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2-2 相容れないモノ
幸せな日常とは、それを維持し続けるのが困難だからこそ価値があるのだ。
「―――っくしゅっ」
4月になって桜が咲いているからといって、さすがに夜はまだ冷え込む。
部屋着の上に何も羽織らずに勉強をしていると、温まった体はいつの間にか熱を奪われ、冷え冷えと鳥肌を立てた。
先週の日曜日にホットカーペットもしまったばかりで、絨毯も今はただの絨毯だ。くしゃみをしてから、自分の体が寒さを訴えていたことを知って、あたしは両腕をさすった。
「ああ、ほら。だから上着着ろって言ったのに」
テーブルの角を挟んで斜め前に座っていた晃平が、くしゃみに気付いてそう言った。
「う…だって、冬用のパジャマだし、上着着るほどでもないかと思って」
鼻をすすると、ずる、と詰まった音がした。目が合った晃平が、やれやれ、といった様子であたしを見つめている。
「季節の変わり目は風邪引きやすいんだよ。覚えときなさいね」
そう言って、晃平はあたしの腕を引っ張って自分のそばへと体を寄せる。持っていたボールペンをテーブルに放り、両手であたしを後ろから抱き締めてきた。あたしの背中はすっぽりと晃平に包み込まれ、シャツ1枚を隔ててすぐ、体温があたしを温めてくれる。
「せっかく勉強する気になったのに、風邪引いたら元も子もないよ」
「晃平が勉強見てくれる気になったのが、でしょ」
せっかく勉強を見てもらって予習がはかどっているのに、晃平の意識はテキストから逸れ始めている。
「…あたしまだ予習終わってないんだけど」
厚手のシャツの上から、晃平の右手が片胸を包む。なんとなく触ったわけではないことは、その指に微かにこもったり抜けたりする力加減でわかる。
「終わってから見るよ」
後ろ首に唇を押し付けて囁く。
はっきり言って、全く信憑性がない。
<…嘘だ。絶対そのまま寝るに決まってる>
「とりあえず今はひなの体を温めるほうが先でしょ」
「…勉強の方が先…」
ぼそり、と言い返す声に力が入らないのは、強く言って晃平の気を殺いでしまうのが嫌だから。
だけど実際のところは、あたしの声なんか聞こえてないのか、さっきよりも力加減が強くなり始めている。そして、耳たぶに唇をつけてこう言ってのける。
「―――真剣な顔のひなに欲情した」
時々晃平は、動揺するのを通り越して唖然とするような言動をとる。
「………バカじゃないの!?」
精一杯の強がりだったけど、晃平は少しもショックを受ける様子はなく、むしろ楽しそうにあたしの反応を窺っている。そんな顔を見て、しみじみする。マジメに勉強を見てくれてた脳裏で、そんなこと考えてたんだなぁ、と。あたしが必死で英文を訳している最中に。晃平は。
<…晃平って、なんでこう…>
人差し指と中指が、シャツの上から、硬くなった胸の先端を挟んだのに、思考回路がストップした。
「…っ、さ、―――3割くらい手加減してね」
代わりに、蓋をされていた本能にスイッチが入る。
<…ああ、だけど>
本格的にあたしの体を愛撫し始めた晃平に身を任せ、ため息をもらしながら思う。
あたしだって黒板に板書する晃平を見て、同じようなことを考えているんだ。晃平ばかり責められない。
晃平は学校が始まってから、家でのスキンシップを前より多くとろうとしている。
一日中同じ学校にいるにしても、会うのは晃平が担当するリーダーの授業中のみ。副担任になったからと言って、そんなに頻繁に教室に現れるわけじゃない。むしろ、皆無。教官室も最近、質問に来る生徒が多くて、あたしはほとんど寄り付いていない。
家の中だけでしか愛し合えないのだから、せめて家の中だけででも『夫婦』でいたい。
たぶん、そう思ってるんだと思う。
そしてそれがわかるから、あたしは次の日の予習が残っていようと、晃平の誘いを断れない。断らない、と言った方が正確だった。予習よりも、晃平との時間が大事。
<…受験生の言う言葉じゃないや>
予習が今やってる英語だけじゃなくて、もう一つ古文もあるんだよ、って言ったら、多分晃平も今すぐこれをやめようとするだろう。
<こらえ性がないのは、あたしも同じ>
無茶苦茶だって言われても、受験生失格だって言われても。
晃平に触れられない日々が続くことを思えば、予習ができなくて明日の授業を心配する方がよっぽどマシだ。もちろん、明日の休み時間は残ってる予習に費やされることも承知済み。
