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2-6 携帯電話(1)
あたしと晃平が今までしてきた喧嘩と言えば、思えば本当に些細なものだった。
家事の分担についてだったり、晃平が家へ持ち込む仕事についてだったり。
それだってお互いの負担を考えての思いやりの衝突であって、相手の愛情があってこそだったからどこか安心して喧嘩してた。だから喧嘩と言うより、ちょっとした言い合いで終わってしまうばかりだった。
でも今度は、そんな安心感なんて少しも感じられない。
多分あたしが全部悪いんだと思う。あたしの態度が、晃平に嫌な思いをさせているって。
だってあたしは晃平に対して何も苛立つようなことはされていない。
一方的な気持ちの変化が、これほど怖いものだなんて、今まで知らなかった。
この先何が待っているのかなんて、全くわからない。
あたしと同じ気持ちを抱えているわけじゃない晃平と、この先どうなっていくのかなんて。
隣りの体温が遠い。
今まで二人で寝ていたベッドはこんなに広かったんだ、と、空に上った朝日がカーテンの隙間から光をこぼしているのを見つめて思う。もっと狭いんだと思ってた。
だってあたしと、隣りで眠る晃平の間には、体温も感じられないほどの隙間がある。
おはようのキスは、きっと今日は、ない。
1週間ぶりのキスは、きっと、ない。
<…できるわけがないよ>
おはようの挨拶でさえ、あるかどうかわからない。
スプリングを揺らさないように体を起こし、ベッドから降りる。しぱしぱする瞼をこすって寝室から出た。
昨日の夜は、ほとんど眠れなかった。明け方に1時間ほど寝たから一睡も出来なかったわけじゃないけど、でも寝た気はしない。
昨日の夜に受けた冷たい声色に、まるで自分丸ごと拒絶されたようで、心臓がどきどきして眠るどころではなかった。思い出すだけでも、動機が狂う。
拒絶。―――あたしの世界の中心だった彼に拒まれたら、あたしは一体どうなってしまうんだろう。
「おはよう、ひな。どうしたの、顔色悪いよ?」
学校に行くと、既に登校していた美波が声をかけてくる。
「おはよ、…うん。ちょっと、寝不足」
今日初めてまともに喋った声は、ひどく掠れて病人みたいだった。
「寝不足?」
美波に声の心配もされるかもしれないと思って、今度は笑って頷いてみせる。
「どうしたのよ…。今日、2限目体育だよ? 倒れちゃうんじゃないの、ひな」
「…大丈夫。本当にヤバかったら保健室に行くから」
それでも心配そうにしている美波に、意識して笑顔を向けると、それ以上何も言わなかった。
美波は優しい。踏み込んできてほしくないところを、ちゃんと理解してくれる。それは誰にでもできる優しさじゃないと思うから。だから美波には本当のことを打ち明けてもいいと思える。でも今は、打ち明けようと思わない。
<…どう説明できるっていうの>
まだまだ夫婦と呼べるには程遠いことばかりを繰り返しているあたし達を。
「…美波、小田桐くんとは仲良くしてるの?」
「え? 小田桐? ―――うーん、うん。まあ。なんで?」
小田桐くん、とは、美波の彼氏さんだ。2年の夏くらいからずっと付き合っている。晃平のことをあれほど騒いでも、それは芸能人について話すのと同じ感覚だということだ。
「ううん。もう長いよね、って思って」
「あーそうだね。もう一年になるかなぁ。でもなんだろ、彼氏っていうより男友達って感じだからねぇ。喧嘩ばっかりでいい加減色気もないし、ああいうコトしなかったら本当にただの友達」
ああいうコト。
思わず邪まな想像を膨らませてしまったことに、美波が気付いた。
「今エッチなこと考えたでしょ」
「え、いや、別に?」
「嘘ばっか。―――顔に書いてあるよ、“男の子の体ってどんなんだろう”って」
「!! 書いてないっ! もう、何馬鹿なこと言ってるのよ!」
「教えてあげようか? それとも男紹介してあげようか」
「馬鹿美波っ! いらないよそんなもの!」
墓穴を掘ってしまったことに今頃気付いた。慌てて怒鳴ると、後から疲労感がどっと押し寄せてきた。にやにやと笑う美波を横目に、あたしはため息をつくしかなかった。
<…“彼氏っていうより男友達”、かぁ>
あたしと晃平もそんな風だったら、もっと言いたいこともキッパリ言えてたんだろうか。
そう思って、しばらくして首を振る。
言いたいことを言えないでいるのは、あたし自身の問題だ。
