2-5 ポーカーフェイス

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2-5 ポーカーフェイス

 好きな人を見るだけで官能を刺激されるって、いったいどういうことなんだろう。  晃平が、縁側の窓を開けて板張りの床に座り、外へと足を投げ出している。庭には鯉の泳ぐ池と、おじいちゃんが丹念に世話をしている松の盆栽が何個かある。石灯籠と、背の低い植木。いつでも全く形を変えないそれらをぼんやりと見つめながら、何か別のものを見ているような、晃平の透明な視線。  そよ風が晃平が羽織る綿のYシャツの裾を揺らし、柔らかい髪をなびかせる。  たった、それだけなのに。  <…抱き締めたい>  知らないうちに腕が彼へと伸びそうになる。あたしは今縁側に面した奥の間にいて、晃平の場所までは6、7歩分の距離があるから手は届かないんだけど。 「―――見舞い、とは言っておったが」  不意に後ろから声をかけられて、あたしは我に返った。  お母さんとどこかへ行っていたおじいちゃんが、奥の間にいつの間にか戻ってきていた。畳の上に座ってあぐらをかきながら、晃平のいる方へと視線を遣る。 「ひなを迎えにきたんじゃよ、本当は。いつまでもひながここにおるから、淋しくなって迎えに来たんじゃ」  おじいちゃんの控えめな話し声は、縁側の晃平まで届いていない。 「…おじいちゃん」 「そろそろ、帰るか。晃平に少し、悪い気がしてきたわい」  それに、と一度区切って、おじいちゃんがこちらを向き直る。 「お前だって、晃平が恋しくなる頃合じゃないか」  もしかして、あたしが今さっき思ってたことを、おじいちゃんは気付いて言っているのかもしれない。そう思って、物凄く恥ずかしくなった。 「―――じいちゃんはもう元気になったからの。今度は晃平を慰めてやれ」  やっぱり気付いている。グレーがかった優しい瞳が、何か面白いものでも発見したかのように光っていた。 「……うん」  慰められるのはきっと、ただそこにいるというだけで触れられたいと思っているあたしの方だけど。 「―――こーうへい」  いつまでも縁側でぼーっとしている晃平の隣りに、プリンのカップを2つ持って座る。晃平がおじいちゃんに、と買ってきてくれた有名なケーキ屋のプリンだ。  晃平は、あたしを見るなり自然な笑顔を浮かべた。そして、プリンじゃなくてあたしの手を取る。 「え? ちょっと、こ」  名前を呼ぶ暇もなく、触れるだけのキスをされた。 「…誰かに見られたらどうするの」 「―――別にいいんじゃない? ここは学校じゃないんだから。俺とひなが夫婦だって、堂々と胸を張れる場所だろ?」  そう言って、本格的にあたしの体を引き寄せてもう一度キスする。どうしたんだろう。屋敷では殊更遠慮して慎重に振舞う晃平が。今は誰に見られてもいい、みたいに、ゆっくりとキスを味わっている。 「…だ、駄目だよ、おじいちゃんとかお母さんに見られたらあたし」  そう言って遮ったのは、本当は体の奥が熱くなり始めたから。でも、そんなこと言えるはずもなく。 「プリン食べようよ。おじいちゃん美味しかったって言って、2個も食べてたよ。最後の2個なの」 「そう。そりゃよかった」 「これ食べたら、家帰ろうね」  晃平が目を合わせようとこちらを向いたけど、なんとなく恥ずかしくて目が合う直前で逸らしてしまった。  つい数日前まで当たり前に同じ家へと帰ってたのに、どうしてこんなに気恥ずかしいんだろう。なぜなら、久しぶりに晃平と一緒の家でゆっくりできるから。それが、すごく嬉しいから。  まるで、久々にデートする遠距離恋愛の恋人同士みたいだ。たったそれだけのことが幸せに感じる。  帰ったら何食べよう、何をしよう、何を話そう。プリンを食べながら、そんなことを考える。  <ああ、遮るんじゃなかった>  さっきのキスが恋しい。プリンより甘いあのキスが。  プラスチックのスプーンが止まったことに、晃平が気付いた。  今度は逸らさなかったから、目が合った。 「…そういえば、“続き”がまだなんだよな」  鳶色のガラス玉みたいな瞳が、あたしの表情の一つも見逃さないとばかりに、じっと見つめてくる。 「続きってなんの…。―――っ」  突然思い出されたシーンに、思わず大声を出しそうになった。 