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2-3 彼の車
たとえばいつも学校帰りに寄るスーパーマーケットのネオンでさえも、百万ドルの夜景のように見えるんだって言ったら、晃平はどんな顔をするだろう?
屋敷に泊まるのは、今年の年明けに晃平と来て以来だ。
屋敷に「帰ってくる」ではなく、「泊まる」のだと無意識に言えることが嬉しくてこそばゆくて、不思議だ。この年でもう家が二つあるという事を、自分の中でまだ綺麗に整理しきれていないのかもしれない。整理と言うか、区別の付け方と言うか。
最近では学校からふらりと立ち寄ることも少なくなり、何か年中行事でもないとおじいちゃんの顔も見なくなっていた。そんなことを思い出したのも、おじいちゃんが倒れてからだ。なんだか自分が、ひどい孫のように思えた。
「おじいちゃん、夕ご飯できたよ。起きて食べれる?」
奥の寝室を覗くと、障子の窓を開け放って夕日を眺めているおじいちゃんと目が合った。
倒れてから二日。
もう一度病院に行って点滴を一本打ってもらってから、熱も下がって、徐々に食欲も元通りになりつつある。
「ああ、起きて食べようかの。いつまでも寝てたら、あっという間に起きれなくなってしまうからな」
そんなことを苦笑しながら言い、寝巻きの上から灰色の上着を羽織った。
おじいちゃんはたまに、こうして少し自虐的なことを苦笑いをしながら言う。こんな癖は、少なくとも前はなかった。もちろん深く考えながら言ったわけでもなく、あたしにも返事を求めていない独り言のつもりなんだろうけど、そんな冗談を聞かされて軽く流せるわけがない。
いちいちショックを受けて黙り込んでいるあたしの頭を、おじいちゃんが撫でる。
「なんて顔をしとるんじゃ。ほれ、じいちゃんはこの通り、元気じゃい」
「…おじいちゃん」
心配させないで、って言おうとしたけど、やめた。
かわりに、また子供みたいにがっちりと抱きついた。勢いにおじいちゃんの体が傾いたけど、気付かないフリをした。土の匂いみたいな湿ったような匂いと、かすかに伝わる体温に、ようやく安心できる。
まだまだ、この屋敷から帰れそうにない。
『そっか、じゃあ食欲についてはもう心配いらないな』
夜、お風呂にも入ってから部屋で晃平に電話をかけた。
あまり着慣れていないパジャマの裾を意味もなくいじりながら、布団の隅に座って脚を抱えていると、妙に晃平の声が遠く感じる。妙に、人肌恋しくなる。
「うん。でもまだ一日ベッドにいるから、明日あたり外を一緒に散歩しようかなって」
いいんじゃない、と晃平。答えながら口調が少し変わったのは、多分体勢を変えたからかもしれない。座っていたソファから、ベッドに移動したとか。そのままソファに横になったとか。頭の中でそんな行動をとる晃平を思い浮かべながら、またパジャマの裾を見つめた。
『どうせなら、ひなも囲碁ができればいいのにな』
「いいの。囲碁が出来なくても、遊び相手にはなれるもん」
『まぁ、そうだな。無言でひたすら碁を打つより、そっちの方がよっぽどおじいちゃんも嬉しいだろうよ』
うん、と相槌を打つと、不意に会話が途切れた。
<…会いたいな>
詳しくは、触れたい。
たった48時間だ。
48時間顔を見なかっただけで、その10倍くらいは会ってないように感じてしまう。
学校では、ほとんど顔を合わせない。教官室にも行けない。家でも、もちろん会えない。ただの教師と生徒という関係がこれほど疎遠なものであるということに、今更衝撃を受ける。
朝、晃平のスーツ姿を見ると、毎朝あたしが一番に見ていたスーツ姿を、今日はあたしは何人目に目にしたんだろうと思って、寂しくなる。
その「おはよう」の挨拶を一番にしたのは、今日は誰だったんだろう、とか。
学校がひどく広く感じる。教壇が、遠く感じる。
<…来てくれないか、な>
学校帰りに、ほんの少しでも。でも仕事帰りにどこかに寄ると、いつも以上に疲れてしまうことを知っている。
今何考えてるの?
顔を見ていれば言える言葉も、電話を通すとおかしいくらいに出てこなくなる。電話の距離が、二人の距離のような。少しの勇気で足りた言葉は、比べ物にならないくらいの勇気が必要となる。
どうして、黙ってるの?
