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[番外編]Bloomin'!
目の前で桜の花びらが舞う。
東の方から吹いてくる心地よい風に、目の前の桜の枝がゆらゆら揺れた。遠くから聞こえる波の音にも似たさざめきに、俺は目を閉じる。緑の匂い。葉の擦れる音。子供たちのはしゃぐ声。
閉じたまぶたで、春の日差しを受け止める気持ちよさ。
「晃平。…こーへいってば」
耳元で、風や子供たちの声に重なるように、優しい呼びかけが聞こえる。
<…平和だなぁ>
自分の目に映るものだけでなく、聞こえる音まで平和だ。
「ちょっと…晃平ってばっ。うたた寝しないでよぉ」
物凄い至近距離で聞こえた声に、俺はぱち、と目を開けた。確かさっきまで、桜や青空が眼前に広がっていたはずだが、今目の前を覆うのは一人の少女の影。
仰向けになっていた俺の顔に、ふわりと少女の長い髪が風に揺れながら触れた。
「…………」
一瞬だったのかけっこうな時間だったのか、意識を飛ばしていた俺は、目の前に現われた少女と目が合ってもしばらく喋れなかった。
「もう、人が話してるのに途中で寝ないでよ。ちゃんと人の話聞いてた?」
すぐそばで頬を膨らませてみせるのは、俺の妻である、ひな。
「…ごめん。聞き惚れてた。ひなの声に」
あながち冗談とも言えないことを返すと、ひなは案の定きょとんとし、その後また頬を膨らませた。
「全然聞いてなかったんだね。もういいよ。好きなだけうたた寝してれば?」
ふい、と顔を逸らして、ひなは俺から体を背けてしまった。
パウダーピンクのレースのトップスが、風に揺れてひな自体花のようだ。だけど細身のジーンズにすっぽり包まれた長い脚を両腕で抱えて、思いっきり拗ねたオーラを発散している。
<…かわいいなぁ、ほんとに>
シートに寝転がったまま、俺はしみじみとひなの背中を見つめた。
いつまで経ってもご機嫌取りをしてこない俺にしびれをきらしたか、ひなが突然こちらを向いて、上目遣いで、
「…なんでなんにも言わないのよ」
好きな女の拗ねた顔は、なんでこう愛しいんだろうか。
ここが公園だということも忘れて思わず抱き締めそうになる衝動を堪え俺は、別にィ、と答える。
その笑った顔が気に入らなかったらしい、ひなは何も言わず、軽く俺の頭を小突いた。
春うらら。
一体誰がそんな言葉を言い出したのか別に興味はないが、まさにそんな言葉がぴったりの春休みのある日。
ひなが行きたいと言うので、車で1時間近くもかけて花見へとやってきていた。近所や有名な花見スポットは学校関係者に会う確率が高いので、わざわざそんな遠いところまで出向いたのであるが。
「子供多いねぇ」
そう、子供。
俺はひなの呟きに頷いただけで、言葉は返さなかった。
川を隔てた向こうの広場で、数人の幼稚園児たちが脚をもつれさせながらかけっこをしている。ぷっくりした頬に大きな笑みを浮かべて、それはもう楽しそうに。数メートル離れた桜の木の下では、家族4人で弁当を広げていて、子供たちがはしゃぐ声はここまですぐ届く。
<…あー…。子供>
早く子供と3人でここへ来たいな。
そんなことをさらりと言いそうになって、思わず口を閉じた。
隣りに座るひなは、眩しそうに子供たちを見つめている。
自分と同じ事を考えているようには…見えない。
<…これはとりあえず、胸のうちにしまっておこうかな>
子供がほしい、と思う。
こんな晴れやかな春の日に、自分の妻と可愛い子供と3人で花見なんかできたら、きっと幸せだろう。自分たちの子供も向こうで遊ぶ子供たちと混ざってかけっこをして。それを俺とひなは桜の木の下で見守っている。
ここまでクリアに想像してしまえる自分は、もしかしてわりと乙女チックかもしれない。
「あっ、ねぇ向こうに屋台があるよ。なんか買って来ようか」
ふいにひなが川の向こうを指差した。目をやると、広場のそばに大きな文字でフランクフルトだのフライドポテトだの書かれた看板が並んでいる。
「え? 今昼ごはん食べたばっかじゃないの。まだお腹すいてるの?」
「何よぉ、その言い方。ちょっとのど乾いたからジュース買ってくるよ。晃平、アイスティーでいい?」
「ありがと。できればストレート」
わかった、とひなは笑顔で言い、軽い足取りで歩いていった。
歩くたびにゆれる長い髪を見送りながら、なんだか優越感にひたってしまう。
<…ガキだな。まるで>
出会った時はまだ小学生だった。
ガリガリの少年のような体型に、不器用な笑顔。いつまでも子供だと思ってタカをくくっていられたのも、ひなが中学の制服を着ていた頃まで。
こいつこんなに綺麗に笑えたっけ?
そう疑問に思ったときには、もうすでに落ちていた。
こらえ性がない俺は、ひなが16になるとほぼ同時にプロポーズしていた。彼女になってくれ、を通り越して。どういうわけか、ひなに対して働く独占欲は自分でコントロールできない。
―――指輪が欲しい。
あれは冗談なんだってことを、本当はわかっていた。でもその奥にある本当の気持ちも、わかっていた。
だから言わずにはいられなかった。
誤魔化してしまうことが、俺にはできなかった。
唯一俺が制することができないもの、それがひなに対して感じる全ての気持ち。
ひなはそれを全て受け止め、さらに俺に近付こうとしてくれる。
焦らないで、俺はひなをずっと待っているから、と思っていられたのも、つい最近までの話。
ただ歩いているだけのひなを振り返っていく通りすがりの男たちは、意外に多い。そのひなの隣りを歩ける自分に優越感を覚え、少し余裕をなくすのだ。
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