2-7 強い手と長い睫毛

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2-7 強い手と長い睫毛

 朝目が覚めると、目の前で晃平がこちらを向いて、あたしの顔を見つめていた。 「―――おは、…おは、よ?」  びっくりしてどもってしまった。  そんなあたしを見て小さく笑った晃平が、体の奥に響く甘い声で「おはよう」と囁く。つい数時間前に聞いていた声と同じだと思って、あたしはそれ以上言葉が出てこなくなる。  すぐそばで、息も触れるほど近くで、晃平は何をするでもなく、何を言うでもなく、あたしの顔を見つめている。なんで見てるの、とか、いつから見てたの、とか、もっともな質問さえ出てこないほど晃平の視線は穏やかだ。 「…起きるの面倒くさいな」  ぽかんとしたままのあたしの額や頬にキスを降らせる晃平が、最後に唇に触れながら呟く。 「いっそのこと学校休むか」  昨日あのまま倒れるように眠り込んでしまったので、二人とも服を着ていなかった。カーテンの隙間からこぼれる朝日が、晃平の上半身の曲線を浮かび上がらせた。 「晃平が言うと、本当に本気に聞こえるよ?」  くしゃくしゃに乱れて枕に広がっているあたしの髪を触りながら、晃平は小さく苦笑する。 「…うん。今8割くらい本気」  そしてあたしの体の上に柔らかく体重をかけてくる。セピア色の陰を背負っている晃平の表情は、今が朝だということを忘れそうになるほど気だるげで挑発的だ。  触れ合う素肌が簡単に昨日の名残を思い出させる。慌てて晃平の胸を押しやりながら、 「ちょ、ちょっと晃平っ、駄目だよ、学校行かないと…っ」 「いいから、ちょっとだけ」 「なにがちょっとだけ…、―――んっ」  晃平の右手が、あたしの胸にベルベットのような滑らかさで触れる。阻止しようとしたあたしの手を無視して強引に口付けてくる。あたしだって学校を休めるのならこのまま休んでもっと晃平のそばで寝ていたいのだ。  冗談半分でもそんな風に触れられたら、止まらなくなってしまうではないか。 「脚開いて、ひな」 「―――だっ、だめ」 「…。ふぅん。あ、そう。―――わかった」  見事な三段返しで答えると、晃平はごそごそとシーツの中にもぐっていってしまう。慌てて追いかけようとした時、ふいにお腹の上にびっくりするような重みを感じて驚いた。シーツを剥ぐと、晃平があたしのお腹の上ですぅすぅと寝息を立てていた。 「え?」  …寝ている。しかも唖然とするほどぐっすりと。  なのにあたしの腕を掴んでいる手の力は、さっきと変わらない。しっかりと握られたままだ。  それがおかしくて嬉しくて、思わず吹き出してしまった。そして何の拍子もなくこんなことを考える。―――大好き。  こんな朝が、こんな晃平が、あたしはすごく大好きだ。  教室の窓から、校門が見える。  午後の授業が始まると、校門の方を見るクセがいつの間にかついてしまっていた。  <…なんだかんだで1週間、だもんな>  来ないでいいってあれだけ言っても、次の日には何の躊躇いもなくやってくる人だ。そして、迎えに来る前にあたしが帰ってしまうことも想定してか、6限の授業の途中には既に来て待っている。もしかしたら今日も来るかもしれないと、少しだけ思っていた。  だけど、6限が始まっても校門の向こうに、あの黒い車体は見つけられなかった。  ―――俺とお前は、ただの男と女なんだよ。  ゆうくんからの、突然のキス。  気持ち悪いとか、怖いとかは思わなかった。ただ、ひたすらにショックだった。それは、たとえばお母さんに同じことを言われても、同じようなショックを受けたと思う。あたしはそういう風にゆうくんのことを見ていたし、ゆうくんもあたしのことを娘のように見ているんだと思っていた。  だけどそれは違った。いつどこで、それが変わっていったのかわからない。でも、あたしのことを本当の姪としてみていなかったのだったら、そういう感情を抱くことは、可能性としてはゼロじゃない。  冷静になって考えてみたら、あたしがゆうくんに対して裏切り者、と非難する権利はないのだ。  本当の姪よりも遠い存在のあたしを、ゆうくんはずっとかわいがってくれてた。それが嘘だったなんて、どうしてあの時思ってしまったんだろう。嘘だったのなら、初めからあたしはゆうくんにあんなに大事にされなかった。あの優しさまで疑ってしまった自分が、凄くひどいと思う。  でも、もしかしたら晃平がいなかったら、こうは思ってなかったのかもしれない。  ―――叔父だろうがなんだろうが、お前に信頼されてる男は皆、嫉妬の対象だよ。  昨日の夜、晃平は気持ちいいくらいに清々しく言ってのけた。  ―――千造おじさんだって、俺の中ではライバルだから。  まるでそれが当たり前のことのように堂々としてるから、あたしが今まで常識だと思ってきたことが、実は違うんじゃないかって思えてきた。晃平があたしに対して、少しは気付けよって言ってくることも、それがなんでなのか、何に気付くのか、やっとわかった気がする。  優しさの出所が、昔と今とで違っていた。あるいは、もとから違っていたことに今気付いた。  それってつまり、やっと相手と真正面から向き合ったってことなんじゃないのだろうか。  <…今頃、遅いよね…>  ゆうくんの前で、あんな顔を見せてしまったことを謝りたい。それから、あたしはゆうくんにはそういう気持ちは持てないんだってこともちゃんと話したい。  あたしの中でのたった一人は、彼だけだから。 「ひな、今日テニス部の練習見に行かない? 試合あるんだって。部内で」  放課後、隣りのクラスの高畑さやかと一緒に、美波が声をかけてきた。 「あ、小田桐くんたち出るんだ。うん、いいよ」 「ついでにひなと仲良くなりたいっていう男子も紹介してあげる」 「はっ? なにそれ、いいよ別に!」 「ひなはいらないだろうけど、向こうが紹介してしてってうるさいのよ。とりあえず、顔合わすだけでも合わせてよ。それから振るなり付き合うなりは勝手だから」 「いや、行かない。だったら行かない」 「なによ、ちょっとくらいいいじゃない。気分いいよ~? ちやほやされるのって」 「ったくこんなボンヤリ娘のどこがいいんだか、男共は」  そんなことを愚痴りながら、美波とさやかはあたしを両脇から押さえると、そのままずるずるとテニスコートまで引っ張って行った。あたしは逃げることもかなわず、ひたすら文句を言いながらそれに引きずられた。  テニス部で行われていた試合は、放課後の勉強に疲れた体のどこにそんな余力が残っているのかと思うほど、パワフルで勢いがあった。まだ5月なのに汗を流してコートを駆け回るプレイヤーに、確かにかっこいいと声援を送りたくなる。  さやかと美波の彼氏も試合に出ていた。それでかどうか、ベンチまで貸してもらって堂々と座っている。あたしはというと、彼氏がテニス部所属というわけでもないのに、その二人に引きずられるまま二人の真ん中に座っていた。一番気が引ける場所だ。  小田桐!とか、行け!とかの、鋭くて大きな声が飛び交う。  普段は制服のズボンを腰履きして、シャツもだらりと羽織っただけのような小田桐くんも、ユニフォームを着てラケットを持つと、人が変わったように機敏にコートを走り回る。そして、スマッシュを打つたびに男らしい掛け声を上げる。  <…そういえば晃平もテニスやってたんだっけな>  高校時代はテニス部で、よく合宿だのなんだのって県外に出ていた。高校生の晃平を想像し始めたところで、コートのフェンスの向こうに見える校門に、ふと黒い影を発見した。 「―――あ」  あたしの声に、振り向いた側に座っていた美波が気付いた。 「どうしたの」 「あ、いや」  車だった。あたしが今日は来ないだろうと思っていたゆうくんの。  それにしては来るのが遅めだ。そんなことを思っていると、運転席からゆうくんが降りてきた。サングラスをはずしてシャツのポケットに入れると、そのまま校門をくぐって校舎へと歩いて行ってしまう。  <え…? なに、なんで?>  はた、とした。  ―――そのうち風紀に呼び出されるよ。  つまり、そういうことなんだろうか。でも、わざわざ学校に呼びつけるほどのことだろうか?  それにしてもどこからゆうくんの連絡先をつきとめたのだろう。アメリカでは活躍しているカメラマンだけど、まさかそんなことはこんなところでは関係あるまい。  <…気になる>  それから数十分ほどしてから、ゆうくんは車のそばに帰ってきた。  テニスの試合も最後の一試合の3セット目で、小田桐くんもさやかの彼氏の篠田くんも、それぞれ彼女と話をして盛り上がっている。例の人を紹介させられる前に帰ろうとしていた時だった。  校門のそばまで降りてきたのはゆうくん一人ではなく、二人の先生と一緒だった。二人の先生のうちの一人は晃平。それを見て、あたしはギクリとなる。  フェンスの扉を越えて外に出ようとしたあたしに、ゆうくんが気付いた。 「―――なんだ、珍しいところから出てきたな」  なんの逡巡もなく、ゆうくんはにっこりと笑う。昨日のことなどなかったかのように。  