[番外編]Beyond paradise

1/4

83人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

[番外編]Beyond paradise

 この気持ちに見合う言葉を探そうとする俺は、多分愚かだ。    SIDE:晃平  人には習性というものが備わっている。  それは、時に便利なものであり、時に不便なものでもある。  カーテンの隙間から、白い光が寝室に差し込み床を照らしている。  マンションの7階からは、通りを走る車のエンジン音も聞こえない。  静まり返っている寝室には、規則正しい寝息だけが唯一の音。その寝息をたてているのは、俺の妻である、ひな。  結婚してから俺より早く起きて朝食の準備をしていたひなが、今日は珍しく朝寝坊だ。  <…疲れた、かな>  結婚して、同居を始めてもう4ヶ月。  ひなは、俺が何も手伝わなくても家事全てを一人でこなした。一人暮らしもしたことがなく、それ以前にまだ学生の 身であるひなが、まさかここまでできるとは思わなかった。  だけどそう、知っている。それらにまだ余裕など全くないことも。  <頑張ってるからな>  一人前の、女として、妻として、認められたいから。  迂闊に余計な手出しはできない。ただ俺ができることは、ひなが無理をしていないか見守ることと、それ以上にひなの頑張り を見つめること。  ひなの寝息は、こちらが気持ちよくなるほどゆっくりで穏やかだ。俺はベッドに横になったままその寝顔を見つめた。  ひなは全体的に色素が薄い。目の色も、髪の色も、肌の色も。抜けるように白いわけではないが、たとえば頬がほんの少し ピンクに染まるだけでもわかるくらいの白さ。そして、間近で見るとわかる、肌の肌理の細かさ。  俺は、そうっとひなの顔に近付き、その唇に自分のそれを触れさせる。  キスされても起きないひなに、内心苦笑した。  <…このまま、寝かせておきたいな>  俺がこうして眠るひなにキスをしていることを、本人は知らない。  結婚して、4ヶ月。  ひなが今の生活に慣れるのとは逆に、俺は今の生活に耐えられなくなっていた。  その日の天気は、最悪だった。  道路に薄く水が張るほどの豪雨で、どうしてそんな日の学校帰りに、友人と遊ぶ約束を入れてしまったのかと心底後悔した。  学生時代の友人である藤井一馬は、学校からも近いからと駅に近いバーを指定した。しかしそこは車を留められない。朝からバス を使って行った俺は、見事にスーツを横殴りの雨で濡らした。 「おおい、雨も滴るなんとやらだな」  先にバーで飲んでいた一馬が、俺の登場に開口一番そう言った。 「お前、いい加減にしろ。誰のために濡れたと思ってるんだ」  バーはこじんまりとしていて、客席も10数席しかない。照明がとにかく暗く、カウンターの中のグラスや酒の瓶だけが、 妙に明るく浮かび上がっている。 「いやーこんなに雨が降るとは思わなくてさ。普通に車使ってた方がよかったな」  一馬は現在、カメラマンのアシスタントとして平日休日の不規則な生活を送っている。俺がこうして平日に夜まで働 いていても、こいつは普通に一日中パチンコやらドライブをしていたりする。仕事帰りの俺と違って、一馬は遊ぶ気 力に漲っているようだった。 「いいけど。あと俺10時には帰るぞ」 「えぇ? 何馬鹿なこと言ってんのよ」  一馬が裏声で答えたのかと思ったがそうではない。  挑戦的なツリ目をした一馬の後ろから、ひょい、とのぞく内巻きカール。 「晃平ってば、いつの間にそんな優等生になっちゃったのよ」  そんなからかいとともに一馬の肩口から顔をのぞかせた女に、俺は一瞬固まってしまった。 「…祐希」  そして、ぽつりと名前を呟いた。  祐希と呼ばれたその女は、俺の反応に満足したのか、にっこりと笑うと、 「そーよ。一馬に誘われて付いてきちゃった」 「会いたい会いたいって、うるさかったからな。