心は繋がっていると思う。心地いい沈黙なんだとも思う。だけど。
<…声を聴かせて>
その穏やかで優しくて、あたしの心を丸ごと包み込んでくれるような笑い声を。
「…―――ねぇ、晃平」
なんとなく名前を呼ぶと、晃平もなんとなく、返事を返してくる。
『うん? なあに』
好きよ。と。
すぐそばに晃平の体温があることを想像しながら囁こうとした矢先。
コンコン。
秘密の告白を他人に聞かれそうになった気分で、心臓が飛び跳ねた。
不自然に呼吸したのが、電話の向こうにも伝わったらしい。ひな?と呼ぶ晃平の声が聞こえたが、返事をする前に、部屋のドアの向こうから、また別の声で、
「ひな?」
と呼ばれた。
「―――え、…え?」
ドアをノックしたのは、おとついからこの屋敷に帰ってきているゆうくんだった。
「まだ起きてる?」
言いながら、ドアを開けてゆうくんが入ってくる。
ゆうくん、と一応昔と同じ呼び名で呼んではいるが、とてもじゃないけどいでたちは「ゆうくん」なんてガラではない。
有名ブランドのごつい時計と、きつめの煙草。口ヒゲだって一般の30歳男が生やすような感じではなく、どこかのメンズ雑誌でモデルがやっているような、どうやって手入れをしているんだろうと不思議になるような、あの複雑な形のヒゲだし。胸元にブラウンのサングラスを引っ掛けて、体格もスポーツマン系で胸板も厚く、間違っても「ゆうくん」と呼んだところで振り向いてくれそうにはない。
「あ、電話中だったか。じゃあそれ終わったらでいいよ」
ゆうくんは、外見はアメリカ帰りらしく豪快でダイナミックだが、性格そのものは昔のままみたいだ。優しくて気が利いて、お兄ちゃん肌。
「あ、そ、…うん」
ぎこちなく答えたあたしに気付いて、ゆうくんがおかしそうに笑って出て行った。
それを見送ってから、再び電話を耳に寄せる。
『―――これが終わったら、“ゆうくん”と何すんの?』
ぎくりとしたのは、晃平の声に、笑いとからかいと、少しの怒りが混ざっていたからだ。
「べ、別に何もしないよ。どうせお母さんと三人でお茶飲むくらいでしょ」
『ふーん』
明らかに怒っている口調だった。
「ちょっと晃平ってば。なんで怒るの? ただの叔父さんじゃない、なんで」
『そうだよ、ただの叔父さん。だから別に何も言ってないけど?』
いけしゃあしゃあと言ってのける晃平に、あたしは言葉を失ってしまう。それはそうなんだけど。そうなんだけどでも、じゃあその態度はなんなのだ。
「……晃平。…ってば」
せっかくの貴重な時間を、こんな下らない口喧嘩に費やしたくないのに。
笑い声が聞きたかったのに、聞こえてきたのは怒った声だった。
『会いたい』
不意打ちすぎて、思わず聞き返すところだった。
『なんでこんなに気持ちを持て余してるんだろ。…ひな、明日も屋敷に泊まるんだろ? 夕方そっちに行くよ。とにかく顔だけでもちゃんと見たい』
相槌も打たせずまくし立てた晃平が、愛しかった。嬉しくて声が震えそうになりながら、うん、と頷いた。
「あたしも会いたい」
いつもの『好き』という言葉の何十倍もの気持ちを込めて。
大切に囁いた。
放課後、晃平に会える。
たったそれだけのことに、一日が過ぎるのがもどかしく感じる。こんな気持ちになるのは、いったいいつぶりだろう。それを考えると、あたしってなんて幸せな日々を送ってきたんだろうと思う。
だから朝からおじいちゃんに話してしまうほど、楽しみにしていたのに。
<…なんでこうなるの?>
助手席のシートに凭れぬまま、ちらりと横の運転席を見る。
手馴れた動作でステアリングを操るのは、晃平ではなく―――ゆうくん。
美波や梨紗子の誘いも断って、早々に帰ろうと校門をくぐった直後、道路脇に停まっていた車にクラクションを鳴らされ、中に乗っていたのがゆうくんだとわかるやいなや、助手席に連れ込まれて、今に至る。
怪訝な視線に気付いたゆうくんが、サングラスをはずしてダッシュボードに置きながら苦笑した。
「そんなに固まるなよ。―――なんだよ、俺がドライブに誘ったの、そんなに嫌だった?」
西の空を染める夕焼けが、東の方の青空と、不完全燃焼をするアルコールみたいなグラデーションを作っている。
「いや、そういうんじゃない、けど」
晃平がそろそろ学校を出たくらいかもしれない。カーステレオの横についているデジタル時計は、6時25分をさしている。本当なら今頃おじいちゃんと夕方の散歩をしながら、晃平が来るのを待っているはずだったのに。
「ああ、おじいちゃん? だったら大丈夫。昼間姉貴とふらふら近所を散歩してきたみたいだから」
「……うん」
それもあるけど。それも大きな理由なんだけど。
「久しぶりに会ったのに、ひな、まともに俺の相手してくれないじゃん。昨日だってぼんやりしてたし。もう30過ぎたら、ただのオッサンにしか見えないかな」