「覚えててくれた?」 「おっ、おぼっ、覚えてるとかそういう…!」 「あれ、いいモノ食べてるな」  晃平とは違う声がして、はたと我に返る。そして、晃平の顔を咄嗟に見てしまう。 「もしかして、もう残ってない?」  そう言いながら縁側へと歩み寄ってきたのは、晃平の顔からみるみるうちに表情を奪った―――ゆうくん。  晃平の礼儀としての微笑に、にっこりと笑って返し、あたしの隣りにしゃがみ込む。 「これ、晃平くんが買ってきたのか?」  ―――晃平くん?  あたしが心の中で思わず聞き返したことを、晃平は瞳で問うている。だけどゆうくんはそんなことを気にすることもなく、あたしが手に持つプリンカップのロゴをまじまじと見つめた。 「美味しそう。一口頂戴」  無邪気とも取れる物言いで、ゆうくんはあたしの手首を掴む。  そしてスプーンに乗っていた食べかけのプリンを、そのまま口へと運んだ。 「…………」  晃平の無言が、怖い。 「ん、美味い」  上に乗っていたプリンがなくなったスプーンを再び口元に返されたけど、それをカップに再び戻すことも、かと言ってゆうくんに返すことも出来ず、硬直した。  今のはそう、「ただの間接キス」。だけど、今の晃平の前では、「ただの」間接キスには終わらない。  <…なんで?>  ゆうくんの行動が、なぜだか晃平を挑発しているように見えて仕方がない。  どうしてそんな風に晃平を試すようなことをするんだろう。晃平も晃平だ。どうしてただの叔父の行動に、そこまで不機嫌にならなくてはならない?  いつもの晃平じゃなくさせるゆうくんの行動の理由がわからず、だから晃平が抱える不機嫌の理由もわからず、ただもやもやとした気持ちだけが気分を重くする。  <ゆうくんは、おじいちゃんの体調を気にして帰国したんでしょ?>  晃平の機嫌を損ねるだけ損ねてアメリカに帰るつもりなんだろうか。 「ゆうくん」  なんと聞いたらいいのかもわからないまま、名前を呼ぶ。  質問の代わりに、向こうに行ってよって言いそうになる。  目が合うと、ゆうくんの瞳が、獲物を捕らえたライオンみたいな力強さであたしを覗き込んだ。その強引さにびっくりして、思わず、 「あ、―――ううん」  と言っていた。あんな瞳、今まで見たことがない。  嫌な予感がじわじわと胃の辺りからよじ登ってくる。 「なんだよ、言いかけたなら最後まで言えよ。何か言いにくいことなのか?」 「…いや、…別に…」 「うん。じゃあ何?」  十年前はこんな距離で会話してたんだろうか。晃平と同じか少し遠いくらいの距離に、ゆうくんの顔がある。  ゆうくんが昔と同じように接してくれているつもりなら、あたしが顔を逸らすのは失礼だろうか。そんなことを考えるけど、でも実際近すぎて普通に会話するどころじゃない。 「今度はいつアメリカに帰るの?」  本当に聞きたかったことじゃない質問が、どこかから湧いて勝手に口から出た。 「なに、俺にアメリカ早く帰って欲しい?」  即座に返され、答えに困る。  早く帰って欲しいと思うのは、晃平の機嫌を悪くさせるからだ。それ以外に帰って欲しい理由はない。 「…そんなことないけど」  <ああ、駄目、こんなのじゃ晃平が…>  晃平を盗み見ると、案の定冷めた目をして庭を見つめていた。 「だったら、もう少しここにいたいな」  まるで独り言のような口調。あたしに言ってるのか晃平に言ってるのか。 「かわいい奥さんをつかまえてから帰るよ」  あたしの視界の隅の方にいた晃平が、ぴく、と反応した。 「ひなも協力してくれる?」 「…協力? どんな」  とりあえずゆうくんがアメリカに帰ることが、一番いいような気はする。 「そうだなぁ。じゃあ、また明日にでも。帰りまた迎えに行くから」 「え? もういいよ、あたし明日からマンションから通うし。ゆうくんだっていちいち面倒くさいでしょ」 「俺は全然。言ったろ、俺はひなを車に乗せたいんだって。いいじゃないか、バス代も浮くし」 「いや、それはそうなんだけど。そんなことする暇があったらお嫁さん探しした方がいいよ」  こんな会話、もう何度もゆうくんの車の中でしてる。でもゆうくんは、一向に迎えをやめる気配はない。何度も断ってるのに、次の日には忘れたようにまたやってくる。その繰り返し。  晃平はあれ以来、乗るなとも言わないけど、乗っていいとも言わない。