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[番外編]She is my only...
平凡な学校生活を推奨する保健医としては、特に見過ごせない事件だった。
赤木真美は職員室から保健室への帰りがけ、廊下の先の部屋へ入っていく女生徒に気付いた。
<…あら?>
夏の名残をしっかりと感じさせる、秋の放課後。
中間テストが迫っていて、部活もないため4時を過ぎると校舎はがらんとする。教員達も、テストの問題作りでいつもより早めに学校を後にする。真美も理由は違えど、そろそろ帰ろうかと思っていたところ。
<今の…―――確か>
見覚えのない生徒ではなかったから、真美は何気なく記憶を辿ってみる。
肩甲骨をすっかり隠すくらいの栗色の長い髪。女子高生の脚なんて、皆同じような丈のスカートを履いてルーズソックスなので見分けがつかないけど、彼女の脚はなぜかやたらと形がいいので真美は不覚にも羨ましいと思った記憶がある。そして色素の薄い肌と、小さい顔。
<あ、そうそう。2年の鮎川さん>
名前まで思い出して、真美はぽん、と手のひらを叩いた。あれは忘れもしない。
数ヶ月前、真美に非常に強烈な質問をいきなり投げかけてきた生徒である。
―――妊娠したかもしれないって相談、受けたことありますか…?
あれ以来、『清純派美少女』、『祖父は由緒正しき家元兼理事長』、『よって箱入り娘の世間知らずの男知らず』なんてイメージはどこかへいってしまった。
<で、なんであんなとこに用が?>
見れば、ドアの上にかかる表札は『英語教官室』。
2年の英語を担当するのは若松先生と住谷先生と天宮先生。たしか皆職員室で雑談交じりにお茶を飲んでいたはずだが…。
誰もいないことに気付いて、すぐに出てくるだろうと思ったら、なかなか出てこない。不審に思って真美は通りがけ、教官室のドアの前で立ち止まった。
と、話し声が聞こえてくる。男の声と、女の声。二人で何か会話している。
<あら、先生いたのか>
真美は納得してそのまま歩き出そうとした。
「―――今日夕ご飯どうするの?」
「あー。…ごめん、今日はちょっと遅くなるかも。テスト問題作らなきゃ」
「家でできないの? それ」
「家で仕事するとひながいじけるでしょ?」
「ばっ…! ―――誰がよっ!」
―――え?
真美は歩き出そうと持ち上げた足をまた同じところへ下ろした。
<…なに? 今の>
ドアの向こうから聞こえてきた会話に、思わず絶句した。まさか。そんな。
声の主は、先ほど真美が見た鮎川ひな。その彼女と親しげに会話しているのはなんと。
<重大…事件だわ>
―――妻ですか? 年下ですよ。もうかわいい盛りで。
数ヶ月前、何の前触れもなくケロリとして左手の薬指に指輪をはめてきた教師。長くて筋張った指に、シンプルな銀の指輪がきらきらとその存在を主張しまくっていた。いや、そう見えたのはおそらく真美などの見ている側に色んなメガネがかかっていたからなのだが。
とにかく全校にあっという間に「結婚騒ぎ」を広めさせた男、天宮晃平。
その問題の教師がたった今、教え子の女子生徒とありえない会話を繰り広げているのである。
<…不倫? あんなこと言ってのろ気てた彼が?>
天宮のファンだという生徒の前でこそノロケなかったが、職員室内での同僚からの質問ではそれはもう、ごちそうさまと言わざるを得ないほど自慢していたものだった。
―――一年くらい片思いしてたんですけどね。それがなんとか実って。ほとんど力技に近かったですけど、プロポーズは。
そんな力技をやってのけてまで結婚にこぎつけたという女性がいるにも関わらず、この天宮という若い男、早速教え子に手を出している。まさか、あのひなの妊娠疑惑も、相手は天宮?