放課後、校門をくぐったところでまた黒い大きな車が停まっている事に気付いた。
昨日の今日のことなのに、すっかり忘れていた。
運転席から、ブラウンのサングラスをかけた男が、にっこり笑って手を挙げてみせる。あたしはそれを見て、思わずため息をついた。何も言わずに車の横を通り過ぎる。
「おいおい、ひーな。無視はないだろう、無視は」
存外大きな声で呼び止められて、他に下校していた生徒がちらちらとこちらを振り返る。このまま無視し続けても、ゆうくんはしつこく大声で呼び続けるだろう。
「…あのね、ゆうくん。―――もう乗らないって、あたし言ったよね?」
オシャレでかけているサングラスが、あたしの目には殊更陽気に映って、余計に腹が立つ。
「どうして迎えに来たら駄目なんだ? こうしてお前は、一人で歩いて帰ってるじゃないか」
「うん、それが普通なの。あたしは普通の生徒なの。毎日送り迎えしてもらうほどお嬢さまじゃないの」
「ひながお嬢さまじゃなくても俺は迎えに来るよ」
堂々巡りの気配が漂う言い合いに、あたしは小さくため息をついた。
「なんで? ゆうくんは、こんなことをするために日本に帰ってきたわけじゃないでしょ?」
「こういうことをするために、帰ってきたんだよ」
思わず返す言葉を失った。
口ごもるあたしを見て、ゆうくんはおかしそうにクスクスと笑った。
「俺は、ひなを学校まで迎えに来るために海を越えて戻ってきたの」
こういう冗談には慣れてない。というか、言われたことがない。
きつく返せない自分が、また少し嫌いになる。こういう自分が、晃平を不快にさせていると言うのに。
「…でも、いい。一人で帰る。これ以上は、『邪魔』っていうんだよ」
微笑も浮かべずに言うと、そのまま歩き出す。
しばらく歩いてから、突然腕を掴まれた。心臓が飛び出るほど驚いたあたしは、反射的に後ろを振り返る。そこに、サングラスを外したゆうくんがいた。さっきまでの微笑の欠片も残らない、マジメな顔。
「…―――え?」
ぎくり、とした。
ゆうくんの顔に、知らない表情が見えた気がした。
「…な、に?」
だけどゆうくんはあたしの問いに答えなかった。
代わりに、物凄い勢いであたしの腕を引っ張り、そのまま車の助手席に半ば強引に突っ込んだ。驚いてゆうくんに何か言い返そうとすると、バタン!と勢いよくドアを閉められる。呆然とする間に運転席に戻ってきたゆうくんは一言、
「泣きそうなお姫様を放ってはおけません」
そして、こちらを向いてにやりと笑う。
「な、―――ちょっと、ゆう…っ」
「出発進行♪」
<ちょっと待てー!!>
こういうのを誘拐って言うんじゃないだろうか。
あたしの意思を完全無視したゆうくんの暴挙。
だけど運転席で鼻歌なんか歌われては、こちらも怒る気力もわかない。ただでさえ、寝不足で力が入らないのだ。もう家につれて帰ってくれるならそれでいいや、とほとんどヤケになってシートに沈んでいた。
だけど、連れてこられたのは屋敷ではなく、ましてマンションでもなく。
河川敷に面した大きなグラウンドのそばの土手だった。
「…なんで、こんなところ…」
土手の適当な場所に勝手に座ったゆうくんのそばに立ち、あたしは呆然と立ち尽くした。
「悩み事を聞くには、丁度いい場所だと思わないか?」
穏やかな春風に目を細めながら言ったゆうくんに、あたしは逆に腹が立った。
―――誰のせいでこんな思いをしてると思ってるのよ。
無知って恐ろしい。知らないっていうだけで、こんなことが簡単に出来てしまうんだから。
「…悩み事なんてない。―――帰る。ゆうくんに送ってもらわなくても帰れるから」
そのまま歩き去ろうとしたあたしの背中に、ゆうくんの低い声が投げかけられる。
「あの、居心地の悪い家に帰るの?」
思わず足が止まった。
「喧嘩したんだろう? あの男と。それも、一方的な彼の憤りで」
「………。ゆうくんには、関係ない、じゃない」
「あの男もいい加減、若いっていうか器が小さいっていうか…。大体、まだ高校生の女を嫁に貰おうと思って、それを実行に移すところが考えなしだよ。どういう問題が待ってるのかも、本当はちゃんと理解してなかったんじゃないか」
絶句した。
まさかゆうくんが、晃平の悪口を言うとは思ってなかった。なんとなく良くは思ってないことはわかってたけど、こんな風に批判されると、本当に一かけらも好意など持ってないんだと言うことを目の当たりにした気分だ。
