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2-8 新しい世界
たとえば、美味しい料理を作れる腕。
あなたの難しい話にもついていける知識の量。
隣りを歩いても、綺麗な女の人を見ても、堂々としていられる自信。
それから、優しさと強さ。
もう何もいらないと思っているくせに、あなたに好きでいてもらうために欲しがるものはこんなにたくさんある。
でもそれはきっと、矛盾ではなくて、あなたを好きだと思うからこそ生まれてくる願いで。
多くを求めるわけじゃない。失いたくないものを、失わないでいたいだけ。それは多分、欲張りとは違う。
こんな気持ちを教えてくれたのも、与えてくれたのも、あなただから。
あなたという存在が、あたしの新しい世界。
「まったくびっくりしちゃったわよ~。思わず持ってたコップを落としちゃったじゃないの」
赤木先生は、あたしの足首に包帯を巻きながらクスクスと笑った。
あたしが腰掛けている診察用の黒皮のベッドの隣の回転椅子に、晃平が黙って座っている。
さっきからおかしそうに話す赤木先生に対して、返す言葉もないようだ。
「……。あの、赤木先生…。もしかして」
さっきから気になっていたことを思い切って訊いてみる。すると、先生はきょとんとして返した。
「ん? なに、鮎川さんが天宮先生の奥さんだってこと? 知ってるわよ。もうずっと前から」
「――――」
無言で晃平を見つめると、晃平は気付かない振りをして先生の手際のいい処置を見守っている。
<こ、…晃平の馬鹿…っ>
いつの間に話をしていたのだ。あたしに一言くらい報告があってもいいところではないか。
<帰ったら問い詰めてやる>
密かに決意を固めていると、包帯を巻き終わった先生が、
「よし終わり。後は夜寝る前にもう一度湿布かえた方がいいわね。それからあまり歩き回らないこと。そうね、今日から天宮先生に登下校送ってもらったら?」
「―――え? いや、そりゃ無理でしょ」
「どうして? だってここまで堂々とお姫様抱っこして来れる度胸があるんだったら、車での送り迎えくらい容易いもんでしょう。ねえ、天宮くん?」
話を振られた晃平は、一度赤木先生を見、そしてまた目を逸らしながら、そうですね、と言う。
赤木先生に押され気味だと思うのは、気のせいだろうか。それとも別の考え事か。
「…。天宮先生?」
不思議に思って声をかけると、晃平は片手で口を覆い、
「…まずい…かもしれない」
至極、力の籠もらない弱弱しい声で、地を這うような口調で呟く。
「? 何が?」
今更あんな行動をしでかしておいて、それを後悔するのは遅すぎるのではないか。
「俺…、―――ひなにボールが当たって倒れた時、思わず名前で叫んだ」
―――ひな!
あっ、と思った。
痛みに気を取られて何がなんだか、な状況だったけど、確かに耳に残る晃平の鋭い呼び声。あの声で振り向いた生徒達も多かったのではないか。
あたしも一緒になって深刻な顔をして俯いていると、赤木先生がまたクスクスと笑い始める。あたしと晃平を見比べて、おかしそうに。
「まさか、そこまで取り乱すとは思わなかったわ、天宮くんが。校門のそばって言ったら、テニス部がわんさかいるところじゃない。コート近いし。その皆に注目されてるにも関わらず、鮎川さんを名前で呼んで、抱きかかえてここまで来たわけでしょ」
「…。はぁ」
赤木先生が余った包帯をしまいながら、こちらを向いてにこりと笑った。
「見境なくなるのね。かわいいかわいい奥さんのことになると」
言われたことのない言葉だった。2度3度と口の中で呟いてやっと意味を飲み込めた。理解できればできたで、どう言い返したらいいのかわからないあたしは、なんとなく晃平を見て、更に言葉を失っていく。
長くて筋張った指が軽く口元を覆い、視線は赤木先生ではないあさっての方向へと向けられている。あたしが驚いたのは、耳が赤くなっていたことだ。栗色の細い髪に少しだけ隠れた耳が。頬は赤くないのに、耳が不自然なくらいに赤い。
「…。放っておいて下さい」
苦し紛れといった様子で言い返した晃平を、赤木先生が首をかしげて見つめる。
「―――あれぇ?」
先生のわざとらしい問いが、妙に浮ついた空気に漂って消えた。
<晃平が…、照れてる>
初めて見た。
出会った時からもう10年以上も経つけど、結婚する前も結婚してからも、晃平の照れた顔なんて未だかつて見たことなかった。普通は照れてしまうことだって、晃平は素で成し遂げてしまう人だったから。晃平が照れるようなことなんて、この世にはないんだと思ってた。
思わず口が綻んだ。それを晃平本人に気付かれたくなくて、あたしも口元を覆う。
<…嬉しい>
晃平がする初めての顔を、また一つ、知ることが出来た。
赤木先生は晃平に車で送ってもらいなさいと言ってたけど、とてもじゃないけど送ってもらう気にはなれなかった。だってあんなにたくさんの人に目撃されているのだ。この上車で送ってもらうなんてことになったら、どんな風に騒がれるのかわかったもんじゃない。
足首に負担をかけないように、ゆっくりと歩いて校舎を出たあたしを、校門のそばで美波が待っていた。
試合はとっくに終わって、部員達は片付けをしたり更衣室へ向かっていたりで、コートには人は少ない。
「―――大丈夫? 足」
「うん。ただの捻挫だし。それより、さやかは? 小田桐くんたちまだ部でしょ」
「ああ、うん。さっき着替えにいったばっかりだから、あと20分くらいはでてこないかな。でもいい、あたし今日はひなと一緒に帰る」