<…信じられない…やっぱり見た目通りの男なのかしら…>
まだ25歳だ。
30歳の真美からしてみれば、25で結婚する男の心境などなかなか理解できるものじゃない。
それに、どこにでもいそうなマジメそうな教師ならまだしも、あんな男そうそういない。去年この高校に転任してきてから未だに、なんでこんな男が教師なんかやっているのか、と考えたりするほど、教師という職業が似合わない。
もちろん教え上手で頼れるお兄さん、と生徒の間では外見以外の評価も高い。―――だが。
それでもなぜ?と疑いたくなるような、映画俳優のような美貌の持ち主なのである。
学生時代はそれはとっかえひっかえやっていたんだろう、と真美は勝手な先入観を持っている。既婚者だということを知って、だいぶイメージは変わったのに、たった今そのイメージは逆戻りした。
複雑な思いで立ち尽くす真美をよそに、会話は続く。
「だって前の期末の時いじけてたじゃん。『仕事とあたしとどっちが大事なの?』って」
「言ってなぁいっ! もう、何それ? 晃平がめんどくさいって放りだしたんでしょ? あたしは大人しく勉強してたもん」
「そうだっけー?」
「そうだよっ、勝手に記憶をすり替えないでっ」
<なんなの、この会話は>
脱力しそうになるほど、いちゃつきまくった会話だ。恋人同士の雰囲気以外何も感じられない。不倫? そんな不穏で暗いムードがこの会話のどこに漂っている?
ひなの声は、まるで蝶が花の周りを飛ぶようにかわいらしく、天宮もひなの言うことを広い胸でどんと受け止めている、それでいて愛しさが溢れている、そんな感じだ。
普段ちょっとやそっとのことでは驚かない真美も、さすがに動機が狂ってしまっている。
ちら、とドアノブに視線を落とす。…見れば、中は見えないもののドアはちゃんと閉められていなかった。
<…覗きなんて趣味じゃないけど…>
でもこればっかりは、そんなポリシーなどに拘っていられない。
勢いに任せてドアノブに手をかけ、そぉっと中に3センチほど押した。
…中を覗いてから、真美は自分のしたことに激しく後悔した。
<―――あぁ…あたしってほんっと、大馬鹿だわ…>
いい大人がこそこそ覗きなんてするものではない。と、改めて確信した。
3センチほど開いたドアの中から、二人の甘い囁きと忍び笑いが漏れる。
「…う…んっ、―――だめ、帰ってから…っ」
「わかってるよ。…ちょっと、だけ」
机に座らされたひなが、細い両腕を天宮の首に回してキスに応えている。天宮の右手はというと、当然のようにひなのスカートをめくってその脚の間に隠れてしまっている。それこそ、不穏に動きながら。
「やぁ…っ、―――だ、めだってば…」
腰砕けになりそうなほど甘い喘ぎ声を出すひなの首筋を、天宮が舌で辿る。ちら、と見える赤い舌。
<~~~頭おかしくなりそう>
真美は耐え切れなくなって、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜながらその場を後にした。
妙な興奮が真美の体の奥を熱くした。視覚的刺激。…アレはちょっと、まずい。
誰もいない教官室。資料や本の散らばった部屋で、同じように散らかった机に座らされている女、服を着たまま愛撫を施している男。誰かが入ってくるかもしれない、そういう行為をするにふさわしくないストイックな場所での、そういった行為。
<…明日、絶対問い詰めてやるわ>
誰かとセックスがしたい。
結局そんな願望まで行き着いてしまった真美は、そこまでさせた天宮に怒りを感じた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。今日も暑くなりそうですね」
翌日の朝、さっそく職員室に出向いた真美は入り口のそばで天宮と鉢合わせた。