連れてきたら駄目だった?」  俺はスツールに座って、バーテンに出されたメニューに視線を落とした。凝ったデザインの英字が、少し混乱している頭ではな かなか理解できなかった。 「駄目ってわけじゃないけど。よく付いてこれたな」  どういう意味よ、と唇を尖らせる祐希は、俺の大学時代の彼女であった。俺の性格に負けじと奔放な女で、挙句頑固。 最後は喧嘩別れして音信不通になっていたのだが、なぜ今頃になって。 「こないだねぇ、一馬に写真見せてもらっててさ。晃平の写真もあって、そしたらスーツ着てるじゃん。もうこれはナマで見と かなくちゃと思って」  一馬の向こうの席から、祐希は興味深げに俺をつま先から頭まで観察している。 「やっぱりスーツ着るとハクがつくね。学生時代より大人な感じで」  何が言いたいのかこいつは。  昔の男のスーツ姿などわざわざ見に来る女がどこにいる?  <…めんどくさいもの連れてきたな>  裾を少しめくり、腕時計を見る。7時半過ぎ。 「あっれ~、晃平くん。今時計見ましたね?」 「…。一馬。俺8時半になったら帰るから」 「は? さっきより早くなってんじゃねーかよ。なんだよ、祐希連れて来たのそんなに不快?」  不快な気分になりそうだから、早々に帰るのだ。  カクテルを頼む振りをして、その質問には答えなかった。 「ところで晃平くん。学校はどうだい。かわいい女子高生はいたか?」 「いないね。そもそもそういう身分ではないから」 「いいんじゃない、教師と生徒。俺の知り合いも生徒と付き合ってるヤツいるぜ?」 「いや、結婚してるからって意味」  ころん、と一馬がピーナッツをテーブルに落とした。ころころ、と不安げに転がり、グラスに当たって止まる。 「……え? お前、今なんつった?」 「だから、俺今結婚してるから」  それから、ゆうに5秒は経ってから、一馬が口を開いた。 「…マジで言ってんの? お前が? その年で? もう?」  学生時代の友人にはほとんど結婚したことを知らせていなかった。ごく一部の、本当に仲が良かった友人にだけだ。一馬は ここ半年ほど北欧をカメラマンについて回っていたので、連絡が遅れたのだった。 「相手は? 里桜ちゃん?」  一馬の口からするりと出てきた名前に、俺は違うと首を振る。つい最近まで名前を聞くだけで反応していた俺が、気がつ けば普通に名前を聞き流している。 「違う。…十年来の、幼なじみ」  一馬はそれっきり、何も言わなくなってしまった。 「あたし、聞いたことあるわよ、その話。…幼なじみって、…もしかして8歳年下っていう?」 「そうだよ。今高校1年生。でも俺の中では、れっきとした妻だから」  さらりと答える俺に、祐希も一馬もひたすら絶句している。  俺は出てきたカクテルを一口、二口飲み、クラッカーをかじった。  二人が絶句する理由も、わかっている。わかっているからこそ、俺の心の中は冷静だった。 「…お前、どういうことしてんのか、わかってんのか?」  だいぶ長いこと沈黙があってから、一馬が口を開いた。 「どういうことって?」 「だから…、じゅ、16の少女を嫁にもらうっていうことだよ。お前そんなヤツだったか?」 「そんなヤツってどんなヤツ?」  だからさ、と言って、一馬はまた黙り込んでしまう。 「別に若いからとかそんな理由じゃないよ。ただ、真剣に、彼女が俺の人生で必要だって思ったから結婚した」  一馬のグラスの中の氷が溶けて、音もなく崩れた。 「…いや、違う」  淡い色合いのカクテルを見つめていると、ひなの横顔を思い出した。時折、ぱちぱちと素早く瞬きをする癖のあるひなは 、横からそれを見ると、睫毛が風を起こしそうなほど上下する。  今頃、キッチンで一人夕食を作っているんだろうか。俺の帰りを待ちながら。  そんなことを考えると、どうしようもなく胸が熱くなる。  どうしてこんなところで酒なんて飲んでいるのだろう。そんな気さえしてくる。 「愛してるから、かな」  ひなは、俺の人生で必要か必要じゃないかなんて次元にはいない。  