「え、あ、そんなことはないよ! ゆうくんは、今でもゆうくんだし」
慌てて弁解すると、ゆうくんは嬉しそうににっこり笑って返してきた。
「そっか。そりゃよかった」
「あ、…えっと。…ちょっと約束があったから」
「約束? 誰と。―――あの旦那と?」
素直に頷くと、ゆうくんはしばらく沈黙して、思い出したように小さく笑った。
「ったく、ビビるよな。夜怖くて一人で眠れないとか駄々こねてたひなが、まさか結婚してただなんて」
口調がどこかイラついているように感じるのは、夕方の渋滞に巻き込まれているせいか。それとも。
「…あたしも、まさか結婚するとは思わなかった、よ」
「聞いたよ、姉貴から。―――なかばあの男に掻っ攫われるようにして結婚したんだってな。親父が心底信頼してた男じゃなかったら、結婚までいかなかったろうって」
懐かしいことを聞いて、あたしは自然と顔が綻んだのに気付いた。
―――なんだって、晃平。
あの時の、お父さんより驚いた顔をしたおじいちゃんは忘れられない。
持っていた湯飲みを畳に落として、飛び散った熱いお茶が膝に当たって、あちぃ!と悲鳴を上げた。一瞬にして真空になった空気は、同時にその悲鳴で破裂した。
―――ひなの一生を俺に下さい。
まるで魔法にかかったシンデレラの気分だった。
冗談抜きで、晃平が王子様に見えた。そしてあたしは、その時間違いなくお姫様だった。
あの時のシンデレラの魔法は、2年が経とうとする今もまだ解けない。
「あたしにはもったいない人だよ。釣り合ってる夫婦には、きっと見えない。でも、それで卑屈になるのはやめたの。釣り合わないんだったら、釣り合うように頑張ればいいんだって」
そしてそれを、晃平は見つめていてくれるから。
「…まだまだ、だけどね」
なんたってあたしはまだ、親に養ってもらっているような子供なのだ。自立というものがどういうことかさえ、わかっていない。守ってもらってばかりで、幸せをもらってばかりで。
「…どうやったら幸せって思ってもらえるかな、って。いつもそればっかり」
はた、と我に返る。
流れ出した渋滞に乗って、ゆうくんが前を見つめたまま車を走らせている。
「―――あいつは今、いくつだっけ」
と、少し話の内容からずれたことを訊いてくる。
「え? …26歳、だけど」
「26…8歳差か」
なんだか落ち着かない。いつも顔のどこかに微笑を浮かべていたゆうくんが、今は横から見る限り、真顔だ。
「もうちょっと頑張って、14歳差なんてどう?」
再び戻ってきた微笑に安堵して、言われた冗談の意味を考えるまで頭が働かなかった。
「…あ、えーと。…うん?」
要領を得ない返答に、ゆうくんが苦笑する。そして、左手でくしゃ、とあたしの頭をかき混ぜた。
「いいや、なんでもない。―――とりあえず、俺の前では『人妻』じゃなくて『かわいい姪っ子』でいてくれよ。な?」
「…うん」
どういう意味なんだろう、とまだ顔に書いてあったらしい。それに気付いたゆうくんが、また困ったように笑い返してきた。
「さぁて。どこかでご飯でも食べて帰ろうか」
「うん。―――あ! 駄目だよ、もう帰らなくちゃ」
晃平がそろそろ屋敷に着く頃だ。外出しているとわかると、待たずに帰ってしまうかもしれない。昨日あの電話であの調子だったのだから、きっと気分はよくないだろう。一応おじいちゃんには知らせておいたけど、それで納得してくれるかどうかは甚だ怪しい。
「いいじゃん、ご飯くらい。どうせ親父の風邪が治ったら家に戻るんだろ?」
「いや、でも」
「俺は親父の風邪が治ったら、もう日本からいなくなるよ」
「―――ゆうくん」
「もう2、3年は帰ってこないよ。少しくらい俺を優先させてくれてもよくない?」
かわいい姪っ子でいてくれよ。
さっきあんなことを少し切なそうに言ってくれたゆうくんとは、別人に見えた。
断りきれないプレッシャーみたいなものを言葉の裏にぶらさげて、ずしりとあたしの背中に載せてくる。
「…じゃ、…じゃあ、……ご飯、だけ」
車窓から見える景色は、夕日も落ちて人工的なネオンが目立ち始めている。
夜特有のどこかそわそわした雰囲気が、歩く人々の足を早くさせる。夜に染まっていく景色を、誰も見ようとはしない。街路樹に分断されたネオンが、ますます他人行儀にそっけない。
晃平と放課後、生徒や先生の目を盗んでドライブデートする時とは、明らかに違う景色。
ゆうくんと喋るのは楽しい。
でも、晃平の車の中から見る夜の景色はこんなのじゃなかった。
晃平がかけた魔法は、晃平がいない場所では効かないらしい。
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