安心はしたけど、でもそのすぐ次には後悔のような自責の気持ちが胸を覆う。  あたしに気付いた晃平は、驚いたようにこちらを見、そしてさりげなく目を逸らした。なぜゆうくんがここにいるのか、それを説明するつもりはないみたいだ。代わりに、隣に立っていた風紀の高須賀先生があたしに言う。 「鮎川さん、こんなところにいたんですか。呼び出ししても来ないから、もう帰ったのかと思ってましたよ」  えっ、とあたしは引きつった声を出す。 「ご、ごめんなさい」 「もういいですよ。鮎川さん、ご家族に迎えに来てもらうのはいいけれど、もう少し場所と時間帯を考えてくださいね。こういった目立つ車だと、校風を疑われかねませんから」  30歳をとうに過ぎたおばさんの高須賀先生は、耳にかけた髪を、垂れてきてもないのにかき上げる仕草をしてみせる。 「はい。…すみません」  あたしが素直に謝ったことを皮切りに、勢いをつけた高須賀先生が説教を始めた。 「だいたい鮎川さん。あなたも常識があるんだったら少しくらい考えたらわかることでしょう。こんな大きな黒塗りの車が毎日校門のそばに止まっていたら。どんな生徒がいるんだって思われても仕方がないとは思いませんか」 「…はい」 「車が悪いって言ってるんじゃないんですよ。ただ、時間と場所を選べと言ってるんです」 「もういいじゃないですか高須賀先生。その話は麻生さんの方に散々してきたところでしょう」  話が飛躍しそうだった先生を、晃平が止めに入る。 「鮎川も反省していますから」  内的な事情までは知らない先生は、あたしが一方的にゆうくんを呼びつけていたということになっているらしい。でも、晃平は本当のことを知っているから、全然焦らなかった。 「すみませんでした」  ぺこんと頭を下げて、上半身を上げた時だった。  ―――ガッ  鈍い音がどこかから聞こえたかと思うと、左の足首に鋭い熱を感じた。 「いっ…」  痛い、と声を出したつもりだったけど、実際は言葉になってなくて、その代わりにその場に尻餅をついてしまっていた。 「―――ひな!?」  何、と思って辺りに首を巡らせると、テニスコートの方からユニフォームを着た男子がこちらに慌てて走り寄ってきていた。彼氏と話をしていた美波達も、何事かとこちらを向いている。なんでそんなところにいるの、という顔を、さやかがしていた。 「大丈夫ですか!? ごめんなさい、ボールぶつけましたよね!?」  あたしのそばにしゃがみ込んだ男子が、赤くなっていくあたしの足首を見て、あわあわと口を押さえた。 「あ、ボール…だったんだ。何が飛んできたのかと思っちゃった」  はは、と苦笑したあたしの隣りに、晃平とゆうくんもしゃがみ込む。 「大丈夫か!?」 「足首に当たったのか」 「うん、あ、大丈夫だよ。だってテニスボールでしょ。平気平気…――と、わっ!」  泣きそうになっている2年らしきその男子に笑顔で手を振っていると、横から手が伸びてきた。かと思うと、両脚を掬われ、ふわりと体が宙に浮く。 「――――」  その時、その場に居合わせた誰もが言葉を失った。  あたしですらも、何の言葉も頭に浮かんでこなかった。晃平の顔との距離がやけに近いな、なんてとぼけたことしか考えられない。 「ちょ、ちょっと…こ、―――天宮先生っ?」 「やせ我慢しない。痛いんだろ、思いっきり。いいから体の力抜きなさい」  かかかか、と顔に急激に熱が集まっていくのがわかった。  しゃがみ込んでいた男子も、高須賀先生も、ゆうくんまでもが唖然としている。担架が必要なほどの重傷ならまだしも、ただボールが足に当たっただけだ。笑える元気もあるあたしを、誰が抱き上げようと思いつくだろうか。  だけど晃平は冗談でしているようにはさらさら見えない。むしろ授業中よりも真剣な表情で、あたしの体を抱いている。  公衆の面前だというにも関わらず、晃平の体温と腕のしなやかさを感じて、顔が赤くなる。  心臓が飛び出そうなほど激しく鼓動し、気が付けば息まで止まっている。頭は、酸素が十分に行き届かず思考停止している。 「あ、…天宮せんせ」 「保健室に行ってきます。―――心配せずに部活に戻りなさい」  有無を言わせぬ笑顔でその男子に言うと、あたしの視線にもコートの方から注がれる視線にも気付かない様子で、颯爽とその場を歩き去った。  その後コートにいた人たちがどんな会話を交わしたのか、晃平に連れ去られたあたしには知る由もない。
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