の夏は、近年まれに見る猛暑だった。  それが原因による貧血だったかなんだかで、一度晃平に家まで送ってもらったことがあった。  晃平とマトモに話したのは、あたしの入学式におじいちゃんの家に晃平が来て以来だった。  当然のように緊張しているあたしをよそに、晃平は涼しい顔でステアリングを握っていた。その腕のラインから全てにあたしは目を奪われてしまっているというのに。  ―――もうすぐ誕生日だな。  まさか覚えているとは思わなかった。  そう言い返そうと思ったけれど、あまりにも気分が悪くて、ただこくりと頷いて見せた。  ―――6月20日。誕生日、何が欲しい?  靄がかかったような思考しか働いてなかった。  ただ、晃平がそばにいるという事実だけがリアルで。もっとそばにいたいと思う気持ちだけ、ハッキリとそこにあった。  ―――指輪が、欲しい。  そうしていつも意識の奥底にあった願望を、さらりと口にしていた。  晃平の恋人は何人か見たことがある。そのうちの一人が、右手の薬指に指輪をしていたのを知っていた。晃平は何人と付き合おうと、指輪だけは贈らなかった。だから本人に聞かなくても指輪は晃平にとって特別なもの、という意味なのだろうし、それをつけている恋人はもっと特別ということなのだろうことはわかった。  それを見た時、どれだけその恋人を憎んだかわからない。  醜い羨望と、嫉妬と、悲憤。  それらがぐちゃぐちゃにかき混ざって、晃平とはそれ以来疎遠になりがちだった。  そういう誰にも言えない憤りが収まった頃、やっと自分も晃平に特別な存在として扱われたいのだと気付いた。  いろんな感情が混ざって見失いそうになってたけど、一番奥底にあったのは、いつもそれだったのだ。  8つも年下だからって、れっきとした女なんだということを知ってほしかった。  あなたに見られて意識してるんだということも、気付いてほしかった。  ニセモノでもいい。  ―――かわいい指輪がほしいな。…オモチャでいいの、まだ16のガキだしね。  こういえば、きっと晃平は苦笑して、そうだな、って流してくれると思ったのに。  晃平の答えは、こうだった。  ―――それは、無理だよ。  オモチャでさえも、指輪だけは贈りたくないのだと思った。  それと同時に、自分は思ったよりももっとずっと、晃平にとっては小さな存在でしかないのかもしれない、と思った。体の成長がどうのとか、8つの年の差がどうのとか、そんな次元で一喜一憂している自分が、途方もなく子供に思えた。大人はこうやって、子供のささやかな恋心をあっさりと摘んでいくんだと。  ―――ひなにあげる指輪は、婚約指輪って決めてるから。  幻聴を聞いたかと思って、真顔で晃平を振り向くと、こちらを向いて笑っていた。  ―――え?  暑さに体だけじゃなくて、脳までやられたのかと本気で思った。  ―――オモチャなんか俺があげたくない。  そこまで言われても、まだハッキリと理解はできなかった。ぼんやりとして何の反応も返さないあたしの、汗で湿った前髪をかき上げると、シートを越して額に晃平の唇が触れた。  ―――一緒に暮らそうか。  本当に、都合のいい白昼夢を見ているだけなのだと、キスされても思わずにはいられなかった。  黒板に白いチョークで綺麗な文字を並べていく指先を見ながら、あたしはシャーペンをくるくると右手で回した。  くるりとこちら側に向き直った天宮先生の、教科書を持つ薬指に、指輪が光る。  それをなんとなく見つめていると、ふと先生と目が合った。  驚いたように2回ほど瞬きをしたが、それから小さく口元に微笑を浮かべてくれた。あたしもそれを見て、こっそりと微笑を作る。  <…あれから一年、経ったんだよね…>  あんなめちゃくちゃな結婚をして、なかなか最初はうまくは行かなくて、どたばたと一年の月日が流れても、やっぱりあたしは先生のことが大好きで。  生徒たちが大体黒板を写し終わったのを見計らって、先生は授業を再開した。凛とした張りのある声が、教室に響く。  昨日の、生理が来たと言った時の先生の顔が脳裏に過ぎった。一年前には想像もできなかった、彼の表情の数々。もっと自分しか知らない彼を、独り占めしてたいと思った。  一年前と今と、晃平に対して抱く思いの強さは、もう比べ物にならないほど大きく膨らんでしまっている。一度手に入れてしまった宝物は、きっとどんなことが起こったって手放すことなんてできない。ただ見ているだけだったあの頃には、もう戻れない。  <…まだ、あたしだけのものでいてほしいかな…>  晃平との赤ちゃんは、ほしい。  <…だけど。…だけどね>  もうちょっとだけ、彼を独占していたいんだと思う。  それは、自分の産んだ赤ちゃんに対しても働いてしまうほどの、幼稚な独占欲。  きっと赤ちゃんが生まれたら、晃平はあたしだけのものではなくなる。あたしと赤ちゃんの、二人のものになる。それはきっと幸せなことなんだろうけど。  でもまだしばらくは、自分だけのものであってほしい。  彼の腕も、笑顔も、名前を囁いてくれる声も、優しい体温も。  初夏の風が教室を吹き抜けて、あたしは先生の英語を聞きながら窓の外を見た。  もうすぐ、初めての結婚記念日がやってくる。
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