真顔の真美に対し、天宮は爽やかな微笑を投げかけてくる。―――この自然な笑顔。笑うと目尻に少し皺が寄る。キスの巧そうな唇から覗く、綺麗に並んだ白い歯。
<この笑顔に鮎川さんは騙されたのね…>
既に天宮が敵にすら見えてきそうな勢いの真美である。
「…天宮くん、今日授業、何限からでしたっけ」
問い詰めたいことは、さっさと問い詰めたい。前置きも何もなく、真美は切り出した。
「はい? ええと…3限ですけど」
唇をじぃっと見つめてしまう。この口が、ひなの唇を玩んだのか。
「ちょっとお話があるの。二人きりで話したいし、朝の会議が終わったら保健室まで来てもらえるかしら?」
きょとん、とする天宮に、真美は爽やかに微笑した。
<このあたしに性欲掻き立てさせた代償は大きいわよ>
5つも年下の男に。覗き見なんかで。
自業自得ということは棚に上げて、真美はイラつく態度もそのままに職員室を出た。
会議が終わって1限のチャイムが鳴る頃、天宮はアイスコーヒーの紙コップを両手にやってきた。
「コーヒーでよかったですか?」
事務机で呆然とする真美の前に、ことり、とコップが置かれる。
「あ、…ええ。ありがとう」
真美が毎朝コーヒーを飲むのを知っているわけではないだろうが、なぜか、やられた、と思った。
真美の答えに、天宮は軽く微笑してそばの丸イスに座った。
「お話ってなんでしょう?」
こちらもいきなり切り出してきた。真美はコップを机に置いてから、天宮を見た。
ダークブラウンの瞳が、じっと真美を見つめている。綺麗なアーモンド形の瞳に思わず見とれてしまった真美である。
<…だから、違うったら>
「天宮くん、奥様とは相変わらず仲がいいの?」
真美の質問に、天宮がまたきょとんとした。
「…ええ、相変わらずですけど?」
「…。昨日も、奥様とご飯を?」
「? ええ…食べましたけど」
「誰のご飯を?」
「はい? だから、妻の作ったご飯をですけど」
要領を得ない真美の質問に、天宮も次第に眉をひそめていく。
「何が仰りたいんですか、赤木先生」
「…天宮くん。―――あなた昨日、教官室で何してた? 放課後」
真美の鋭い視線に射止められて、天宮は一瞬動作を止めた。質問の意味を自分の中で完全に消化するようにたっぷりと時間をとってから、天宮は真美を見返した。
その口元には、意味深な微笑が浮かんでいる。
「…なぁんだ。―――そういうことですか」
―――なに?
真美は天宮の言葉に一瞬、耳を疑った。―――『なぁんだ』?
「やっぱり鍵はちゃんとかけておくべきですね。まさか誰かに見られてたとは…」
「―――天宮くん? あなたちょっと開き直りすぎじゃないの。仮にも不倫の現場を目撃されたのよ?」
すると、天宮はまたぽかんとして、いつの間にか立ち上がっていた真美を見上げた。
「不倫…? 誰が?」
「だ、誰がって…! 話聞いてるの? ―――天宮くんと、鮎川さんよ!」
思わず声を荒げた真美の声は、誰もいない保健室に響いた。
ちら、と天宮は出入り口の方を振り返ってから、静かな表情で真美を見た。
「…赤木先生は、どうしてそんなに怒ってるんですか?」
「―――え」
「既婚の教師が生徒を不倫相手としてもてあそんでいる、ということについてですか?」
「なっ、何を言ってるの? 全てに決まってるじゃないの。仮にも生徒よ。天宮くんが結婚してなくても許される間柄じゃないことくらい、わかってるでしょう。それに生徒を相手に不倫だなんて、お遊びにしてもほどがあるわよ。あなた教師でしょう。ちょっとは自分の職業に対するプライドとかないの? 遊びで手を出してるだけなら、やめてあげなさい。奥様もかわいそうだし、鮎川さんも傷つくわ。既婚者としての責任を持ちなさいよ」
「不倫なんかしてません」
一気にまくし立てた真美に、天宮はけろりとして言ってのける。
