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2-6 携帯電話(2)
お前を好きだと思うたびに自分が自分じゃなくなっていく。
時に子供じみてお前を傷付けたり、時に乱暴な言葉でお前を挑発したり。
嫌いな自分ばかり露になっていくのに、どうしてお前は好きでいてくれるのだろう?
携帯に電話をかけたところで、ひながすぐに出てくれるとは思わなかった。
今朝まともにおはようも言ってないのに、突然何事もなかったかのように電話をかけられても、どう出たらいいのかわからないだろう。だが、何事もなかったわけではない。
―――また来てますねぇ、あの車。
里見先生の呟きを、今度は聞き流してしまった。そうですね、なんて軽い相槌も打てなかった。要するに、唖然とした。
麻生が乗る車は、アメリカ産キャデラックのエスカレード。高いものでは軽く1000万を超す高級ブランドだ。車の全長、幅、重量をとってみても、アメリカ人仕様らしくごつくてダイナミック。乗りこなすにはそれなりの覚悟と度胸が必要で、それ以前に日本では全くと言っていいほど見かけない代物である。そんな車をあの麻生が運転しているという。
<…似合いすぎて怖いくらいだ>
嫌味なまでの、あの自信に満ちたオーラ。自分を取り巻くオプションでさえも普通と違う。
自分も大概、はた迷惑な自信家だと思っていたが、上には上がいるものだ。
―――そういえば、先週学校に連絡があったそうですよ。あの車なんとかならないのかって。いい加減、校風を疑われても困りますしねぇ。また来たら注意しようと思ってるんですけど、一体誰を待ってるんでしょうね?
3年の鮎川です、と答えかけたが、あえて何も言わなかった。
頭の中は、それどころではなかった。
バタン!と音がして玄関の方を振り向くと、どこから走ってきたのか、息を荒くしたひながリビングに飛び込んできた。
ソファで本を読んでいた俺に気付いて、ひなは荒かった息を一瞬止めた。そして、目を逸らして気まずそうに、
「…た、…ただいま」
と言った。
電話に出られなかったことが、ひっかかっているわけじゃないことはわかった。まして麻生にまたどこかへ連れ去られたことを申し訳なく思っているわけじゃないことも。
ひなはただ、俺が昨日放った言葉を、ずっと気にしている。
伸ばしかけた手も、出かかった声も、寸前のところで止まってしまう。
<…もっと他に、言い方はなかったのか>
―――勝手にしろ。
ひなの前にいる自分が、そしてその自分がたった今もひなを傷つけているということが、途方もなく情けなくていたたまれなかった。
どうやってこの距離を縮めるのかも、今の俺にはわからない。ただ腕を伸ばして抱き締めれば、それで済む距離じゃない。何事もなかったように振舞うことは、ひなに背を向けていることと同じ。だったら、どうすれば。
「ごめん。ひな」
突かれたようにひながこちらを振り返った。
「…昨日…、―――あんなことが言いたかったんじゃなくて、俺は」
結局平謝りをしてしまう自分は、いったいいくつの子供なのだ。今更なことだが、俺はひなを相手にすると今までの経験など一つも役に立たない。
ひなの瞳が、驚いたように大きく揺れた。
「…俺は、ひなを傷つけたくなかったんだ。本当は。…でも実際は、何よりも俺がひなを傷つけた」
本当にごめん。
呆然とするひなの視線をじっと受け止める。
俺は、あの男の素性をひなにぶちまけて、ひなが傷つくのではないかと恐れた。だがそれが、逆効果だった。柔らかく警告したはずが、突き放して傷つけただけだった。
「…―――違う、晃平」
だがひなは、泣きそうになりながら首を振る。
「…ひな?」
俺の呼びかけにも答えず、ただ壊れた人形のように首を振り続ける。何に震えているのか両腕で体を抱き、そして俯いてしまう。俺はそのひなの白い腕に、赤い痣を見つけた。
「―――ひな」
思わず詰め寄っていた。
突然すぐ目の前に立たれて、ひなが怯えたようにゆっくりと俺を見上げる。瞼のふちが赤く染まっていて、今にも涙が滲みそうだった。それが言葉にならない俺の問いかけの、答えだった。