「守るべき女を守ってやれない。それって、無責任もいいところじゃないのか。守るどころか、こうして傷つけて。ひなは、それでいいのか? あんな男と結婚して後悔してないのか?」
「…………」
「付き合ってるんじゃないんだぞ。―――結婚して、一生あの男一人と付き合っていくんだぞ」
カキン、と小気味いい音がした。
土手の下のグラウンドで、何人かの小中学生が草野球に熱中していた。
「ひな。―――いい加減、目を覚ましたらどうだ」
「…………」
「男は、あの男一人じゃないぞ。あいつよりもいい男は、他にもたくさんいる」
「…………」
「ひな」
「ゆうくん、勘違いしてる」
「…勘違い?」
「あたしは、晃平がいい男だったから好きになったわけでも、守ってくれるから結婚したわけでもないよ」
グラウンドから視線をゆうくんに合わせると、ゆうくんは真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「あたしが晃平と一緒にいたくて、晃平を幸せにしたいって思ったから結婚したの。それ以外に理由なんてない。守ってもらいたいだけなら、それは好きとは違うよ。ただ甘えたいだけ」
「――――」
「それにね。ゆうくんには、晃平はいい男に見える? …あたしには、そうは見えないよ」
そう、晃平は、本当は『いい男』なんかじゃない。『いい男』の仮面を何重にも被った、『悪い男』なのだ。
でなければ、あたしはこんなに振り回されたりしていない。
「…―――ひな」
「…だから。…―――だから」
だから、…何だろう?
この先どうなるかもわからない関係に、永遠の愛を誓ったあたし達は今何をしているのだ?
「…ゆうくん、晃平と喧嘩した理由を、気付いてるんでしょ? だったら、少しくらい遠慮とかしてよ。そりゃ、ゆうくんの迎えが嫌なわけじゃないんだよ。でもあたしの最優先したいものは、ゆうくんの迎えじゃなくて、晃平なんだよ」
ふくらはぎまでの丈の雑草が、風に揺れてさわさわとそよぐ。
向こうの川やグラウンドがオレンジ色に染まり始め、野球をしていた少年達も、ホームに集まって帰り支度をしている。
「ゆうくんの優しさは、すごく嬉しいけど。でも」
スカートのポケットに入っていた携帯が、突然鳴り始めた。会話を中断して携帯を取り出すと、晃平からの電話だった。
一瞬戸惑った顔をしたあたしを、ゆうくんは見逃さなかったらしい。
「―――誰から? あの男?」
「ご、ごめんあたし、本当に帰る。送り、いいから。ありがとう」
慌てて踵を返したあたしの腕を、またゆうくんが掴んだ。座っていたのに、動作が速すぎてさっき以上に驚いた。
振り向くと、今度は息を呑むほど近くに顔が迫っていた。
携帯は、ずっと鳴り続けている。軽やかに流れるメロディが、雑草の葉擦れの音に一瞬かき消される。
「―――許さないって言ったら、ひなはどうする?」
「…え? 何を」
「俺が本当に、ひなを迎えに海を越えて来たんだって言ったら、お前は」
「――――」
腕を掴まれているところから、ちくちくと痛みが走る。だけど、痛いなんて言葉さえ出てこない。
なんでこんなに、硬直してしまっているんだろうあたしは?
「…お前は知らないのか。…俺は、鮎川千造の本当の息子じゃないってこと」
「…え…?」
「わかるか? 俺とお前は、ただの男と女なんだよ」
そう言って。
ゆうくんの顔が更にあたしに近付けられたかと思うと、唇が頬をかすめた。
驚いて、力いっぱいゆうくんの体を突き放す。と、体がよろめいてそのまま土手に尻餅をついてしまった。
呆然と見上げた先に、ゆうくんの真剣な表情がある。
「…立てるか?」
差し伸べられた手のひらが、今まであたしの頭を撫でてくれていた手と別物に見えた。当然、その手を取る気にはなれなかった。
「…なんで…」
驚きの後には、怒りや憤りよりもまず、津波のような悲しみと寂しさが押し寄せてきた。
大好きだった叔父のゆうくんは、実はあたしを「姪」としてではなく、「一人の女」として、そういう目で見ていた。そういう目で、あたしをかわいがってくれていた。
どうしようもない絶望感が胸を押しつぶしそうで、声が詰まった。
あの手は、全部嘘だった。あの笑顔は、全部。
「…ひな…?」
もう、何かを言い繕うとも思わなかった。
代わりに涙が溢れてきて、でもそれをゆうくんに慰められたくなくて、そのまま土手を走って、逃げるようにその場を去った。
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