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2-9 お帰りなさい
「どうした、ひな。じいちゃんはもう元気じゃが?」
屋敷のインターホンを押すと、出てきたのはお手伝いさんじゃなくておじいちゃんだった。
学校の帰り、あたしはスーパーに寄る前に遠回りして屋敷に行った。それは、おじいちゃんのお見舞いのためじゃない。もちろん、ゆうくんに会ってちゃんと話をするためだ。
二日前の夜、携帯に不在着信でゆうくんから電話があったのは知ってたけど、昨日は校門で妙な取り合わせで会い、まともに話をすることが出来なかった。生活指導に注意を受けたから、さすがに今日は迎えに来てなかった。
我儘とは思うけど、来てなかったら来てなかったでやっぱり寂しいと思う。
ゆうくんは、短期間でまたアメリカに帰ってしまうと言ってた。それがいつなのかはわからないけど、見慣れてしまったあの黒い車が忽然としてないと、もしかしたらもうすぐいなくなってしまうのかもしれないという想像に繋がってしまうのだ。
あんな風にぎくしゃくしたまま、ゆうくんと別れたくない。
―――ふぅーん。麻生にねぇ。
今朝晃平に、ゆうくんに会いに屋敷に寄ると言ったら、物凄い横柄な態度で返された。
晃平の中で、ゆうくんという存在は100%純粋に「油断ならない男」として認定されているらしい。絶対に夕方には帰ってくるから、と食い下がると、晃平は朝だというにも関わらずそこがエレベーターの前だというにも関わらず、泣きそうになるほど濃厚なキスをして寄越した。
腰の抜けたあたしをエレベーターに抱えて入ると、駐車場のある地下1階のボタンを押しながら、
―――じゃあ帰り、屋敷に迎えに行く。
そう言って、戦闘に出向く意思を固める騎士みたいに頷いたのだった。
「うん、おじいちゃん元気そうで何より。―――ゆうくんは?」
あの風邪の一件以来、なにかとおじいちゃんの体に触る癖がついた。今もおじいちゃんのブルーグレーの上着を掴んでいる。こうしていると落ち着くのだ。
「佑介? あいつなら庭でカメラ片手に何か撮ってたぞ。なんだひな、佑介に用事か」
晃平がよく許したなぁ、なんて独り言で呟かれて、あたしはぎくりとした。
おじいちゃんはゆうくんと晃平のいざこざを、直に見てはいないはずなのに、どうしてこうも勘がいいんだろう。
「に、庭だね。ありがと」
どう返していいのかわからなかったので、独り言は聞こえない振りをして、玄関から庭に回った。
生まれた時から16年間ずっと住んでいた家だけど、この屋敷の縁側はいつ見ても長い。小さい頃連れて行ってもらった三十三間堂を見て、この縁側を思い出した。それ以来、あたしは密かにこの縁側を『三十三間堂』と呼んでいる。
庭から縁側に近付いていくと、膝に何かを載せて俯いていたゆうくんが、あたしに気付いてこちらに向き直った。
「…どうした? こんなところにいたらまた怒るぞ、あの男」
ゆうくんの膝の上に載っているのは、何枚かの写真みたいだった。白黒で、店で現像してもらう時のようなサイズより、少しだけ大きい。そして、少し古そうだった。裏が黄ばんでいる。
「…うん」
昔は気付かなかっただけなのかもしれない。
大人は、こうやって笑顔の裏にいとも簡単に本音や真実を隠してしまう。それに気付けるようになったあたしも、そんな大人に近付いている証拠。
「―――ゆうくん、あたしね」
でも、だからって誤魔化したままうやむやにしてしまうのだけは嫌だ。相手がゆうくんであるなら、尚更。
「愛してる人がいるの」
ゆうくんが、写真からあたしへと視線を向ける。
「これからも愛していきたい人なの」
晃平にだってこんな告白したことない。言い切ってから、いきなり恥ずかしくなった。
まるでテレビドラマのワンシーンでも見学しているかのように、ゆうくんは無反応であたしを見つめている。
最初それが、ゆうくんの中ではあたしが思うほど、重大なことではなかったのかもしれないと思った。だけどしばらくして、また気付いた。
やっぱり大人は本音を隠すのが上手い。
「…ひな、これ」
あたしの言葉には何の返事もなく、唐突に写真を差し出してくる。
「…な、なに?」
受け取ると、それは随分と小さい頃の、あたしの写真だった。庭に出したゴムのプールで、着ている服が水に濡れてべったりと体に貼りついているくせに、楽しそうに笑っている写真。不器用というより、枠にはまりきらないという笑顔。
「覚えてるか? ―――この時。まだ5歳だったんだぞ、お前」
見れば、ゆうくんの膝に散らばっている写真は、全部あたしを被写体にしたものだった。
「お前は知らないんだっけか…。俺、これのお陰でカメラマンになれたの」
「―――え?」
「その写真でな、賞をとったんだよ。小さな小さな賞だけど。それでも、大きな第一歩だった」
この写真で、賞を。あたしはもう一度手に持つ写真を見た。
モノクロはその画の奥に詰まっている色んな物を想像させる。色彩だったり、音だったり、匂いだったり。写真の中のあたしの笑い声が、耳元で聞こえてきそうな気がした。