「…し、…知ってた…の? …晃平は、もしかして」
息が止まった。
さっきまで一緒にいたであろう男の顔を思い浮かべると、はらわたが煮えくり返りそうだった。
何がかわいいシンデレラだ。
守るものも守れない情けない男だと俺を非難しておいて、一番ひなを傷つけているのはお前じゃないか。ひなが傷付いていることにも、傷付くであろうことにも気付かずに。
ひと時の傷じゃない。あの男とひなが血が繋がっていないということは、少なくともひなの記憶の中の思い出と、これからのあの男とひなの関係にも決定的なヒビを入れてしまう。
ひながあの叔父のことをどれだけ大切にしていたかは、ひながあの男を10年ぶりに再会した時ですら無意識に口にした、「ゆうくん」という呼び名でわかった。
ひなは大抵無防備に人に懐くが、それは誰でもってわけではない。本当に心を許すようになるまで、俺だってそれなりに苦労はした。だからわかる。あの男は、ひなの手放しの信頼を得ている人間だったと。
だが今ごろになって血の繋がりがないことを口にして、しかも同時に求愛までされたら、ひなが今までの絆を嘘だったのだと疑ってしまってもしょうがないことではないのか。
先に無防備な信頼だけ心に植えつけさせて、その後に泥を塗るように男女の恋愛感情を持ち込む。受け入れやすくなった心に、それはどんな形で入り込んでしまったのか。
今までと形の違うそれを、純粋な愛情ではないそれを。
自分を男として受け入れやすくするように、今まで信頼できる叔父を演じていたのかもしれない。あるいは、二人の間に結ばれていた絆は、ただの男と女であったからほどけてしまう薄っぺらい絆だったのかもしれない。それは、信頼していればいるほどダメージも大きい。
しかも血が繋がっていないことは、嘘じゃない。嘘じゃない限り、ひなの中での「ゆうくん」という存在は偽りの存在に過ぎなくなるかもしれない。
だからこそ言わなかったのに。
あの男はひなと血が繋がっていないから、男として気をつけろなんてことは。
言わなければならないことを我慢すると、今度は言ってはいけないことが口から飛び出た。
嫉妬に嫉妬を重ねた、ぎりぎりの精神状態での間違った選択。
結局ひなを守れるはずの俺でさえもひなを傷つけてしまったのだから、麻生のことを偉そうに非難はできない。
だが、ひなを傷付ける事が何かもわからないでいることだけは、どうしても許せない。
「…。何を、されたんだ? あいつに」
ひなを怯えさせないように、できるだけ穏やかに声を出す。
だけどひなは、言いたくないのかずっと黙ったままだ。目尻に涙を溜めて。
「…ひな。怒らないから。―――もとはといえば、俺があんなことを言って」
「晃平は何も悪くない…っ! 晃平は、知っててああ言ったんでしょ? だからあたしが言い返したことに腹が立ったんでしょ。言わないでいてくれた理由も…今わかった」
ぽろ、と涙が頬を伝う。
さっきまで泣いていたのだろうか。涙は一粒こぼれると、あとはなし崩しに流れ始める。一旦止まっていた涙がまた溢れ始めた、そんな感じだった。
する、とひなの赤い痣に触れる。途端に、ひなはびくりと体を揺らした。
それが多分、何かの合図だった。
俺に怯えたわけではないことはわかった。―――俺を通してあの男に怯えたのがわかったから、何かの糸が切れたのだ。
「―――っ! ん、晃平…っ」
ひなの息苦しそうな声が聞こえても、やめようという考えは微塵も湧いてこなかった。
ソファに押し倒し、驚いているひなと目を合わせない振りをして、首筋に噛み付くようにキスをする。やはり驚いたひなが、体を硬くして小さく悲鳴を上げた。
何を、しているんだ俺は。
意識の一番遠いところで冷めている何かが、見下ろすように問いかける。
また傷付けようというのか、俺は。
今一番求めていないことかもしれない。それをわかっていてやってしまう俺は、もう旦那失格なのではないか。嫉妬と独占欲に雁字搦めになって、自分の衝動だけに素直になって。何も答えないひなが、一体なにをされてきたのかといやらしい想像を煽る。普通の状態ではない思考回路が、とめどなく下らない想像力を働かせる。