どの感情や理由や考えや、言葉からも逸脱したところで、ひなは俺の中にいる。  <…なんなんだろうな、この気持ち>  胸の奥が熱くなって、締め付けられる。  愛しているという言葉さえも、その気持ちを例えただけに過ぎないような。  一馬はその一言に、少しだけ納得したように浅く頷いた。 「…。ふぅん。…そっか」  満たされてるんだな。  一馬が俺の目をまっすぐ見つめた。俺はその瞳を見返し、一馬の言った言葉を反芻する。  満たされている。  <…ああ、そういう言い方も、あるのか>  形にできないものが、少しだけ輪郭を成していく。 「…そうだな」  笑って答えると、一馬はにこりと笑顔を返してきた。 「お前の笑顔、確かに変わったな。前と。…結婚する前と」  そしてそんなことを言い出す。 「は? …別に整形なんてしてないけど」 「あのなぁ。―――前はそんなに優しい顔で笑わなかっただろってことだよ」 「…優しい、顔…ねぇ」 「自分じゃわからないだろうけどな。前よりいい男になってると思うわ」  諦めるしかねーな祐希、と一馬は、さっきから黙り込んでいる祐希に話しかけた。祐希は怒ったような目で俺を見つめ、無 言で目を逸らした。そんな祐希を見ていると、不意に自嘲気味な笑いが浮かんだ。 「…いい男にはなってねぇよ。全然」  ぽつりと呟く。一馬がなんでだ?という顔をして俺を見た。  そうだ。俺はいい男ではない。もしかしたら、ひなを傷つける悪い男かもしれない。  <…限界、きてんのかな>  結婚から4ヶ月。  一晩中抱きたくて抱きたくてしょうがない女が、俺のすぐ隣りで眠るという拷問。  ひなの気持ちを大事にしたいという決意は、そろそろ崩壊を迎えようとしている。  本当は今朝だって触れるだけのキスじゃなくて、ひなが目を覚ますくらい強く唇を押し付けて、舌を絡ませて、ひなの唇を 味わいたいと思った。あんなことを続けていたら、確実に決意は揺らいでいく。  だけどやめられないのは、ひなの唇があまりにも柔らかいから。気持ちがいいから。  わかってはいたけれど、俺は本当にこらえ性がない。 「…じゃあな。俺もう帰るわ」  黙りこんだ一馬たちに笑顔を作って席を立つ。8時半はまだきていない。だけど、ひなの顔が今は見たい。 「―――あ、おお。…悪かったな平日に」 「いや、会えてよかった。今度は昼間にしてくれ」 「おうよ。そん時は奥さんも連れて来いな」  ああ、と答えた後、終始無言でグラスを見つめていた祐希に、じゃあな、と声をかける。すると祐希はいやいやとい った感じで、じゃあね、と返してきた。変わらず表情豊かな祐希に、俺は苦笑した。 「おかえりー…って、え!? 晃平、びしょ濡れ…っ」  家に帰ると、出迎えてくれたひなが俺の格好を見て、慌ててそう言った。 「ああ…思ったより雨ひどくてさ。先にお風呂入ろうかな」  新調してまだ数回しか着ていないスーツだったけど、ここまで派手に濡れてしまえば悔しがる気も起きない。 「あ、うん! って、ゴメン、まだお湯張ってる途中なんだけど…」  雨を吸って重くなったジャケットを脱がせてくれながら、ひなが申し訳なさそうに呟く。 「あーいいよ。シャワーで。タオルと部屋着持って来てくれる?」 「うん、わかった。脱衣所に置いておくね」  ジャケットとネクタイを抱え、ひなは笑顔で部屋の奥へと入っていった。その背中を見ながら、しみじみする。  …結婚ていいなぁ。  <…駄目だ俺、骨抜きだわ>  そんな自分も、ちょっと悪くないかもと思ってしまっているだけ、始末が悪い。  鼻歌まで歌いそうになる自分に我に返りながら、俺は服を脱いでバスルームに入った。  それから数分後。  ボディーソープが切れていることに気付いて脱衣所に戻ると、丁度着替えを持って来てくれていたひなと鉢合わせた。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加