「それを撮ったのが、丁度19歳の夏。大学も退学してフラフラしてた俺が、唯一日本で残せた輝かしい思い出だよ。親父にも勘当同然だったくせに、嬉しくてしょうがなくて、ひなを連れてその写真展に行ったりしてな」
ゆうくんが膝に散らばる写真をまとめて、胸元のポケットに入れる。大切そうに。
「お前は小さすぎて覚えてないだろうけど、あの時俺の味方はひなだけでさ。賞をとった写真を見て、嬉しそうに服を引っ張るんだって。―――『ゆうくんの写真もっと見たい』って。多分、自分をもっと撮って欲しかったんだろうと思うけど。でもそれでも嬉しかったんだ俺は」
自分の背中を押してくれるものが、どんなに小さな手だろうと、存在するだけで貴重なのだということをあの時知った。
「覚えてない本人の前で昔話をしたところで、ひなは余計困るだけだよな」
相槌すら打てずに話を聞いていたあたしは、我に返って首を振った。
「え? いや、そんなことはないよ」
「そう? ―――じゃ、俺のお嫁さんになってくれる?」
「そっ……」
「冗談だよ」
絶句するあたしをおかしそうに見ては、ゆうくんはくすくすと笑っている。
「でも、もう一度会いたかったのは本当。お嫁さんにしたいって思ったのも…それなりに本気なんだけどな」
膝の上で両手を組んで、懐かしそうな瞳であたしを見つめる。その膝は、小さい頃のあたしの特等席だった。
「…でも、そんな風にきっぱり言われたんじゃあ、さすがに連れ去ろうなんてことはできないなぁ」
「…………」
「―――あいつのこと好き?」
「…。うん。…すっごい、好き」
やけに力んで答えたあたしを、ゆうくんがおかしそうに眉尻を下げて笑った。
「17って言っても、立派に大人なんだよなぁ」
そんなことを言って、ゆうくんは一人で笑う。その微笑があたしの入り込めない、いや、入り込ませないという風だったから、それ以上何も言えなくなってしまう。
「…さてと。そろそろ帰ろうかな」
「え? 帰る、って」
「ああ。ここにいても親父に文句垂れられるだけだしな。未だに俺の職業に偏見持ってるらしい。そろそろ窮屈になってきた。せっかく心配してアメリカから飛んで帰ってきてやったってのにな」
勢いつけて立ち上がったゆうくんが、こちらを見てから驚いた顔をした。どうやらあたしが、縋るような目で見つめていたらしい。
「あのなぁ。そんな目で俺を見るなっての。連れ去ってもいいのかって思うだろうが」
「ゆうくん、連れ去るのは駄目だけど、あたしゆうくんのこと好きだよ」
「…んー。好きなんだったら、連れ去ってもOKだろ」
「だから、それは駄目」
「じゃあ好きじゃないんだ」
「な、だからそういう意味じゃなくて…!」
「だったら連れ去らせて?」
「そんなこと俺が許すわけがないでしょう」
思いもよらないところから別の声が聞こえてきて、あたしとゆうくんは思わず目を見合わせる。そして、声のした方を振り返った。庭の入り口に腕組みして仁王立ちする晃平がいた。
「―――ひな、話済んだ? 帰ろうか」
晃平の剣幕が、なんだか異常に険しい。絶対零度よりも温度の低いオーラを漂わせて、静かにゆうくんを見つめている。その後ろにブラックホールでも見えそうなほど、底知れない暗闇を感じる。
「え、あ、あの、晃平」
「麻生さん、やっとアメリカに帰るんですね。向こうに帰っても頑張って下さいね」
さり気なく嫌味も含ませながら、にこやかに言う晃平。
呆然としたのはあたしだけで、ゆうくんも負けじとにっこり笑って晃平に返した。
「ありがとう。でも屋敷は出るけどとうぶんこっちにいるから、また会うだろうけどね」
え?と、晃平の顔が一瞬歪んだような気がした。
たった今ゆうくんがさらりと言ってのけた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「―――ゆうくん、日本に、住む、の?」
「ああ。親父の見舞いってだけで、あんなデカイ車をわざわざ持って帰るかって」
「―――」
「ていうわけだから。ひな、また遊ぼうな。今度は海にでも行こう、二人で」
隣りに立つ晃平の顔を見上げるのが怖い。これほど晃平の表情を窺うことを躊躇したことはない。
「…晃平くん、今はひなの一番かもしれないけど、今後はどうなるかわからないよ?」
絶句している晃平に、更に宣戦布告のようなことまで付け足して、ゆうくんは不敵に微笑んだ。
そして、これ以上もう言うことはないとばかりに、ゆうくんは縁側から屋敷の中へと入っていく。足取りも軽く。
「………。こ、…晃平?」
あたしがゆうくんに恋愛感情は全く持っていないことは、晃平だってちゃんとわかっている。
…はずだ。
「……とにかく、帰ろっ、か」
おずおずと晃平の服の袖を引っ張るが、晃平は動く気配すらなかった。
まだ何か言い足りない、という感じで、ゆうくんが消えた奥の部屋を見つめている。
<…こ、怖い…>
本当の波乱は、実はこれからなのかもしれない。
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