不真面目な生徒でごめんね、と心の中で呟いてから、あたしは目を閉じた。
体中を確実に熱くする男らしい右手とは裏腹に、どこまでも優しくあたしの髪を梳いてくれる左手。
晃平の愛撫が好きだと思う。晃平の気持ちそのものだから。だからすべて受け止めたい。全部ほしい。少しでも取りこぼさぬように、あたしは晃平の愛撫に意識を集中する。
そして晃平自身の先端が入り口に触れて、あたしの体へと侵入を始める。全部入れきってから、晃平が腰を動かしだす。
「…っ! あ…っ」
「ひな…熱い」
耳元で囁く晃平の吐息も熱い。
「どう、にかなりそう…っ」
脚を晃平の腰に巻きつけ、あっという間に上り詰めていく。なぜか今日は、妙に晃平が欲しい。いつもより体が溶けやすくて、それなのに晃平を捉えて離さない。
予習がどうとか、スキンシップがどうとか、なんだかどうでもよくなる。
ただもう、ひたすらに、晃平の存在を独占していたい衝動で、頭が真っ白になっていく。
「―――ひな…、俺の目、見て」
目を瞑ったところで逃れられはしない快感の渦に飲まれたまま、我に返って晃平を見上げる。
連れてって。
晃平のそばへ。晃平と一緒に。もっと遠くへ。
熱にうかされた病人みたいに、うわ言じみた言葉が頭に浮かんだ。
その時だ。
出し抜けに部屋の電話がけたたましい音で鳴り始めた。
意識が一瞬電話へと向けられたが、晃平は動作をやめようとしなかった。そのうち止むだろうと思ったけど、呼び出し音の止む気配は、ない。
「こ、…晃平…、っ」
完全にあたしの意識が電話に向かってしまったことに、晃平がため息をついた。
「………。うん」
ものすごく不機嫌そうな低い声で短く頷くと、体をゆっくりとあたしから離す。あたしに怒ったわけじゃないことはわかっていたけど、それでも冷や汗を流してしまった。
「はい天宮」
誰からかかってきたかもわからないのに、晃平はつっけんどんな口調で電話に出た。だけどその口調も一瞬で、電話の相手を知って声色が変わる。
「え? はい。…ええ、いますけど。―――え?」
最後の問いが、不自然に切羽詰っていた。
<…なんだろ…?>
「…はい。わかりました。じゃあ、すぐに行きます」
神妙な面持ちで相手にそう言うと、ゆっくりと受話器を戻した。ぽかんとするあたしの方へと向き直り、先程の情事のことなど忘れ去ったかのような深刻な顔でこう言った。
「ひな、これから出よう。―――千造さんが倒れた」
慌てて家を出たのが夜も10時を回ってからだったので、屋敷に着いた頃はもう11時を過ぎていた。
こんな時間におじいちゃんの屋敷に来たことはない。つい2年前まではあたしも住んでいた家だけど、こんなに戻ってくることに緊張した日はなかった。
庭や玄関にある照明灯が、夜に染まって黒い垣根や植木たちを仄かに照らす。昼間とは別物のように見えるそれが、余計にあたしの不安を駆り立てた。
「おじいちゃん!」
屋敷に入るなり、夜中だということも忘れて大声で叫ぶ。
玄関には普段はないであろうたくさんの靴が、所狭しと並んでいる。親戚の人たちもすでに来ているらしい。あたしの声に気付いて、奥から仕事のスーツ姿のままのお母さんが走ってきた。
「ああ、ひな。ごめんねこんな夜遅く。晃平くん、車大丈夫だった?」
あたしと、後から続いた晃平に低めの声で言う。普段あれだけテンションの高いお母さんが、また別人のようで不安を誘う。
「おじいちゃんは? 大丈夫なの? 病院は?」
「病院には行ったわ。大丈夫、ただの風邪だって。久しぶりに弟子に稽古つけて、疲れちゃったのね多分」
自室で休んでるから、顔出してあげて。そう言って、お母さんはあたしを奥へと促した。足早におじいちゃんの寝室に駆け込むと、数人の親戚の人たちに囲まれているおじいちゃんと目が合った。
「―――おお、ひな。…心配かけたな」
白い寝巻きが、おじいちゃんの痩せて皺くちゃの首元を更に華奢に見せている。いつもよりもひどく濁った声で、喋るのが少しだけつらそう。
「おじいちゃん、おじいちゃん、―――大丈夫?」
親戚の人に挨拶するのも忘れて、真っ直ぐにベッドに駆け寄っておじいちゃんの手を握る。熱があるのか、少しだけ熱い。
「なに、ただの風邪じゃよ。しばらく寝てれば治る」
「ほんとに? 無理しちゃ駄目だよ、しっかり安静にしててよ?」
あたしの言葉に、おじいちゃんはにこにこと頷く。安心させようとして作る笑顔ほど、不安にさせるものはない。余計に心配に襲われたあたしは、思わずおじいちゃんに抱きついた。女の子みたいに細い躯だった。