「…はあ? まだしらばっくれるの? あたしは現場を見たのよ!」
「だからそれは、不倫の現場ではありません」
今度は真美がきょとんとする番だ。真顔の天宮に、真美は呆然とした。
「僕の妻は、―――鮎川なんですよ」
だいぶ長いこと、沈黙があった。
何も反応を返さない真美を見ながら、天宮は続ける。
「―――白状します。僕の妻は、2年の鮎川ひなです。嘘じゃありません。同居もしてます。でもこのことは学校には極秘です。彼女の祖父である理事長だけが、知ってます」
「ちょ…ちょっと待ってよ…」
眩暈のする頭を押さえながら、真美は弱々しく停止の声を出す。
「はい? なんでしょう」
「―――じゃ、じゃあ鮎川さんの妊娠疑惑の相手はやっぱり天宮くんで、鮎川さんの言ってた『なくてはならない人』っていうのも天宮くんってこと?」
「そんなこと言ってたんですか。鮎川は」
驚いた風に瞳を見開いて真美を見た。
「ええ…いや、今はそれはいいのよ。―――って、何笑ってるの」
「え? いいええ。…なんでもないですよ」
そうは言うが、天宮の顔はおかしいくらいににこにこ笑っている。妙に嫌味な感じがする笑顔だ。
何かどんどん悪い方向へ進んでいっている気がするのは、なぜだろうか。
コン、と空になった紙コップを机に置いて、天宮が立ち上がった。
「ところで赤木先生。―――先生は、生徒の味方ですよね?」
…嫌な、予感がした。
「…ええ。…そうだけど?」
真美の返答に、天宮はにっこりと笑った。何かを企んでいそうな完璧な笑顔。
「だったら、鮎川の味方でもあるわけですよね?」
「………。ええ。味方よ?」
「よかった。安心しました。―――じゃあ、この秘密をどうすべきか、鮎川の味方である赤木先生なら、わかりますよね?」
「―――!」
「僕のことでしたら、どう言ってくれても構いません。ただ、鮎川に関わることだけは、よぉく考えてから行動して下さいね」
―――この男、悪党。
真美は紙コップを持ったまま、天宮を見上げて思った。
「大丈夫です。俺は鮎川に味方してくれる人間には決して害は与えませんから。赤木先生はただ、昨日のこと今日のこと、誰にも言わないでくれたら済むことです」
「………」
「簡単なことでしょう?」
<…よく言う…>
もう何も言い返す気になれなくて、真美は首をゆっくりと振った。
「…。わかったわ。…とりあえず、黙っておくことにするわ。あたしも…鮎川さんはお気に入りだしね」
彼女はただの箱入り娘ではない。
だってこんな悪党で策略家の、加えて8つも年上の男を虜にしてしまうのだから。
「…ほんとに奥さんが好きなのね」
半ばヤケで呟いた。
それに極上の笑みで言い返した天宮の言葉に、真美はますます脱力するのだった。
「―――あ、赤木先生。さようなら」
放課後、職員室の前で2、3人の友人たちを連れたひなに会った。
今朝天宮に散々釘を刺されたせいか、ひなを見る目がガラリと変わってしまった。
「ああ、さようなら。気をつけて帰るのよ」
はぁい、と笑顔で答えて、ひなは歩いていった。以前保健室にやってきた時とはまるで違う。それに少し、大人びた。顔つきや、雰囲気。相手があの男なのなら、きっともっと、綺麗になるだろう。
友達と笑いながら歩いていく後姿を見送りながら、彼女の成長を見守るのもいいかもしれない、と思った。
彼女はこれから天宮と住む家に帰っていく。そして今日も一緒に夕ご飯を食べるのだろう。
<…結婚か>
もう少し独り身で遊んでいたいと思っていた真美だが。
<そろそろ真面目に考えてみようかしら>
今朝、天宮が笑いながら言った言葉が蘇る。
―――彼女は俺の、お姫様なんですよ。
あんなことを言ってくれる男を見つけるのは、かなり難しいだろうけど。
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