気持ちよく思ってないことだけは、確かなのに。 「とにかく。もう乗らないからね」 「いいじゃん、どうせ晃平くんは、ひなと一緒に登下校できないんだし」  ずっと庭を見ていた晃平が、氷みたいな怜悧な視線をゆうくんへと移した。 「うん? なにか間違ったことを言ったかな」  まるで、そんな瞳で見つめられることを予想していたかのような、余裕の表情。だから、それが晃平を煽るためにわざと言ったんだということに気付いた。 「…いいえ。―――ただ過保護な父兄に付きまとわれて、ひながいい思いをするとも思いませんが」  もしかしたらあたしが思う以上に、この二人の間の空気は荒んでいるかもしれない。  ほぼ1週間ぶりの「家」は、あたしがいない間もさして変わった様子もなく、いつも通りの玄関にオフホワイトのスリッパが二つ並んでいた。 「ただいまぁ」  わざと声に出して言うと、隣で靴を脱いでいた晃平がこちらを見て小さく笑う。  そのままキスされるかと思ったけど、それは思い違いで、晃平はそのままスリッパを履いて中へと入って行ってしまった。  <…怒ってる、のかな…>  帰りの車の中でも、晃平はどこか上の空というか、あたしと一線を引いて会話しているような、そんな感じで、空振りの感触がどうにも拭えなかった。気付かない振りをしてたけど、やっぱり、おかしい。 「なんだか中途半端な時間だな。…ちょっと早いけど、お風呂入ろうか」  Yシャツを脱いでソファにかけながら、晃平が呟く。  お風呂入るって、―――一緒に?  普通に訊けばいいのに、その一言がなかなか出てこない。いつもの晃平じゃ、ないから。 「…どうした?」  リビングのドアのところに棒立ちしているあたしに気付いて、晃平が声をかける。 「あの、…ね、晃平。…ごめん」  晃平がいつも通りじゃない原因は、なんとなくしかわからない。でも、なんとなくでもあたしに非があることだけはわかる。そう思ったら、ごめんと言っていた。  晃平に、無表情で沈黙されるのが一番怖い。もっとどなりちらしてくれた方が安心するのだ。晃平が何も言わないのは、あたしの非が、口にするのも嫌なほどの非だから。それこそ謝って済む問題じゃないけど、どこから切り出したらいいのかがわからなかった。だから、ごめんと言った。  でも晃平は、わけもわからないのに謝ったあたしに、少し苛立ったみたいだった。 「麻生を学校へ迎えに来させるのは、やめたほうがいい」  唐突とも思えることだったけど、晃平の頭の中ではずっと繰り返されていた内容なのかもしれない。  そして、晃平がそこまでゆうくんの車に乗ることに拘ることに、今また疑問が生まれる。 「…うん。―――でも、あれは勝手にゆうくんが来てるだけで、あたしは本当に呼んでないんだよ? なんで“来させる”なんて言い方をするの?」 「どっちにしたって同じだよ。強く断らないから、つけあがってまた来るんだよ。そのうち風紀に呼び出されるよ」  <どっちにしたって同じ?>  全然違うではないか。  晃平は、あたしが強引にゆうくんを振り払うことを望んでいるのだろうか。  <…晃平、なんか、変>  ぎすぎすして、ちくちくして、なんだか窮屈。それと混ざって湧き上がる、寂しさ。 「風紀に呼び出されても、ただの叔父だもん。問題ない…でしょ」  どうして俺の言い分がわからないんだ、と無言の唇が言ってるようだったけど、あたしにしてみたら、どうして家族相手にここまで意識過剰になれるのかを訊きたい。  年が14しか違わないから? あたしが気に入られてるから? 晃平の知らない昔のあたしを知ってるから?  そんなことを並べたって、結局はただの肉親であって、晃平が心配をする理由など一つもない。むしろお母さんと同じ感覚なのに。どうして安心感を抱いたら駄目なんだろう。  <…もしかして、>  はた、として晃平を見上げる。 「…ああ、そう」  目の前に浮かんできた単語を心の中で読み上げようとした瞬間、聞いたこともないような低い声が降ってきた。 「…晃、…平」  そして、別人みたいな、いや晃平が別人というより、あたしをあたしじゃないみたいな目で見つめながら、静かに言い捨てた。 「―――勝手にしろ」
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