「大丈夫大丈夫。ひなは、心配性じゃなぁ」
背中を叩いてあやすようにしながら、おじいちゃんは笑った。それでも子供みたいにがっしりと抱きついていると、おじいちゃんとは違う声が降ってきた。
「大丈夫だよ、ひなちゃん。おじいちゃんは入院しなくても大丈夫だから戻ってきたんだから」
親戚の人の数は、多すぎるうえに弟子さんたちとも混ざって、顔をいちいち覚えていない。誰だか知らないまま、それに頷き、体を離した。それでもおじいちゃんの頼りない躯の感触が、手のひらにずっと残っている。こんなに衰弱してしまっていたなんて、全く知らなかった。寂しさに似た、言い表しようのない気持ちが胸の中を覆い尽くしていく。
ようやく部屋にいる人が視界に入ってくるようになると、気恥ずかしさを覚えた。入り口のそばに立っていた晃平を見ると、小さく苦笑して頷かれる。
部屋にいたのは、50代くらいのおじさんが四人と、30代くらいの女の人が二人と、男の人が一人。やたらと華のある人だった。親戚にこんな派手な顔つきの人がいただろうか。弟子さんのようにも見えない。
誰かの付き添いかな、と思って顔を逸らそうとすると、あたしの視線に気付いて、その男の人が笑顔を向けてきた。
<…?>
どういう意味の笑顔なのかわからなくて、一瞬眉を寄せたが、とりあえず、会釈した。
明日は学校だったけど、おじいちゃんの様子が気になるのでそのまま泊まることにした。
「じゃあ、しっかり看病しろよ」
車まで見送ったあたしに、晃平が頭を撫でながら言う。
「うん。わかってる」
おじいちゃんがいらないと言っても甲斐甲斐しく看病するつもりだった。それが手に取るようにわかるらしく、晃平は苦笑している。
「…どうせなら最後までしてからがよかったな」
さらりと言われて、一瞬なんのことを言われているのかわからなかった。ん?と眉を寄せているあたしに顔を近づけると、
「明日までお預け、だな」
耳元で囁き、最後にはぺろり、と熱い舌が耳朶を舐めた。腰に痺れが走って、背筋が伸びる。
「っ、ば、ばかっ! 不謹慎っ」
「安心して気が抜けたんだよ。―――ひなこそ、顔つきがぼんやりしててヒヤヒヤしたけど? あれじゃあ志緒さんにバレてもおかしくないなぁ」
言い返す言葉も見つからないけど、とりあえず何か言い返してやりたくて口を開こうとした矢先。
「志緒さんになにがバレるの?」
背後から聞こえた声に、あたしは心臓が止まるかと思った。勢いつんのめって、晃平に体を支えてもらいながら、そっちを向くと、さっきのあの男の人が立っていた。
「何してるの、ひな。その人が、噂のひなの旦那さん?」
びっくりするくらい馴れ馴れしい言葉。―――っていうか、誰この男の人?
見た目は30歳前後。顎にヒゲ生やしていて、普通のサラリーマンでもなさそうだ。大らかな雰囲気をまとって、人生謳歌してますって感じの満ち足りた笑みを口元に浮かべている。
「あれ? もしかして、俺の顔覚えてない?」
思いっきり不審そうな顔をしていたらしい。微妙にショックそうな顔で、あたしを窺うように言う。
あたしの肩に乗っていた晃平の手に、力が込められる。
「俺だよ。一緒の布団で寝た仲じゃないか」
一瞬、その場の空気が固まった。
「………え?」
「幼稚園の頃だったかな。それから渡米したからかれこれ13年ぶりになるけど」
晃平の手が、肩から顎の下を通って、後ろから抱き締める形をとる。
「まさかこんなに綺麗に育ってるとはね。―――俺だよ、“ゆうくん”。本当に忘れちゃった?」
「―――あ!」
自分でもびっくりするくらいに大きい声が飛び出た。彼の言うように、13年後のお互いの姿など想像できるはずもなかった。だから気付けなかったけど、思い出した、この人は―――
「ひな、誰?」
後ろから晃平が低く囁く。するりと腕から抜け出ると、晃平と向き合った。
「あのね、お母さんの一番下の弟なの。だから叔父さん? あたしが小学校入る前にアメリカ行っちゃってたから、もう随分会ってなかったんだけど」
そこまで説明して、また首に腕が回された。今度は晃平の腕じゃない。他人の匂い。それが誰のものか確認する前に、頭上から声が落ちてきた。
「麻生佑介です。よろしく」
晃平の視線とゆうくんの視線が絡み合った時、密かに火花が散ったことに、あたしは気付かなかった。
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