美波の目が、笑っていなかった。何か訴えかけるような力を感じて、あたしは沈黙する。
「…あたしさ。わかっちゃったかもしれない」
美波が視線を逸らした。
「―――ひなの、好きな人」
ぎく、とした。
「…先生でしょ。ひなが好きな人」
「―――美波」
「違うって言われても、もう無理だよ。そうだって、確信してるから」
校門に寄りかかって、美波は普段は見せない真剣な表情をしている。
「……。うん…」
あたしの小さな肯定の声に、美波が突かれたように顔を上げた。
「…―――あたしが好きなのは、天宮先生、…だよ」
ずっと打ち明けたかった言葉だった。どんな反応をされるだろう、と思って待っていると、美波の平手打ちが飛んできた。でもそれはとても軽くて、ぺち、と音がしただけの、形だけのものだった。
「なんで言ってくれないの、そういうこと」
見上げた美波の顔は、少しだけ怒っている。少しだけ、悲しげでもある。そんな美波の顔を見たら、今更なのに涙が滲んだ。親友にこんな顔をさせてしまった自分が、ひどく冷たい人間に思えた。
「…。だって、…あたし…」
先生と、結婚もしてるんだよ。
足大丈夫ですか、と、コートから出てきた生徒が数人、声をかけてきた。まったく知らない生徒だった。ラケットを脇にかかえて、心配そうにこちらを見ている。何気ない気遣いに、さっきのあのシーンはそれほど問題ではなかったのかもしれないと、ちょっと思った。
ありがとう、と答えたあたしの目の前で、美波はじっと一点を見つめていた。
「…ずっと言えなかったのはね、美波を騙したいからでも、美波を信じてないからでもないの。あたしが、人に堂々と『結婚してます』って言えるほど、自信がなかったから。だって、美波も知ってる通り、あんな人でしょ。きっと奥さんは綺麗で聡明で、器量もよくて、女らしいって誰もが思うじゃん。― ――でも実際は、こんな8つも年下の、まだ高校生の、しかも何のとりえもない、普通の子供」
校門の外に目を向けると、ゆうくんの車は既にいなくなっていた。
あの後、どういう気持ちでこの場を去ったのだろう。晃平に、みんなの前から攫うように抱き上げられたあたしを見て。
「自信を持てって言われても、不可能だった。先生の気持ちを本当に信じられるようになるまでにも、だいぶ時間がかかった。―――美波になんて尚更、それが事実だなんて言えなかった。…でも美波からしてみたら、あたしがどう思っていようと、…黙っていられたらショックだよね」
コートに西日が差し始めている。コートのグリーンが、白いネットが、高台の審判席が、一つも余すところなく黄昏色に染まっている。片づけを終えて出てくる部員達は、逆光で黒い人影にしか見えなかった。
「…今すぐに納得してなんて言わないから。あたしのことも、どう思ってくれても…」
そこまで言いかけて、あたしは次の言葉を飲み込んだ。どう思ってくれてもいいなんて、思ってない。他の誰に受け入れてもらわなくてもいいから、美波にだけは納得してほしい。そう思っているのに。
「美波が納得するまで、説明するから。今まで黙っててごめん」
何も言わない美波。もしかしたら、もう話をするのも嫌だと思ってるかもしれない。そう思っても不思議はない告白だと思う。―――でも。
<…失えないものは、失わない>
離れていく大切な人を、繋ぎとめておきたい。あたしは欲張りだから。大切なものは、何一つだって失いたくないのだ。
「美波はあたしにとって一番の友達だから」
その時、美波の口から大きなため息がこぼれた。
風船から空気が抜けるように、長く息を吐きながら、その場にしゃがみ込んでしまう。
「美波?」
「………。あのねぇ。―――そこまで言われて、『もう知らない』なんて言って振り切って帰れるわけないでしょ? ひなってほんと自覚足りないよね。自分がどれだけ相手を骨抜きにする言葉吐いてるかわかってないんだから」
「……み、なみ」
「―――もういいよ。どうして黙ってたかなんて、力いっぱい説明してくれなくても。それに、そんな風に思ってたひなは、もう今はいないでしょ? そんな風に卑屈だったひなは」
「…………」
「どうせなら、どうして先生とそうなっちゃったか、そっちを聴きたい。どうして結婚して、今どう思ってるのか。あたしはそれを説明してくれるだけで満足だから」
「美波…」
「だってさ。ずっと不思議だったんだよ。あたし達の誘いをいっつも断る理由。付き合い悪いって愚痴言ったりしてたけど、ひなは何も言わなかったでしょ。あれって、本当は家でご飯を作ってたんだね? 休み時間に料理の本を読んだりしてるのも、先生のためだったんだね」
美波の声は、いつもどおりだ。そのさり気ない優しさがあたしの胸を柔らかく塞ぐ。
「凄いと思うよ。一人で頑張るのって。誰も見てない場所で、一人頑張り続けるのって。それがきっと、ひなの卑屈さを消していったんだね。後ろめたくなんかない。もう十分、堂々としてていいよ」
美波は自分の言ったことに少し照れながら、ふいに顔をくしゃりと崩して、なんてね、と付け加えた。
臆病だった自分には見えなかったものが、今は少しだけ多く見えている気がする。
もらってばっかりなのは、晃平からだけじゃない。美波からだって、こんなにももらってる。あたしは、この人たちにいったいどれだけのものを返しているだろう。返していけるだろう。
失えない。もう一度、さっき思ったことを今度はさっきよりも強く感じた。
また涙が溢れてきそうになって、あたしは美波に頭を下げた。ありがとうは、声にならなかった。
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