事実からかけ離れて出来上がった妄想に、妄想だと分かっていながら嫉妬する。
誰か止めてくれ。
ひなの口から戸惑いと一緒にこぼれ始めた嬌声に、頭がおかしくなる。
「…何を…、された? ―――これは?」
細い脚を乱暴に広げ、ひどい言葉で傷付けているのは、一体誰だ。
「や、あ…っちが、そんなことされてな…っ」
きっとひなは、俺の暴走に混乱しているはずだ。冷めて見下ろす俺がそんなことを考える。そしてそれを暴走する俺に伝えてくる。ひなの体に触れたそばから、後悔が押し寄せる。
これは一体、愛撫なのか嫉妬なのか。そのどちらでもあり、そのどちらでもない。
そんな区別すらもわからないほど、頭の中はひなに対する気持ちで荒れている。
ふいに、ひなの両手が俺の背中に回った。
「…っ、ひ…な」
動作をやめて、ひなを見下ろす。
この時に見たひなの表情を、どう表現したらいいのだろうか。
怯えが滲んでいるはずの顔には、そんな欠片は少しもなく、代わりに必死になって俺を受け止めようとする健気な強さがそこにあった。本当は無理なのかもしれない、でも受け止めないと俺が離れて行くかもしれない、傷付くかもしれない。そういう不安と背中合わせの、優しい瞳が俺を見つめていた。
我に返った。頭が冷えていくには十分だった。
「…ごめん……」
頭に冷水を被せられた後のように、思考回路がしばらく停止する。
だけどひなは、離れようとした俺の腕をしっかりと掴んできた。
「…―――やめないで」
「―――ひ、な」
「やめたらやだ…」
もしかして俺は、―――いやもしかしなくても俺は、ひなのことを思った以上に甘く見ていたようだ。
<…どうするんだ、俺は>
こんなに愛しい女を見つけてしまって。
もう手放せないと何度実感すれば気が済むのだろう。
激しく突くだけの行為はやめて、じっと留まり、癒すようにその肌に口付けを落とす。
すると、心の中は穏やかになっていくのに、ひなに対する気持ちだけは反対にどんどん募っていく。こんな愛し方を教えてくれたのも、たった一人、ひなだけだった。
まさに1週間ぶりの触れ合いなのに、なぜ俺は。後悔を優しい愛撫に変えて、何度も何度もその髪を撫でた。
「…ずっと触れたかった」
こうして、体温を感じて。
「…あたしも…」
ひなの顔から、さっきまでのぐちゃぐちゃとした感情が綺麗に消えていく。
代わりに、眠りにつく前のような無邪気な表情を浮かべて俺を見上げてきた。
そして、少しだけ物欲しそうな上目遣いで俺を見ると、そのまま目を伏せる。―――だから俺は、こんなに愛しい女にそんな目で見つめられて一体どうすればいいのだろう?
再び動き始めると、ひなは驚きもせずにそれを受け入れる。ゆっくりと焦らすような動きに、ひなが首をゆるく振った。激しい愛撫で煽られた欲望は、激しい最後を期待していた。
「…も…っと」
その声が聴きたくて焦らしていたことを、ひなは気付いていない。
動きを早めようと腕に力をこめたその時、どこかから軽快なメロディがリビングに響いた。
床に放られたひなのスカートのポケットに入っている携帯だと気付くまで、そうかからなかった。イギリスの有名女性シンガーのラブソングが、軽快に流れ続ける。
<…―――また電話?>
今度こそ最後まで、と思っていた矢先に今度はなんだ。
俺を見上げたひなに微笑を向けると、体勢はそのままひなのスカートのポケットから携帯を取り出す。ディスプレイを見て、思わず顔が固まった。
“麻生佑介”と、ひなの携帯は素直に教えてくれている。
<…上等>
偶然なのかどうかは知らないが、ここまで素直に邪魔されてたまるか。
「…誰…?」
「ん? …さぁ」
延々と鳴り続ける携帯を向こうのソファに放ると、ひなの両脇に手をつく。ひなを視界の中央に据えるともう携帯のことは忘れ去って、いつの間にか行為を再開していた。
電話の相手が気になっていたひなだったが、容赦ない腰の動きに耐えられなくなって、携帯の呼び出し音すらも自分の声でかき消していった。
いつまで携帯が鳴り続けていたのか、それもわからないほどに。
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